88話 月のお姫様と眠れる朝【三章開始】
「寝られない……」
赫夜の部屋の広く寝心地の良いはずのベッドの上、真っ暗な天井を見上げて呟く。
寝たい気持ちはあるのに目を閉じて心を無にしようとしても上手く行かない。
入眠を諦めゴロリと大きく寝返りを打って枕元に伏せていたスマホを手に取る。
この流れを今夜何度繰り返したことか。
開きっぱなしになっていたネット検索画面には『女の子の気持ち』に関する記事タイトルが並んでいて、数十分前の自分に対してつい苦笑いが出た。
「ってか今はそういう時じゃないし」
無理やりにでも気分を落ち着かせようとスマホ画面に額を軽く打ち付けながら再度ベッドの上を転がる。
朝まで後何時間こうしてのた打ち回らねばならないのか。
残りの刑期を確かめるような気持ちで時計を見ると、画面に表示された数字の桁がスッと動いた。
ちょうど朝の六時になったらしい。
顔を上げると、窓にかけられたカーテンの隙間が薄明るくなっている。
普段と比べれば大分早いが朝と言って差し支えのない時間だし、起き上がっても良いんじゃないだろうか。
人様の家であることを考えれば動き出すにはまだ早い気もする。
けれど急に喉が渇いた気もしてきて、十分にも満たない葛藤の末、キッチンで水を貰おうと部屋を出た。
+++
この家はキッチンとリビングが繋がっていて、リビングからでないとキッチンへは辿り着けない。
そのリビングでは赫夜が寝ているはずだ。
寝ている赫夜はそう簡単に起きたりしないだろうけど、音を立てないよう細心の注意を払って扉を開けた――つもりだった。
暗い室内を壁伝いにゆっくり進みはじめた直後、天井照明が灯り視界がパッと白くなる。
想定外の眩しさに顔をしかめていると、少し遠くから怪訝そうな赫夜の声が聞こえてきた。
「朝来……? どうしたの? そんなにコソコソとして」
「いや、その、水を貰いたかったんだけど、まだ朝早いから赫夜は寝てるかと思って」
「ああ、そういうこと。別に私に構わず普通に過ごしてくれて良いのに」
赫夜はその場に立ったまま瞬きに専念している俺を通り越してキッチンへ向かい、すぐに水の入ったコップを持って来て手渡してくれる。
「あり……がと」
「どういたしまして」
どうしても夜のことを意識してぎこちなくなってしまう俺とは対照的に、微笑んで返す赫夜はとても自然に見えた。
想像通りだけど。
溜め息を吐きたくなるのを堪えてコップに口をつけると、赫夜がたしなめるように俺の名前を呼んで手を引く。
「おいで、こっちで座って落ち着いて飲みなさい」
+++
赫夜は俺を引っ張ってリビングのテレビ前にあるいつものソファに座らせると、隣に腰掛けて頭を撫で始める。
嬉しい、と感じたのは最初だけで、俺が水を飲み始めても手を止めないので頭部が揺れて飲みにくいことこの上ない。
犬猫にやったら間違いなく嫌がられると思う。
ちらりと横目で訴えかけてみる――が、無意味な行いだった。
まぁ……赫夜が楽しいなら良いけど。
俺がコップを取り落とさないよう時間をかけて慎重に水を飲み干した頃に、赫夜はようやく手を止めて口を開く。
「朝来はもう少し寝たほうが良いんじゃない?」
「俺は眠くないんだけど、まだ朝早すぎるしリビング来られたら赫夜も困るよな」
「私はここにお前がいても困らないけど、お前はあまり眠れていないんじゃないかな? 昨日より大分疲れた顔をしているよ」
寝不足を言い当てられて、気まずさから唇をモゴモゴと噛む。
「赫夜もこの時間に起きてるってことは寝てないんじゃないの?」
「私はお前達とは違うから、寝るときは寝るけど数日起きていても問題ないって前にも言ったでしょ」
「でも赫夜が眠れてないって珍しいイメージが有る。何か考えたり悩むことがあった? ……夕鶴のこと、事件のことだとは思うけど。俺で良ければ話くらいいつだって聞くし」
俺が睡眠回避のために無理やり会話を繋げていくと、今度は赫夜が言葉に詰まった。
「……夕鶴のこともだけど」
赫夜はいくら待っても「だけど」の続きを発さず、俺を上目遣いにじっと見てから困り顔に近い笑みを見せた。
曖昧でどう取って良いのか判断のつかない表情を読み解こうと思考を巡らせていると、赫夜はあえて思考を打ち切らせるかのように俺の名前を呼ぶ。
「私は良いから。お前はちゃんと寝なきゃ、ね?」
柔らかく諭すような口ぶりで言うと、ポンポンと自分の膝上を叩いて見せる。
思わず赫夜の顔と膝上を交互に見る。
「ほら、寝室で一人が嫌ならここで寝ると良いよ」
膝枕という意図ははっきり伝わっているけど実行する勇気に持ち合わせがないだけだ。
が、俺の不審な挙動が赫夜の瞳には理解が及んでいないが故の反応に見えているらしい。
柔和な笑みを更に深めて「おいで」とわかりやすく広げた両腕を差し出してくる。
睡眠不足で回らない頭だと、ハグを求められているようにすら感じてしまう。
これは……可愛すぎて抗い難い。
俺をまっすぐ見つめてくる蜜色の瞳の甘やかな煌めきに吸い込まれるような感覚がする。
まずいと思いつつも理性に反して身体からはどんどん力が抜けて前のめりになっていく。
ポフッと赫夜の肩口に顔を埋めてしまうともう完全に駄目だった。
昨日からの疲れがどっと出た、いや、出過ぎてるくらいの感覚だ。
すごく眠くて力が入らない。頭の中がぼやける。
赫夜から香る甘い匂いは、いつもならドキドキと俺を昂らせるのに。
今は睡眠前特有のフワフワとした浮遊感を感じるばかりだ。
「赫夜……? こ、れ……?」
実際徹夜だったので緊張感が抜けてしまえば眠くはなるだろうけど…どっか違う。
「この感じ……前にも……?」
次の瞬間にも手放してしまいそうな意識を必死で掴みながら思考を口から吐き出す。
そう、この感覚は以前自室で赫夜に寝かしつけられたときにも感じた気がする。
あの時もおかしいとは思ったんだ。
いくら眠くても、好きな女の子を眼の前にして頭なでられながら寝られるものか?って。
「かぐ……や……何かしてるだろ? 前にも……しただろ」
「あれ、わかっちゃった? 朝来もちゃんと成長しているね」
赫夜は力の入らない俺の身体をゆっくりとソファに横たえ、自身の膝の上に頭を置いた。
優しい手つきで髪を梳いて、犬にするように「えらいえらい」と褒めそやしながら俺を覗き込む顔は、いつも以上に甘やかだ。
「でもこれは、ごく弱い睡眠の暗示だから。朝来が本当に疲れていないなら簡単に解けるんだからね」
「ずる……い……ぞ」
フフッとイタズラっ子みたいな笑みを浮かべた赫夜の顔を見て、悔しいけど可愛いな……なんて思っているうちに、俺の視界はグルンと回って真っ暗になった。
そして本当に意識が眠りに落ちる寸前、髪を梳く指の動きの他に唇に柔らかな感触がした。
年明け以降に続きという事でしたが随分間が空いてしまいました。
それでも読んで下さっている方々には熱く御礼申し上げます。
三章は平和なスタート。
本当は話を進めておきたかったのですが色々書いていたら1話に収めるには想定より長くなりそうだったので今回分は短めで区切っています。
年明けから三ヶ月はこの作品のセルフコミカライズを試行錯誤しておりました。
少しでも拙作に触れてくれる方、キャラを好きになってくれる人が増えたら良いなと思っています。
↓で読めます
ニコニコ
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不慣れだからが大きいですが漫画は死ぬほど時間がかかるということがわかりました。
でも楽しかったのでゆっくり1章分くらいは描き続けてみたいなと考えています。
今年も本編完結目指して頑張っていきますので、よろしくお願いいたします。




