87話 月のお姫様と眠れない夜【二章完結】
小一時間ほど前に通ったばかりの、まばらな外灯に照らされた住宅街の道路を夕鶴と並んで歩いていた。
夕鶴のマンションまではもう大分近いが、お互いにここまで何も言葉を発することはなかった。
俺からすれば、夕鶴があの場から立ち上がって、こうして歩いているだけでもすごいことだと思う。
だけど、気を張っているのが伝わってくるだけに安易な慰めの言葉も何もかけられずに居る。
地面に落ちる影と厚い雲で淀んだ空を落ち着き無く交互に見やっていると、夕鶴の俺を呼ぶ小さい声が耳に届く。
「今日は……ありがと」
「お礼言われるほど、俺は何もできてなかったろ」
「人攫いのこと倒してくれたじゃん……それに朝来が居なきゃ、そもそもおねえちゃんには会えなかったわけだし……ね」
こんな時なのに努めて明るく振る舞おうとする夕鶴は、苦笑いしてポンポンと俺の腕を叩いた。
そのまま、俺の服の肘あたりを握りしめながら話しを続ける。
「全部じゃないけど、ちょいちょい思い出したよ。昔のこと……朝来と遊んでた頃のこととかさ」
「桑野に居た頃のことか」
「そー、朝来はさ、飾のこと知らなかったでしょ? 姉がいるなんて言ったこと無かったもんね」
横目で見ると、夕鶴は空を仰ぐようにしながら目を細めて唇をきつく結んでいた。
「あたしにとって飾は儚げな可愛いおねえちゃんで、憧れで大好きだった。だけど、身体が弱い分親はかかりっきりでさ……頑丈なあたしは扱いの違いってのを感じてた」
そこまで言って、バツが悪そうな表情で一度言葉を切る。
「朝来のこと、飾には言ってたんだ。同じように病弱だけど、少しづつ元気になってる男の子の友達がいるって。だから、おねえちゃんも病気早く良くして一緒に遊ぼうねって毎日のように遊んだ内容を教えてた」
だけどね……と小さな声で繋げる夕鶴の指先が俺の服の布地をより一層深く握った。
「朝来には言えなかった。飾と会ったら、きっと自分より仲良くなっちゃう気がして。親だけじゃなくて、大事な一番の友達まで飾に取られちゃうような気がして言えなかった……子供って馬鹿だよね」
「……そんな事ないよ」
俺が返すと、夕鶴は俺を見上げて薄く笑って指を解く。
そして、再び前を向くと深く瞳を閉じて長く息を吐いた。
「捕まってた時のことも思い出した……泣いてばっかのあたしを毎日励まして庇ってくれてたおねえちゃんの姿。押し込まれた場所は怖くて寒くて、布切れ一枚でいいから欲しいって懇願したあたし達に、そんな物いらないだろって嘲笑ったあいつらの顔……もう二度と忘れない。許さない」
憎しみを隠すこと無く歪んでいく夕鶴の横顔に掛ける言葉が俺の中に見つからない。
「今日わかった。あたしは人を殺せる人間だって。あたしは今日みたいなことがあったら、相手のこと刺し違えてでも殺すから」
止めるな、と低く呟かれた言葉は重くて。
夕鶴が過去にされた事を考えても、今日のように銃まで持ち出してくる奴らを相手にして甘い事を言っているのかもしれないと思うけど――だけど。
「それでも、俺は……夕鶴に人を殺して欲しくないよ」
次もきっと、目にしたら止めるだろう。
夕鶴は俺の投げかけに言葉を返すこと無く拳を強く握りしめていた。
だから俺も、それ以上は何も言わなかった。
+++
夕鶴と共にマンションの前まで来たところで、俺達の姿を見つけた赫夜が慌てて駆け寄ってきた。
抜け出たことに気付いて探していたのだろう。
夕鶴を見るなり強く抱き締めてしばらく離さず、最終的には宥める夕鶴に引きずられるようにして三人で家の中へと戻った。
「はぁ……」
今日何度目かの溜め息を宙に向けて吐き出す。
夕鶴を送り届けたので家に帰ろうとしたけれど、赫夜に話があるからと引き止められた挙げ句、一先ず土汚れを落としてこいと新品の部屋着まで手渡され夕鶴と交代で風呂場に押し込まれた。
今は赫夜の部屋でベッドの端に腰掛けて赫夜が戻ってくるのをただ天井を見上げて待っている。
「世界を救うって何なんだよ」
男の発言を思い出して、意味のわからなさに額を手で覆う。
ある意味宗教らしいと言えなくもないだろうが、金葎求道会が本気だとしたら一体何から救うというのか。
まさか……
ふと一つの可能性が頭をよぎる。
まさか、金葎求道会もまつろわぬ神を?
封印の上に敷かれた蟲を使った陣は俺達を妨害するものだと思っていた。
実際、敷かれている今は迂闊に手が出せない。
だけど、もし……もし金葎求道会が本当にまつろわぬ神から世界を救おうとしているのだとしたら。
もちろん、飾ちゃんや夕鶴にアイツらがしたことは許されるべきことじゃない。
急に人を襲ってくるような危険な相手なのもわかっているが、目的が同じところにあるのならば……すぐにでも陣を解かせて俺がまつろわぬ神を倒すことができれば。
飾ちゃんが死ぬ前に全部終わらせることも出来るかもしれない。
一度真意を確かめてみても、いいのかもしれない。
俺がそう意気込んだところで、ちょうどカチャリと音を立てて部屋の扉が開く。
「お待たせ」
部屋に戻ってきた赫夜は、いつの間に着替えたのか随分とオーバーサイズな袖あまりの黒い部屋着を着ていた。
「……えっと、夕鶴は?」
「うん……事情は軽く聞いたけど、今は一人にして欲しいって」
赫夜は俯きがちに眉を下げる。
「そっか、そうだよな」
あれだけの事があったのだ。やはり、気力も体力も限界だろう。
一人にしておくのは心配だが、それでも一人で気持ちを落ち着ける時間もきっと必要だ。
自分の足先を見ながら思案していると、ふいに正面からの柔らかい衝撃を受けてベッドの上にひっくり返った。
何が起きたのか、視界を埋める白い布地に一瞬平衡感覚が狂う。
「二人だけで室屋 飾と接触するだなんて危険な事して……」
俺の身体を張りのあるシーツに沈める甘やかな重しが発する声は微かに震えていた。
「無事で良かった」
赫夜は短く言うと、ぎゅっと俺を押し付ける力を強めた。
「心配させてごめん」
大丈夫だと数回軽く背中を叩いて知らせるが、赫夜は俺の頭を抱えるようにして離そうとしない。
むしろ、どんどん力が籠もっている気がする。
「赫夜、俺は大丈夫だから」
嬉しいとか恥ずかしいとかの前に、鼻と口が埋まってて息が苦しい。
何とか空気を確保しながら追加で声をかけると、赫夜は少し間をおいて俺の頭に回していた腕を解いた。
……けれど、一向に俺の上から退く気配はない。
「あの……赫夜?」
もう一度声をかける。
すると、赫夜は上に乗ったまま緩慢な動きでのそのそと後ろへ下がっていく。
顔に当たる柔らかさが無くなったことにホッとしていると、頬を撫でる淡い金の髪の感触にお互いの顔面があまりに近くなった事に気付いて鼓動が跳ねた。
思わず下に視線を落とすと、今日に限ってオーバーサイズな部屋着を着ているせいで大きく開いた襟ぐりから白い肌がよく見える。
驚いて声が出そうになるのを何とか喉で留めていると、赫夜は俺の胸元に顎を置くような格好でぺたんとくっつき動きを止めてしまった。
じっと無言で俺を見つめてくる蜜色の瞳は何を考えているのかさっぱりわからない。
「えっと……そういえば、赫夜の話って何?」
心臓の音を誤魔化そうと、今ここにいる理由を訊ねてみる。
大方、今日の出来事についてだろうけど――
「朝来は何だと思う?」
「え、今日の事じゃ……?」
「そうだね。それは間違ってないよ」
肯定しつつも、赫夜の瞳が呆れを帯びたジトッとしたものに変わる。
なんか、思っていたものと違うような……?
俺がたじろいでいると、赫夜は俺の上で大きく溜め息を吐く。
「私が何でお前達が出掛けたのに気付いたと思う?」
「それは、マンションのエントランスにある監視カメラの映像とかから都筑さんに連絡が行って……とか」
「違う」
赫夜は眉間を寄せて俺の予想をきっぱりと否定した。
「そっちも少し前に連絡が来たけど、最初は朝来のご母堂からだよ」
「え?!」
明日は朝が早いからと早々に自室で寝ていたはずの母さんが何故?
夜コンビニに行く程度の外出もしょっちゅうだと言うのに。
「買い物にしてはいつもより帰りが遅いし通話も出ないしで、竜の事もあったばかりだから心配になったそうだよ」
俺の困惑を見透かしたように赫夜が続ける。
「だから、とりあえず、朝来は天体観測をする予定で家に泊まりに来ていると話してあるから。朝まで大人しくしていなさい」
「て、天体……観測……言い訳として苦しいのでは……?」
夜空を眺めるのは好きだけど、天体観測と言えるような高尚なものではない。
うちには天文学の本も写真集すら無いので、母さんがどう捉えて引き下がったのかは分からないが天体観測が嘘なのだけは気付いていることだろう。
「私からしても寝耳に水の話だったんだからしょうがないじゃない。咄嗟に言い訳なんて思いつかないよ」
「ですよね……」
「騒ぎにならなかっただけましだと思って、不満なら後は自分で帰ってから説明しなさい」
「はい……」
これは俺が悪い。
俺が悪いけど、明日帰ってから詰められるのが確定してると考えると気が重くなった。
「あの、それはそれとして……この姿勢もちょっと」
「苦しい?」
「いや、苦しいわけじゃないんだけど」
密着した状況が続いていて、いい加減落ち着かない。
俺の上でコテンと首を傾げる赫夜の様子に、視点をどこに置けば良いのか右往左往してしまう。
こんなこと考えてる場合じゃないのに。
今の会話で完全に緊張感が抜けて脳に余計なことを考える隙間ができてしまっている。
「ええと、その……」
別のことを話して気を紛らわせようと周囲を見回す。
うろつく視界に映った自分の着ている真新しい黒い部屋着に、これだとばかりに口を動かした。
「あ、そうだ! この着替えって、もしかしなくても俺のために買ってくれた?」
「え? うん、そうだけど」
かなり唐突な話題の出し方に赫夜が瞳を丸くしているが、俺も邪念の付け入る隙をこれ以上広げないために必死だった。
「だよな。どう見ても男物だし、サイズピッタリだなって思ったからさ」
「店員に聞いて出来るだけ無難なものを買ったつもりだったけど、好みではない?」
空笑いする挙動不審な俺を不安げに上目遣いで窺ってくる赫夜に、慌てて「そう言うことではない」と頭を振る。
「ごめん、ありがとうって言いたかった。色々してもらってばっかで申し訳なくもあるけど」
「気にすることはないよ。何度か家でお風呂に入る機会があったでしょう? 私の服じゃ窮屈そうだったし、着替えはあって困るものでもないと考えてはいたんだよね」
赫夜は得意満面の笑みを見せながら俺の頭をわしゃわしゃと撫でる。
少し荒っぽい手付きにむず痒さを感じながら、もう一度礼を言ってすぐ話を次の質問に移した。
とにかく今は喋り続けていないと保ちそうにない。
「この服っていつ買ってたの?」
「それが、つい昨日買ったばかりだったんだよね。こんなに早くに着せることになるとは思わなかった」
「それはまた、すごいタイミングだな」
神がかり的とはこういう事かもしれない。
赫夜も存在自体は似たようなものだし何かしら予感めいた部分があったのだろうか。などと考えながら、まじまじと赫夜を見つめてしまう。
そこでふと、赫夜の着ている部屋着もよく見れば自分の着ている部屋着と同じ物だと気が付く。
「赫夜の今の服って、俺のと同じところで買った?」
「わかる?」
「よく見たら同じのだなって。でも、それ俺のよりサイズ大きくない?」
妙にオーバーサイズな部屋着について訊くと、赫夜は自分のダボついた襟を確かめるように軽く指先でつまむ。
広がる襟の奥を見ないよう、急いで目を横に動かして事なきを得た……はずだった。
「店員がね、もう一枚サイズ違いを買っておくと良いって言ったの。朝来が今着ているサイズで合わなければ大きい方を着せれば良いし、それで余った方を私が着ればお前が喜ぶかもしれないって」
ぐっと顔を寄せて「どう? 嬉しい?」と訊いてくる赫夜に目眩がする。
それ、どういうつもりで言ってるんだろう。
店員に担がれてるだけなんだろうけど、そう思わないとやってられないけど。
俺を喜ばせたいと思ってくれる、その気持ちはどこからきてる?
一瞬で頭がぐらぐらと煮えて、もう限界だった。
「……話の途中で悪いけど、そろそろ離れてもらえると」
奥歯を強く噛みつつ精一杯で伝えるも、赫夜は俺の上から退こうとしない。
それどころか、僅かに身を固くして指できゅっと服の胸元を握り込んだ。
「ねぇ……離れがたいと言ったら、困る?」
赫夜の声が、やけに頼りなげに聞こえた。
――困る。困らないけど、困る。
俺を見る赫夜の綺麗な蜜色の瞳が潤んでいるように感じるのは絶対に気のせいだ。
「こまら……ない、けど。そんなこと言われたら、駄目だ」
「思っていることは言ったほうが良いんじゃないの? 何が駄目?」
額を擦り付けながら問い掛けてくる赫夜は今どんな顔をしているんだろう。
喉が詰まって、情けないほどに舌が回らなくなっていた。
「言ってくれるのは良いんだけど! 時と、場合とが……!」
「今感じていることの話なのに時を選べって何?」
赫夜は脚を絡めながら更に疑問を追求してくる。
焦って身をよじろうと藻掻く俺などお構いなしと言った様子だ。
何でこの状況でわかってくれないんだろう。
さっきからもう奥歯がカチカチと音を鳴らしている。
本当に無理。もう嫌だ。
「何で千年生きてて、そんなに察しが悪いんだよ!」
思い切り力を入れて、上に乗った赫夜ごと身体をひっくり返す。
体感として急に天地が入れ替わったのであろう赫夜は俺の下でぽかんとした顔をしていた。
「あ……朝来?」
「何で驚いてるんだよ。俺の考えたこと多少は聞こえてただろ」
赫夜は俺の言葉を聞いて一瞬完全に動きを止める。
そして、何かに気付いたかのように数度瞬いた瞳が今度は四方にさまよい出す。
「まって、その、見下ろされるのは落ち着かないよ」
「俺も同じだった。全然落ち着かない」
「私は自分の考えを述べただけで……!」
「わかってるつもりだけど。もし赫夜がわざと俺をからかってるなら趣味が悪いって言いたいだけ」
俺が言うと、赫夜はしゅんと眉を下げた。
か細い声でもごもごと「そんなつもりではない」などと呟いている。
だろうな、とは思ったけれど口にはしなかった。
悪気が無かろうが、自分の言動をちょっとくらい反省して欲しい。
「あんまりやるなら、やり返すからな」
俺が顔を近づけると、赫夜はあからさまに頬を赤く染めてビクリと肩を震わせた。
やっぱりわかってなかったという呆れと、一応意識してもらえてはいるらしい嬉しさとで胸中は複雑だ。
まずいな、止まれないかも。
暈ける思考はまるで他人事のようだった。
駄目だって思いが遠くなって行く代わりに段々と赫夜が近くなって、視界にほとんど顔しか収まらなくなって。
熱を持った頬に触れても、赫夜は俺に向ける瞳を逸らしたりしなかった。
「わ、私は……」
小さく身を捩りながら、落ち着かない様子でシーツを掴んで引き寄せている。
「朝来が望むなら私は……やぶさかでは……ない」
呟かれた言葉の衝撃に、身体がぴたりと固まる。
やぶさかではないって、どういう意味だっけ?
自分の日本語理解が正しいかどうか脳をフル回転させて考えてしまう。
けれど、考えても考えても熱で暈けた頭では上手く答えに辿り着けず、次第に今自分がやらかしかけた事実の方を噛み締めて血の気が引いていく。
また、やらかすところだった。
喉を鳴らして欲求を呑み込んで、重なりかけた顔を離した。
収まりきらない熱が残った決まりの悪さに、視線を横に逃しながら赫夜に体重を載せないよう慎重に身体を起こしていく。
「ごめん、俺――」
言い訳がましく口を開いた俺を、下から伸びてきた腕が胸ぐらを掴んで強く引いた。
驚きで見開いた俺の視界を淡い金色の髪と伏せられた長い睫毛が間近に覆っている。
唇に押し当てられた覚えのある柔らかさに、キスをされているんだと気付く。
重ねていた唇を胸ぐらを掴んだ指と同時に離した赫夜は、呆然と身動きできずにいる俺の下からスルリと抜け出してベッドから降りて行った。
「朝来の顔が離れていく時、名残惜しいと思った。だから、これはお前の願望だからじゃなくて……私のしたかったことだ……と、思う」
赫夜はこちらを振り向くことなく小さな声で言い残して、そそくさと部屋から出て行ってしまう。
「え……? え?」
赫夜はそれから部屋に戻って来ることはなく。
一人部屋に取り残された俺は、千年前の夢の続きを見るチャンスだったかもしれないというのに朝まで一睡もできやしなかった。
二章はこれで終わりです。
お付き合いいただきありがとうございました!
最後は明るめに締めたかったので長くなりました。
この直後の小ネタ1P漫画が↓です。
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今後については年が明けて以降になります。




