8話 月のお姫様は妹に甘い
『ねぇ、これで私はお前のものだよ』
なんてこと言うんだこの人。
あまりにも衝撃の強い発言だったので即座に脳が反芻してしまう。
恥ずかしくなって、赤くなりそうな頬を見られまいと咄嗟に右手で顔面を覆った。
さっきから頭の処理が追いつかないのに、ちょっと待って欲しい。
確かに、契約者と被契約者だとそう言えなくもないだろうけど……いや、どうだろう違う気がする。
とりあえず、ものって表現はよろしくない。
よろしくないのに、倒錯的なその響きが感情を刺激してやまない。
混乱する俺をよそに、赫夜は楽しげに俺の小指を弄んでいる。
別に触ってても面白くないと思うけど……
ただ、そうも言い出せずに大人しくされるがままだ。
「ね~~……赫夜あたしもう帰っていい?」
俺のベッドの縁を背もたれにして、気怠げにスマホを操作していた夕鶴さんがぼやいた。
第三者の存在を改めて認識して、少しだけ心が平静さを取り戻す。
「ごめんね夕鶴、もう終わるよ」
「あたし、ここ来た意味なんかあった?」
苛立ちの滲む夕鶴さんの声により、赫夜もようやく俺の手を解放した。
「紹介したかったって言ったじゃない。拗ねないで」
「拗ねてないし!」
知らない男の家でひたすら一人放置された形になってしまった夕鶴さんは、当然ながらだいぶ不満そうだ。
頬をリスのように膨らませて文句を言っている様子は先ほどの俺に対する彼女の怒りようと比べれば随分と穏やかで、確かに子供が拗ねている時みたいに見える。
「……あたしがちょっとしたことでキレたのも悪かったけど、二人の世界でわけわかんない話し始めて……それじゃあたし一人じゃん」
「そうだね。長い時間放っておいてごめんね」
赫夜は膝立ちになって、夕鶴さんの頭をよしよしと言いながらあやすように撫でている。
「機嫌直してくれる?」
「赫夜には別に怒ってない。そこの気の利かない男にイラついてるだけだから」
「朝来に怒ってるの? 仲直りできない?」
「怒ってない! イラついてるだけ! それに、あたし別にあいつと仲良くないし。仲直りする必要ない」
夕鶴さんは、自分をなだめる赫夜の腰に縋り付くように腕を回しながら言う。
「どうしてそうなっちゃうんだろう……?」
「言わない」
「そこは頑なだね」
「…………」
焦げ茶色の髪を撫でながら、赫夜は困惑と呆れが混じったように肩を落とした。
俺も突飛な話題でそこまで気が回らなかったとは言え、一人だけ放置して話を進めていたことは指摘されると確かに悪かったと思う。
「夕鶴、どうしても駄目なの?」
「あーもう、そんな顔するのやめてよ! 仲直りじゃないけど、『お互い失礼だった』で水に流してやるわよ。……聞こえてるでしょ? そういうことだから!」
「……ああ、わかった!」
声を掛けるか迷っている最中に話を振られたことで驚いてしまった。
敵意はまだ十二分に感じるが、先ほどのいざこざも含めて気持ちを収めてくれるということだろうか。
人ではない赫夜と人間の夕鶴さんが、どういう経緯で姉妹をやっているのかはわからないが、やり取りの内容だけだと親子のようにも思えた。
「それじゃ、昔話については一旦ここまでにしよう。ただ聞いているだけで夕鶴にも暇させてしまったし、旧交を温めるためにも今から少し皆で出掛けようか」
夕鶴さんをなだめ終わった赫夜は、笑顔を崩すことなく俺の方を振り向いて言った。
「デートだよ。こういうの、そう言うんでしょう?」
「帰んないの?!」
「帰る途中で寄り道したと思えばいいじゃない」
俺より先に夕鶴さんが反応した。
しかし、赫夜はなんともマイペースな返答をしている。
「……俺は、まぁどちらでも」
「…………」
提案を拒否しない俺のことを、夕鶴さんは眉間に皺を寄せて不満そうな目で睨む。
「いいじゃない。きっと楽しいよ。お前たちも話したいでしょ?」
「話すことなんかないけど!」
「折角なんだから、ちょっとくらい付き合ってよ」
赫夜は夕鶴さんの不満を聞き流して言うと、コートを羽織りながらゆっくりとその場で立ち上がる。
「夕鶴、タクシー呼んでくれる? 朝来も出る準備しよう」
「…………わかった」
「俺はちょっと他の部屋の戸締まり見てくる」
夕鶴さんは渋々といった調子で返事をして、スマホを少し操作してから呼んだよと赫夜に声を掛けた。
赫夜はコートの曲がった裾を叩いて直し、座ったまま自分を見上げる夕鶴さんへ手を差し伸べ、引き上げるように立たせている。
俺は二人を横目に、クローゼットから休日用のコートを掴み取って部屋を出た。
「急な話で色々と混乱する部分もあるだろうけど、朝来と仲良くするのはお前にとってもきっと必要な事だよ」
夕鶴さんを諭す赫夜の、そんな言葉だけが耳に届いた。
俺達三人は、駅横のターミナルでタクシーから降りた。
対面にあるビルの大型ビジョンには、国内アーティストの明るく楽しげなミュージックビデオが映し出されていた。
車窓から見てわかってはいたものの、休日の街は人で溢れかえっている。
立ち並ぶ大小様々なビルはどれも客商売のテナントが入っていて人の出入りが盛んだ。
目に見える範囲の、この駅付近を軽く回るだけでも買い物にも食べる場所にも困る事はないだろう。
若者達の街なんて、古いのか新しいのかよくわからないキャッチコピーを耳にするだけあって、行き交う人々は自分達と同世代が多いように見えた。
実際、俺自身が普段一人で来ることはないが、遊びに三回誘われたら内二回はこの駅付近だ。
「ねぇ、赫夜これからどーすんのよ」
夕鶴さんが、腕を前で組んでふてくされたような物言いをする。
普段の彼女がどんな子なのかはわからないけれど、この様子では、もう今日はずっとこうだろう。
対する赫夜は穏やかな笑みをたたえたまま胸の前で両手を祈るように組み、のんびりと口を開く。
「残念。折角来たのに、私は少し用事ができてしまったみたい」
そうして、もう今日何度目かわからない問題発言を俺の前に落とすのだ。
「「は?」」
流石に今回ばかりは俺だってそう言う。
「赫夜?!」
「ちょっと何言ってんの?!」
「今は十五時過ぎか……うーん、そうだなぁ、十八時に駅前広場で落ち合おうか。ちょっと二人で遊んでてくれる?」
しかし、赫夜は案の定というべきか、こちらの困惑の声など完全に無視だ。
それどころか、さっきからあらかじめ用意された台本を淡々と読み上げるような棒読み加減で喋っている。
「それじゃあ、また後でね」
赫夜は財布をぽんと軽く投げるように夕鶴さんへ渡すと、人混みに溶けるように一瞬で消えてしまった。
「赫夜……嘘でしょ……」
「なんだあれ……演技下手くそ過ぎる……」
呆然と取り残された俺達二人は、これから約束の時間までどうにかして過ごす事を考える羽目になった。
「――えっと、夕鶴さん、どうしよ……どうします?」
多分、無難なのはお互いわかれて集合時間まで適当に時間をつぶすことだけど、それを俺から提案するというのも気が引けた。
というか、向こうからそう言ってくるだろうという予測もあるし、下手なことを言って、ただでさえ俺をよく思っていないだろう夕鶴さんが更に不機嫌になったらと思うと少し怖かった。
「……変な敬語いらない。さんも付けないで」
夕鶴さんの口からは、俺の予想に反した答えが返ってくる。
言葉こそそっけないが、その声色はこれまで聞いた中で一番落ち着いた柔らかいものだった。
「うん、わかった。――これからだけど、どうする?」
「どうするもこうするもないでしょ」
「時間まで別行動しとこうか?」
夕鶴の変わりように拍子抜けしたのもあり、自然と最初に考えていた別行動案が口から出ていた。
「カフェ行くから、あんたも来なさい」
「え?」
ただ、その案は即座に否定された。
俺が驚いている間に、ふいと背を向けて少し俯きがちに歩き出す。
「面倒だからはぐれないでよ」
何を考えているのか、その後ろ姿からでは読み取ることはできそうにない。
ただ、夕鶴のその穏やかな声の調子から、自室で言った通りこれまでのことは水に流してくれてるのかなという気がした。
視点を章分けできなかったので
ちょっと話数表記だけ修正しました