#01 道草食いのシンデレラ【前編】
【天地は広しといへど 吾がためは狭くやなりぬる
日月は明しといへど 吾がためは照りや給はぬ
人皆か 吾のみやしかる
わくらばに人とはあるを 人並に吾れもなれるを】
【世間を憂しとやさしと思へども
飛び立ちかねつ鳥にしあらねば】
「空や大地は広いが、私にとっては狭すぎる。
太陽や月は明るいが、私のために照ってはくれない。
みんな同じなのか。それとも私だけの仕打ちか。
ただ人に生まれ、人並みに生きてきただけなのに」
「この世を生きることは耐えがたいほど苦しい。
しかし私は鳥ではないから、飛び立って逃げてしまうこともできないのだ」
──山上憶良「貧窮問答歌」
(『万葉集』巻五 892・893)より
──空から大金が降ってきたらどうしよう。
例えば、一億円くらいの。
拾い集めたら何に使おうか。思いきって家や自動車を買うとか、投資や貯金に回すとか。資格を取るのも、趣味や交友に注ぎ込むのもいいな。
たとえば花ざかり現役キラキラ女子高生のあたしだったら真っ先に──お金を返す。
【……我々は君の育成に約三百万円も費やしました。売れ残ったグッズの製作費、レッスン料、スタジオ代、衣装の調達費などの総計です。来月末までに指定の口座へ振り込まなかった場合、支払いを求めて民事訴訟を起こしますので、そのつもりでいるように】
無機質なスマホのメッセージ画面に、ヤニ臭い社長の面影が浮かぶ。画面の電源をオフにすると、そこには星のない東京の夜空と、光のないあたしの瞳が映り込んだ。
さらりと吹き抜けた夏風に、癖の強い長髪が揺れる。新月の暗がりにビルや街灯の光が浮かんでいる。自宅の最寄りに広がる深夜の運動公園は、行き場のないあたしに与えられた最後の楽園だ。だって部屋着同然の薄い格好で出歩いても、誰にも見咎めたりしない。そんな心地のよい静寂に墨汁を垂らす思いで、ばーか、とあたしは独り言ちた。
女子高生が用意できるわけないじゃん、そんな大金。
こっちは一日一食、売れ残りの菓子パンでしのいでる有様だってのに……。
きゅるる、と腹の虫が同意の声を上げて、あたしはベンチに仰臥した。今朝から何も食べていないせいだ。いっそ野草でも毟って頬張って、ひもじい気分を紛らわせたかった。
お金がない。
収入もない。
あたしには何もない。頼れる家族も、誘ってくれる友達も、せっかく覚えたダンスや愛嬌も全部なくした。あるいはこの手で捨ててしまった。捨てられなかったのはあたしの命と、喉に染み付いた歌声だけ。
はたとこぼした溜め息が、喉を通って声に変わる。あたしはもそりと起き上がって、もういちど深呼吸を試みた。涼やかな夜風が肺をくぐって、喉が少し楽になる。どうせ誰も見ていないんだし、歌でも歌って気を紛らわせようかな。何気ない思いつきをあたしはすぐに実行へ移した。今はなんでもいいから、鬱屈した思考を遮る手段が欲しかった。
立ち上がり、胸に手を当てて「あ、あー」と喉の調子を確かめる。
脳裏の片隅で点灯した歌詞表示装置が、Aメロの冒頭を表示する。
たんたんと爪先でリズムを取れば、無音の伴奏が合流して和音をなす。歌い出しのタイミングは身体が覚えている。自然と音程が乗り、声が歌へ変わってゆく。
《♪ねぇ 息殺してない?
涙拭いてない?
思うままになんない世界の底で
明日は明日の風が吹くって
気楽な言葉も聞こえなくてさ》
あたしは迷いなく声を張り上げた。喉が擦り切れるほど歌い続けてきた、あたしの持ち歌だった。広げた手のひらを胸に押し当てれば、びりびりと物理的に声が伝わる。あの頃とは違う、かすれ気味の大人びた声質。それでも確かに、それはあたしの商売道具だった。
あたしは「元」アイドルだ。
歌を歌うことがあたしの生業だった。
つい先月までの話だけど。
《♪閉じた心に鎖かけてちゃ
陽の光だって差し込まないよ
家を飛び出そう 街へ繰り出そう
シケた顔してちゃ勿体ない ない ない》
活動を始めたのは去年の春、高校入学と同時のタイミングだった。過酷だったトレーニングの日々をねぎらわれるように客は増え、売上も増え、二年生の夏に差し掛かる頃には数千人のファンを抱える大所帯となっていた。教科書通りのシンデレラストーリーを駆け上がる、次世代トップアイドルの筆頭候補──。そんな絶頂期の最中、あたしはユニットを脱退した。
穏便な辞め方だったわけじゃない。事務所からの脱退勧告、つまり事実上の除名処分だ。それでも腹の虫が治まらなかった事務所は、あたしに違約金という名の償いを求めた。勝手にユニットを辞め、かけた経費を無駄にした罰。その総計が三百万円というわけだ。
《♪嫌いな自分になんて Say Goodbye
きっと未来は変えてゆける
弾け盛りの笑顔で Say Hello
きっと笑えばケ・セラ・セラ
胸いっぱいの Happy が君を待ってるよ》
胸いっぱいのハッピー、だって。浮ついた歌詞に自嘲のつばが混じり合って、あたしの口のなかは苦味で満ちてゆく。あたしを待っているのは莫大な違約金と、先の見えない明日だけだ。
歌うだけじゃ生きてゆけない。
それが、あたしの芸能人生の結論だった。
歌い終えた途端、頭から飛んでいたはずの空腹がズンと押し寄せてきた。せっかくの努力を台無しにされ、ぐったりとあたしは膝に手をついた。あたしの都合なんか知らずに鳴き続ける腹の虫を、いますぐ力づくで黙らせなければ気が済まなかった。
見れば、背後の花壇に色とりどりの花が植わっている。──花って美味しいんだろうか。虫が蜜を吸いに来るんだし、やっぱり甘いのかな。ぼんやりした頭の中で、非常識な思いつきがとりとめなく回り始める。
胸いっぱいのハッピーとか要らない。
なんでもいいからモノを口に入れたい。
空っぽの胃と頭には、もう物を考える力は残っていない。どうせなら美味しそうなのを探そうと、状態のいい一本を選んで指先で摘まみ上げ、引き抜いた──刹那。
「──あ、あのっ」
上ずった声とともにあたしは正気に戻った。
摘んだ花を口元へ持っていったまま。
顔を上げると、見知らぬ女の子があたしを覗き込んでいた。凍り付いたあたしを彼女は無垢な目つきで見回して、花を見て、絶句した。
「いま、それ、食べようとして……」
「違うよ!」
あたしは真っ赤になって叫んだ。嘘をつくな、何も違わないくせに。
「でも今、その、口に運んでましたよね」
「見間違いだから! に、匂いとか愛でてただけだし!」
「でもでも、えと、その葉っぱ天ぷらにしたら美味しいやつですしっ。どんな野草も天ぷらにすれば食べられるってテレビの芸人が……」
女の子もテンパって頓珍漢なことを言い出した。いったいどんな転落人生を送っていたら、雑草を天ぷらにするなんて発想が生まれてくるんだ。一ヶ月○万円生活か。渾身の突っ込みを口にしかけたその瞬間、嫌な予感に全身を包まれてあたしは固まった。
「あんた、いつから、そこに」
小声で問うたら、女の子は「三分くらい前から?」と小首を傾げた。
「じゃあ、さっきの歌も……」
問い詰める声が震えた。女の子が首を振ったのは見ていないけど、どう考えても答えはイエスだった。憂さ晴らしの全力の熱唱を、あたしは彼女に聴かれてしまったのだ。
最悪。
あたしの人生、もうおしまい。
アイドルは辞めさせられ、食費も払えないのに違約金は課され、ヤケを起こした姿を見知らぬ女の子に見られ、おまけに歌まで──。
「あ…………」
失望しきった途端、意識が遠のいた。ふらふらとベンチに座り込みながら、女の子が「大丈夫ですか!」と叫ぶのをおぼろげに聞いた。しおれた花と柔軟剤の匂いに、あたしの五感はすっかり白濁した。
我に返ったあたしが最初に見たのは、年季の入った四角い蛍光灯カバーだった。
居間の一角に布団が敷かれ、あたしはそこに寝かされていた。古びた卓袱台と戸棚、本棚、それからテレビくらいしかない簡素な風景だ。あの女の子と同じ匂いがする。
「あ、起きたんですね!」
女の子の声がした。振り返ると、エプロン姿の女の子が向こうのキッチンに立っていた。コンロの上ではフライパンが湯気を立てている。女の子は器用な手さばきで中身をどんぶりに移して、あたしのもとへ運んできた。
「びっくりしちゃった。急に目の前で倒れるから。身体、もう大丈夫ですか?」
「……大丈夫です」
うつむくあたしに笑いかけて、女の子はどんぶりを置いた。
「よかったら食べてください。お腹すいてたんですよね」
「ここ、どこですか」
「わたしの家です。駒田記念公園の近所なんです。目を覚ましそうになかったので、頑張っておんぶして連れてきちゃいました」
えへへ、と女の子は頬を掻く。駒田記念公園というのは例の運動公園の名前だった。焦点の定まらない目でスマホの地図アプリを見ると、現在地を示すアイコンは公園の西口を出てすぐの場所、あたしの住むマンションから目と鼻の先に立っていた。
おんぶして連れてきたって、そんな簡単に……。こういうのって拉致とか連れ去りって言うんじゃないの。垂れ込める疑問の山をひとまず脇へ置き、どんぶりを覗き込む。艶やかな卵と薫り高いサバの味噌煮が、ご飯の上で溶け合っている。
「有り合わせですけど。サバの味噌煮缶があったので、卵とじ丼にしてみました」
「本当に……いいんですか」
「もちろんです!」
女の子は菩薩のような笑顔でうなずいた。
差し出された箸を指先に挟むと、立ちのぼった湯気がパックのように顔を包み込む。目が熱くなって、あたしは懸命に箸を動かした。捨てる神あれば拾う神あり。この大都会にはまだ、こんなあたしに情けをかけてくれる人が残っていたんだ。
「わたしがいなかったら行き倒れてましたね」
女の子が鼻息をふかす。すこし塩辛い卵を飲み込んで「うん」とうなだれると、おもむろに彼女は身を乗り出した。
「──ところでさっきの歌のことなんですけど」
あたしは含んだ白米を噴き出しかけた。
「フロントサイド・レイナスの〈Brand New Me〉ですよね? わたし聴き間違えてないと思うんですけど」
「……どこから聴いてたんですか」
「全部です! バイト終わりでクタクタで、ぼんやりできる場所を探して公園を歩いてたら、たまたまあなたの歌が聴こえてきたんです。びっくりしちゃった」
こっちの台詞だ。ぜんぶ聴かれてしまっては誤魔化すこともできず「合ってます」とこうべを垂れた。女の子は「やっぱり!」と快哉を上げた。
「聴いたことあるって思ったんだぁ。わたしレイナスのファンなんです!」
懐かしい名前の響きに、あたしの四肢はいよいよ硬直した。
Frontside Reinas。
芸能事務所デッドヒート・プロダクション所属の現役女子高生アイドル。
あたしの所属していたユニットの名前だ。
「歌、とっても上手なんですねっ。けっこう歌いこなすの難しい玄人向け曲なのに、高音域も含めて一つも音を外してなかったもん」
「まぁね……」
「わたし、レイナスの歌はどれも大好きなんです。歌詞もそうだけど、華やかで元気な歌声にいつも力をもらえるから。特にセンターの『リータ』が本当にもう大好きで、円盤もグッズもたくさん買っちゃって! 握手会とかサイン会にも行ってみたかったなぁ」
うっとりと彼女は目を閉じる。聞き捨てならない名前に釣られて顔を上げると、居間の隅に設けられた祭壇のようなグッズ置き場が目に入った。【リータLOVE】【世界一かわいい】【投げchuして♡】──。心が毛羽立つような手製うちわの数々に、胸が早鐘のように鳴り始めた。リータというのは、他ならぬあたしのアイドル時代の芸名だった。
なんてこった。
あたしは今、自分のファンに身柄を保護され、ご飯を恵まれているのか。
頬張ったばかりの卵とじ丼が胃からこぼれてしまいそうだ。どうしよう、どうしよう。正体に勘付かれたらどうなるか、想像するだけでも肝が縮んでゆく。きっと脱退の件を責められ、貢いだ金を返せと迫られる。そんなことをされたらあたしは完全に破産だ。違約金はおろか、先月ぶんの電気代すら滞納しているっていうのに──。
「リータ、元気に生きてるのかな」
女の子の声があたしを現実に引き戻した。
彼女は頬杖をつきながら宙を見つめていた。口元には笑みを引いたまま、伏せた睫毛の下で、つぶらな瞳がすこし潤んでいた。
「脱退処分のショックは今も癒えないし、リータの歌声が聴けないのはやっぱり寂しい。でも、そんなのファンのわがままだもんね。リータがどこかで元気でいてくれてるなら、他には何も望まないや。元気で、ちゃんとご飯も食べて……幸せになっててほしいなぁ」
「年収何百万、何千万も夢じゃないんですよ?」
▶▶▶次回 『#02 道草食いのシンデレラ【後編】』