30:魔法陣(サークル)
・前回のあらすじです。
『和泉とクロが、最後のミーコ候補に追い駆けられる』
うしろになびく黒い法衣が、三条の爪に引き裂かれる。
ベンガルトラの黄色い前脚から突き出た天然の矛が、物理攻撃に対して耐性のない法衣に細長い穴をあけた。
「うううおおおおおおおっ! こ、殺されるうううう!!」
クロを抱えたまま前に飛びこんで、和泉はトラの一撃をかわした。片腕のロンダートで後方をかえりみる。
トラはすかさず跳躍し、和泉の頭上から――全身をとらえようと、のしかかる。
「マスター。あいつを人間のすがたにすることできないの?」
右腕に抱えたクロから、のんきな声がかかった。和泉は横に跳んで、落下するベンガルトラをかわす。小鼻を親指でこすり、嗅覚をきかせる。
……魔力のにおいがした。
このトラは、だれかの使い魔ということになる。
「やってみる――しかないか。このまま人のいるところに出すわけにもいかないし」
ぽいっ。和泉はクロをすてた。身がかるくなり、動きやすくなる。クロは地面ででんぐりがえりして、這うように主人のそばからはなれた。
洋館のちいさな庭――アーチ状の門扉のまえで、トラの巨躯が、和泉にターゲットをさだめる。
和泉はパーカのポケットをさぐった。普段【学院】で教鞭を取る際に、ついうっかり授業で使っていたチョークを上着にいれてしまうことがある。そのくせを期待して手をいれたのだった。
というのも。まさか外で白墨をつかう機会があるとは想像しておらず、意識的に準備なんてしてきていなかったのだ。
(やっ。やばい……)
指さきがポケットのなかの空洞をひっかくのを感じた。
和泉の首筋に冷や汗がながれる。
(たのむっ。たのむ! 数日まえのオレ! うっかりしててくれ! ポケットに、講義室の黒板からうっかりチョークをパクッててくれええ!!)
自分のぼんやりぶりに祈りつつ、和泉は弾丸のごとく跳んでくる獣を、地面にころがってかわした。
動物すがたの使い魔が、きれいに門の手前に着地して、すぐさま小石を散らして和泉に馳せる。
にげたい気持ちをおさえつけ、和泉は身を低くしたまま、レンガブロックの舗装路にへばりついた。
指さきに見つけた。硬い感触。
それを引き抜き、自分の足もとに一閃させる。
赤と白の市松模様にデザインされた路面に、まっしろな線がはしった。かくして、石灰の一文字が、和泉とベンガルトラの両者を仕切る。
するどい銀の光が、半透明の壁を構成した。
シャボン玉のようにしっとりと、突撃するトラを魔力の幕が受けとめる。
魔法陣による簡易の結界だ。
古典魔術のひとつで、魔術師の力量により、強度や構成のはやさ、成功の可否が変わる。
――この世界で一般的な魔法陣は、本来ルーン文字などの記号を組みあわせ、正しい文言を成すことではじめて効果を発揮する。
だが。腕のたつ魔術師であれば、単純な円をつくるだけで魔術の効果をひきだすことができた。
ただしその際には、発現できる魔法の能力はかなり限定的なものになる。
このひよわな魔力のヴェールのように。
……じまんだが、そのへんの魔術師であれば、一本線で構成しただけの未完成の魔法陣では、なんの効果も発揮しない。ただのらくがき……。魔術的に「不発」で終わっただろう。
あるいは。なまじ築くことができたとしても、怒りに満ちた獣類の攻撃をふせぐほどのものは構成できなかっただろう。
あっけなく、あいての猛攻に突きやぶられるのが関の山だ。
その点でいえば、和泉もダテに【学院】の教授をやっているわけではない。
魔術師としての腕前には、彼は【学院】の外の連中にであれば、カンタンに負けないだけの自負があった。
「ぐううるるるるるるる」
白線のむこうでトラがうなる。
ぐるりと黄色と黒の縞模様のからだをめぐらせる。
和泉は魔力の仕切りを迂回しようとするトラのまえで、右足を軸に、全速力でぐるりと自分のまわりにチョークを一周させた。
うおおおおおおおお! と心のなかでわめきながら。
がりがりと地面に白線をひいて、自分を円のなかに閉じこめる。
トラの身体が、ふたたび和泉のほうをまっすぐにとらえた時には、ちいさくてすこし透けた砦が和泉をまもっていた。
ここまでやって、はじめて、和泉は自分の人さし指と親指のあいだに、石っころくらいのサイズに使い潰されたチョークがあるのをみる。
(よかった。ありがとう。授業中のオレ。ずぼらでいてくれて)
仕事中――そして仕事後の自分のものぐさな性格に、和泉は心のなかで手を組みあわせて感謝した。
トラがサークルの外でぐるぐると移動しはじめる。
和泉をかこう壁に、あっちこっちの方角から頭突きする。
魔力の幕は、うすく弾性のある表面で、トラの攻撃の威力を吸収した。
外に押しかえす。
「マスター。はやくそいつ、人間にしちゃいなよ」
「ああ――」
円のそとで、万が一の事態にそなえて身を伏せているクロから催促され、和泉はうなずいた。
あくまで自分だけをねらっている。ひるね中に攻撃されたのがよっぽどイヤだったらしい。……不可抗力なのだが。
トラに、両手をむけて呪文を唱える。
「皮を着る、くまの遠吠え!」
人化と動物化を、強制的に切りかえる魔術をはなつ。
サークルの外のトラが、一声鳴いた。
ぼうんっ。
くぐもった音をたてて、まっしろな煙が発生する。獣の全身をつつみこむ。