契約その268 ハル先生のsign会!
今から数ヶ月前の話である。
「これが今週の原稿です」
藤香は、担当編集に今週の「初恋エターナル」の原稿を送信した。
すると、原稿を確認した担当から電話がかかってきた。
「もしもし?黄桃先生ですか?今週もまた面白いですね!」
ハキハキと感想を言う担当編集。
今年大学を卒業したばかりの新人で、年下のはずの藤香にも敬語で話してくれる、礼儀正しい人である。
一通り感想を言った後で、担当は出版社からの提案だとしてある案件を持ってくる。
「僕のサイン会ですか?」
「そうです!千人限定で!やるかどうかの決断は先生にお任せしますので!それではまた!」
担当はそう言い残すと、電話を切った。お喋り好きで一方的に話すクセがあるのが欠点である。
「サイン会か……」
藤香はそう呟きながら、イスに勢いよく腰掛ける。その勢いで執筆に使っているオフィスチェアが半回転した。
サイン会をやるか否か。正直藤香は迷っていた。サイン会をやるという事は、少なくとも千人のファンに顔を見られるという事である。
漫画家「黄桃ハル」の人気の一因に、性別年齢経歴その他一切が不明という「神秘性」というものがある。
サイン会で顔見せするとなると、それが失われる可能性があるのである。
「それって、本当に大丈夫かな」
一人で考えていてもらちが明かない。藤香は、ユニ達に相談してみる事にした。
リビングに行き、とりあえずいたメンバーに話をする。
「成程……じゃあまず、キミがどうしたいかを教えて欲しいな」
事情を聞いたユニが柔らかい口調で言う。
「……サイン会を開く事で喜ぶ読者はいると思う。でも、顔出しはしたくない。僕はわがままかな」
素直に話した藤香に、ユニは笑顔で頷きながらこう言う。
「だったらそれを担当編集に伝えればいい。サイン会はしたいけど顔出しはしたくないって。何とか便宜を図ってくれるんじゃないか?」
「黄桃ハル」は出版社の中でも一番の稼ぎ頭である。確かにそうしてくれる可能性はある。
「わかった。頼んでみる」
藤香はそう言うと、スマホを片手に自室へ戻っていくのであった。
そして今に至る。ユニ、ルーシー、由理、メイの四人は黄桃ハルのサイン会が開かれる徐氏堂会館を訪れた。
千人限定のサイン会だが、ミズキが運でどうにかしてくれたお陰で4人分のチケットが手に入った。
「何ならいつでもサイン貰える立場のおれ達がわざわざ行くのもなんか変だけどな……」
微妙そうな顔をするルーシー。
だが、藤香の晴れ姿は見たい。だからユニは、当日予定が合う彼女達と一緒に訪れたのである。
会場となる大ホールは、学校の体育館ぐらいの広さに吹き抜けが設置されている。
黄桃ハルもとい藤香は、ステージ上に置かれた業務用の机とパイプイスに座っていた。
「でもさ、いくら顔見せしたくないって言っても……」
「うん。アレはないんじゃないかな……」
ステージ上の藤香の姿を見て、由理とメイが呆れながら言った。
結論から言うと、藤香の「サイン会はやるが顔出しはしたくない」という要望は通った。
だが、ファンとの交流も目的とするサイン会でどうするのか。出版社が出した結論はこうである。
藤香はウサギの着ぐるみに身を包んでいた。遊園地で子供に風船を配っていそうな着ぐるみである。
顔出しをせず、なおかつファンとの交流も両立する方法。それが藤香に着ぐるみを着せるというものだった。
「黄桃ハルは覆面作家である」という事はすでに知られているので、これ程の無茶も受け入れられる。
だがこれには、手元が見えず肝心のサインが書きづらいという欠点があった。
それを補うべく、藤香はこの時の為に目をつぶってでもサインが書ける様に練習した。
自分にここまで譲歩してくれるのだから、それぐらいの練習はしないといけないという藤香のプロ意識である。
ただ、ウサギの着ぐるみがパイプイスに座って慣れた手つきでサインを書く様は、いささかシュールである。
だがサイン会は滞りなく進み、いよいよユニ達の番が来た。
「トウ……いやハル先生、いつも応援してます」
たどたどしくも挨拶する由理。
別に彼女だけに限った話ではないが、藤香もとい黄桃ハルとユニ達の関係は秘匿されている。
だからユニ達も、この場では単なる作家とそのファンという関係に終始するのである。
由理はサイン色紙を取り出し、書いて欲しい名前とキャラクターを言う。
ウサギの着ぐるみ姿の黄桃ハル先生は、慣れた手つきでサインを書いていくのであった。
「ありがとうございました!」
頭を下げてお礼を言う由理。
このまま、何事もなく終わるはずだった。
あの時まで、この場にいる誰もがそう思っていただろう。
「次はおれだな」
サインを書いて貰おうと、ユニが歩き出したその時である。
「!?」
「何か」を感じ取ったユニは、ハルの元へ全力でダッシュし、彼女を思い切り突き飛ばした。
「え?」
何が起こったかわからないまま、パイプイスから転げ落ちるハル。
その拍子に着ぐるみの頭部分が脱げて、藤香の顔が顕になった。
その次の一瞬、耳をつんざく様な音が辺りに響く。
その音が「銃声」だった事に気づくのには、数秒の時間を有した。
その数秒の間に、銃弾はユニの胸を貫通していたのである。
辺りに飛び散る鮮血。近くにいた藤香も赤く染まる。
「……え?ユ……ニ……?」
顔面を血で染めながら放心状態になる藤香。
「ごめん……おれの血で汚しちゃった……でも無事で……よかっ……た」
そう言い残すと、ユニはそのままステージ上に横たわるのであった。
次にその場にいた人達が我に返ったのは作業スタッフの女性の叫び声が響いた時だった。
「人が撃たれたぞ!」
「おい救急車!」
「AED持ってこい!」
我に返った人達の声が響き始めた。
「あ……ユニ……」
放心状態の藤香達を見て、ルーシーは己を恥じた。
(くそォ!油断した!事前に防げた攻撃だぞ!)
だが、ユニが被弾した場所は直前まで藤香がいた所である。藤香をターゲットにしていたのだろう。
仕留め損ねた以上、二発目が来る可能性があるのだ。
(それは絶対に防ぐ!)
音がした場所から、犯人が上の吹き抜けにいる事を察したルーシーは、常人離れしたスピードでそこへ急行する。
そのスピード、さらに現場が混乱している事もあってか、誰もその事に気づいてなかった。
果たしてルーシーの予想通り、犯人はそこにいた。
放心状態の藤香は未だにステージ上にいる。
「もう一度……」
犯人がライフルの引き金に指をかけたその時である。
「させるか!」
ルーシーの膝蹴りが犯人のアゴにクリーンヒットした。数メートル飛ばされて気絶する犯人。
「お前と違って、標的は絶対逃がさねェよ……!」
ルーシーはそう吐き捨てると、ようやく騒ぎを聞きつけてやって来た警備員に犯人を引き渡し、ユニの元へ戻る。
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」
そこでは、早めに来たAEDも用いて、由理による心臓マッサージが行われていた。
だがそんな懸命の救命措置にも関わらず、ユニの意識は未だに戻らない。
「ユニ〜〜!」
ルーシーとメイの声が虚しく響く。
藤香はというと、その場でへたり込んで、ずっと放心状態のままであった。
悪魔との契約条項 第二百六十八条
一瞬の油断で、大切なものを失う事もある。
読んで下さりありがとうございます。
いいね、感想などをよろしくお願い致します。




