29:逃げるんだよおおおおお
・前回のあらすじです。
『和泉が、みどりの髪の少年の魔法で、どこかに殴り飛ばされる』
ぼよんっ。
和泉は腰をしたたかに打った。
なにか柔らかい――弾力のあるものの上である。
かるくはずんで、広い舗装路に顔面から落ちる。
尻を天に突きあげた情けないかっこうで、「ぐぐぐ……」と突っ伏したままうめく。
「くっそ~。なんなんだあのガキは」
両腕にちからをこめて身を起こす。
横をむくと、レンガブロックで整地された敷地に一軒の洋館が建っていた。
エントランスに獣の置きものが横たわっている。
「学生寮……か?」
和泉のそばに、烏が遅れて到着した。
鳥のすがたから黒髪の男の子に変化したクロが、屋根のてっぺんで風見鶏のキィキィいっている屋敷を見あげて言った。
「合宿所じゃないかなあ。サークルのメンバーとかで使うような」
「あー。サイズ的にそうだよな。いくら魔術で空間が拡張できるつっても、あんまりちいさいとこに大きいスペースはつくれないもんな」
和泉たちが下からながめている洋館は、一世帯がのんびりくらせるほどの規模があった。
だがひとつの学校の生徒を長期的にあずかると想像するには、いささかむりがあるだろう。
そんな大きさの家屋だ。
クロが視線を下にもどして、あっけらかんとした声をだす。
「でも。飛ばされてよかったよマスター」
「やめろよ。けっこう痛かったんだぞ。運よく置きものがなかったら……ケツ割れてたぞ」
「しょーもないこと言わないでよ。ってか置きものってなに? ボク、この子のことマスターに報告しようって思ってたんだけど」
「あ? この……。……こ。……」
和泉はクロの指先を追って、エントランスのまえを見た。
三段の階段の一番下に、和泉を受けとめた物体が、あいかわらずねそべっている。
ぎょろ。
とそのオブジェクトの目が開いた。ヘイゼルナッツの色をした、険しい光沢をまとうつぶらな双眸。
あぜんとくちをあけて立ちつくす和泉のまえで、むくりと、金と黒の縞模様が、ふわふわの毛なみをつやめかせて起きあがる。
猫科特有の頭部のうえで、獣類の耳が、神経を研ぎすませるように動いていた。
「クロ……。こいつは?」
となりの少年に聞いたものの、和泉はすでに答えが出ていた。
虎だ。
日本にいたときに、母親にだだをこねてつれていってもらった動物園で見たことのある。ベンガルトラ。檻のまえに、子どもむけのイラストとポップな書体で、「きけんなので柵のなかには入らないでください」と書かれていた。
猫科で最大の動物。
ゆったりと身を起こして、頭をひとつ振り、こちらのようすをうかがうように、目のまえのトラはひたひたと歩く。
全長一四〇センチほどのその体格は、果たしてトラとして「小柄」なのかどうか。
動物園の説明欄をこまかく読んでいない和泉にはわからなかった。
今度、図鑑でもひらいて調べてみようと思う。
生きて帰れたらの話だが。
「がああああああああ!!!!!」
トラは雄叫びをあげた。
おひるねしていたところを、空から見知らぬ男にしり攻撃され、激怒しているのだ。
空気をびりびり震撼させる咆哮に、和泉は鼻水を垂らしてしばらく放心した。
過去にモンスターに遭遇した時より逼迫した……心臓をワシづかみにされたような恐怖が、全身の血流を麻痺させて思考をストップさせる。
「マスター。あいつ、なんか襲いかかってきそうだけど――」
クロがあいてを指差して、和泉の法衣のすそを引っぱった。
ベンガルトラが身を引きしぼり、声をあげて、和泉たちめがけて飛びかかる。
「にっ……逃げるんだよおおおおおおおおお!!!!」
クロを脇に抱えあげ、和泉はまわれ右をした。
獣の鼻息と足音が背中にせまるのを感じつつ。出口をめざしてダッシュする。