78話 男子高校生と天使の名前
「今度は一体何があったんですか?」
赫夜の家のリビングに入ると、奥から都筑さんが顔を出した。
意外な相手の登場に驚いて瞬いていると、都筑さんは俺をダイニングテーブルの方向へ手で誘導する。
「今日来てたんですね」
「姫君には昨日伝えたはず……いえ、次は朝来君にも直接連絡を入れましょう。先日依頼された金葎求道会についての報告でしたので、君が来るのを待っていたんですよ」
「なるほど……全然聞いてないです」
都筑さんは呆れを隠さずに大きな溜め息をつく。
苦笑いを返しつつ、促されるままにテーブルを挟んで向かい合うように座った。
「今日のことは、赫夜が来てから話します」
「わかりました」
都筑さんはすぐに引き下がり、瞑想でもするかのように目蓋を閉じた。
静かになった室内は、時間の流れをとても遅く感じさせる。
赫夜は今、夕鶴を落ち着かせるために付き添っている最中だ。
迎えに来てくれた赫夜と三人で家まで移動した後も、夕鶴は耳を塞ぐように身を丸めて震え続けて会話ができない状態で、怖がるにしても異常だった。
あれが昔の事件のせいならば。そして、昔の事件と飾ちゃん、飾ちゃんとあの男達に何か関連性があるのだとしたら。
飾ちゃんの事を、いつまでも赫夜に黙っていて良いんだろうか。
一度夕鶴の意志を優先して話さないと決めたのだから、いまさら勝手に反古にするのは夕鶴に対して不誠実な気もする。
でも、黙っていて、また何もわからないまま襲われたら……次こそ無事には帰れないかもしれない。
問題解決のためには間違いなく話すべきだと思うのに。
どうしたらいいんだろうな、こういうの。
纏まらない思考に口から自然と息が漏れてしまう。
肩の力を抜いて天井を仰ぎ見ていると、リビングの扉が開く音が聞こえた。
俺と都筑さんの居るテーブルにまっすぐ歩み寄ってくる赫夜の表情は硬い。
「あの……夕鶴の調子は?」
「今は眠らせてる。一時的な恐慌だろうから寝て起きれば落ち着くと思うけど」
「そっか、なら良かった」
すっと隣の椅子に座った赫夜が気遣わしげな表情で俺の顔を見上げてくる。
「朝来、今日のことを話して。どうして夕鶴がああなったのか……全部」
俺をじっと見つめる赫夜の透き通った蜜色の瞳に、話すべき今日の一連の出来事を思い返して――やっぱり隠してはおけないと強く思ってしまった。
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赫夜と都筑さんには今日あったことをありのまま、夕鶴といつものコンビニ前で合流したところから話した。
それと、以前から飾ちゃんという小さな女の子の姿をした不思議な存在との交流があったこと、夕鶴が彼女を懐かしいと感じていたらしいこと。
俺達を助けるかのように現れた飾ちゃんは、怪しい男達が来るのがわかっていたみたいだったことも。
俺があらかた話し終えると、眉を寄せて険しい表情をした赫夜がぽつりとこぼす。
「――ねぇ、朝来は飾という子に覚えはないの?」
「? 俺は去年数回会っただけだけど」
「本当に?」
「……え? うん、何で?」
そんなに念を押してくるんだろう。
たじろぐ俺に、赫夜は「ちょっと待っていて」と言い残して部屋を出ていった。
しばらくして戻ってきた赫夜は、机の上にクリアファイルに入った資料のようなものをポンと載せて中を見るように言う。
クリアファイルの中に収められたA4サイズの紙面には、四名の男女の顔写真と名前が記載されていた。
室屋 亨、室屋 咲笑――
穏やかそうな男女の顔には微かに見覚えがある。
この名字は、夕鶴の本当の……
「私が飾と言う名を聞いて、最初に思い浮かべたのはこの子だよ」
赫夜の白い指先が俺の視線を誘導するように紙の上を滑る。
ぴたりと止まった先には、つい先程見た飾ちゃんと全く同じ顔が写っていた。
「……室屋……飾……?」
写真の横に並べられた名前に、理解が追いつかない。
どういうことだ?
「お前と夕鶴が会ったのは、この子で合っている?」
「合ってるけど、でも……室屋って事は夕鶴の家族……なのか?」
「そう、室屋 飾は夕鶴の実の姉にあたる」
「俺は、名前を聞いたことも無い……」
夕鶴の両親とは数回顔を合わせたことがある。
でも、姉なんて人物には会った覚えも、夕鶴から話を聞いた覚えも無かった。
「忘れているのか、本当に知らなかったのかはともかく、この写真の子が夕鶴の姉だというのは事実だよ」
「資料を纏めたのは私なので薄っすらと覚えています。室屋家は四人家族で、長女は難病を患っていてほぼ寝たきりだったはず。友人の姉妹とはいえ、異性だと大概関わり薄いですしね」
知らなくても不思議はない、と淡々と話す赫夜の横から都筑さんが俺に対するフォローのような言葉を挟む。
「いや、でも……変だ。飾ちゃんの気配は明らかに人間じゃなかった。夕鶴の姉って言うならもう俺達より年上のはずなのに姿も写真と変わってない」
夕鶴に飾という姉が居たとしても、それがあの飾ちゃんと同一かはわからない。
浮かんでくる疑問点をひたすらに上げ続ける俺の肩を、赫夜が落ち着かせるように優しく撫でた。
「確かに妙だけどね。本人なのか、姿を模倣しているだけなのか。今の段階では憶測も立てられないけど……でも、夕鶴が懐かしいと感じる理由はわかった」
「……飾ちゃんは味方なのか? だとしても、あの男達の事はどこで知ったんだろう」
疑問ばかりが口からこぼれる。
答えられるとしたら飾ちゃん本人だけだってわかっているけど、頭の中を埋め尽くすほど大量な疑問を外に出さずにはいられなかった。
「今回は救われたのかもしれないけど、現段階で味方と盲信するのはやめておくべきだろうね」
「夕鶴君を探していたと思われる男達についてですが、今から追うのは難しいかと」
都筑さんの進言に赫夜は短く「わかった」と返す。
「今回の件ではまず夕鶴の安全を優先したい。都筑には夕鶴の登下校の送迎役の手配を頼みたいのだけど」
「承りました。明後日には車を出せるよう手配します」
目の前で粛々と進んでいく決め事をただ見守る。
夕鶴が車通学になるなら、もう二人でくだらない話をして歩くこともなくなるのか。
夕鶴の安全が一番だけど、少しだけ寂しいような気持ちが湧く。
「朝来は大丈夫だと思うけど……念のためしばらくは私が迎えに行くよ。良い?」
「――あ、ああ。うん」
半分ぼんやりしたまま返事をしてしまった。
赫夜はにこりと微笑んで「じゃあ、そうしようね」と話を締めて都筑さんに向き直る。
「姫君、仲睦まじいのは結構ですが……極力目立つような真似は避けていただきたいのですが」
「人気のないところで跳ぶだけだもの。都筑はいつも気にし過ぎだよ」
苦言に唇を尖らせて返す赫夜に、都筑さんが頬を引きつらせた。
都筑さんから、赫夜をどうにかしろと言いたげな視線を投げられたが、変に期待をされても困るのでサッと目を逸らしておいた。
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「――では、今日の件については一旦置かせていただいて、金葎求道会の調査報告をさせていただきたいのですが」
都筑さんは口元に拳を当て、軽い咳払いをした。
俺と赫夜が頷くと、机の角に置かれていた大判のクラフト封筒から数枚の紙を取り出して俺達の前に並べる。
「金葎求道会の設立は今から約三十年前、神道系の宗教法人として護国、救済を掲げており、現在は老人養護施設や犯罪被害者の自助グループ運営など社会貢献を目的とした活動を中心に行っているそうです」
活動方針の書かれたコーポレートサイトを印刷した紙をこちら側にずらして見せ、上からもう一枚、写真つきの紙を重ねる。
「会長の天治 隆正、代表の山亥 暁生、副代表の草摩 俊郎、創立者であるこの三名ですが、代表の山亥以外の顔は表に出ていません」
一人だけ名前の横に顔写真が載せられている初老の男、代表の山亥の顔には見覚えがあった。
展示会の入口付近の壁に貼られていた選挙ポスターに似た構図のポスターに写っていたのはこの男だ。
「こういう組織って会長が一番偉いんだと思ってたけど……顔出ししてポスターになってるのは代表なのか」
「山亥は若い頃コメンティエーターとしてテレビにしばしば顔を出していたようなので、広告塔も兼ねているのでしょう」
「なるほど」
「……ねぇ、それでこの団体に怪しいところはあったの?」
俺が資料を眺めながら都筑さんの回答に感心していると、赫夜が焦れたように口を出す。
「山亥は、怪異退治の仲介屋でもあります。業界ではそこそこ名の通った人物で、彼を知る人物たちによれば、現世利益を追求するタイプの人間であり特定の思想に傾倒するとは考えにくいとのことです。そのため、宗教法人も彼のペーパーカンパニーの一つではないかと――最初に報告を受けたときは思いました」
「最初は?」
持って回った言い方が引っかかって紙面から顔を上げると、都筑さんの眼鏡の奥の鋭い視線とかち合う。
「副代表の草摩 俊郎、二年前に亡くなっていますが、草摩は蟲使いとして名高い芳我家の分家筋でした。もう何代も会合に呼ばれることがないほどの扱いですがね」
「蟲って……まさか」
「ええ、まさかとは思いましたが。姫君に関係する絵巻を持ち、蟲使いが所属していたとなると、金葎求道会以上に怪しい組織はないでしょう」
まつろわぬ神の封印の上に張られた陣、路地裏で人を襲う異形の事件。
使われているのはどちらも蟲だ。
「……待ってくれ。そう言えば……展示会で俺を案内してくれた女の人の名札が、草摩だった」
あの日見た草摩さんの、どこか癖のある妖しい笑みが頭に浮かぶ。
俺が呆然と呟くと、都筑さんは整えられた髪が乱れるのも気にせず後頭部をガシガシと掻いた。
「やられたかもしれませんね」
「どういうことですか?」
忌々しげに大きく息を吐く都筑さんに訊ねる。
「蟲使いの本領は医術と諜報。その女がもし並以上の術師なら朝来君の情報は抜かれていると考えなくては」
「そんな……でも、蟲の気配とかは何も感じなかったですよ」
「でしょうね。ですから、朝来君に落ち度はない。君が異変を感じなかった時点で相手が相当な手練ということです」
都筑さんは俺の顔の前に人差し指を突きつけてぴしゃりと言った。
それから、「少々失礼します」と前置きして懐から取り出したスマホで何処かに通話を掛けて、いくつかの指示を飛ばしている。
都筑さんはああ言ってくれたが、俺から漏れた情報で家族や赫夜、夕鶴に何かあったらと思うと胸がざわつく。
むしろ、今日の謎の男達だって俺のせいだったら取り返しがつかない――
「朝来が見つけてくれた繋がりは、私が数ヶ月費やしても掴めなかったものだ。本当に感謝している」
赫夜は俯きかけていた俺の顔を覗き込んで、真摯な眼差しで見つめながら強く手を握ってきた。
「ありがと」
俺が返すと、赫夜は少し眉尻を下げて薄く笑む。
「ご家族の警護を強化するよう指示を出しました。姫君の言う通り、朝来くんの拾った情報は有益なものです。生じる不都合の処理はこちらの仕事ですから気にする必要はありません」
「ありがとうございます。でも、俺がもう少し気を配ってれば……」
「もう一度言いますが、朝来君が気にする必要はありません。君は素人で、子供だ。これは情報確認を怠った私達の慢心なんですよ」
通話を終えたらしい都筑さんがぴしゃりと言い切る。
俺が素人で子供なのは事実だが、言われてしまうと複雑な気分だ。
「それでは、私は戻って引き続き調査を行います。特にその草摩の女について」
「わかった、都筑も気を付けなさい。何かあれば連絡を」
「はい。――お二人共、最後に一つ。姫君の絵巻の所有者である金葎求道会会長の天治 隆正について」
都筑さんは席から立ち上がり、机の上の書類を纏めながら話し出す。
「彼も術師のようですが、他二人を差し置いて会長の椅子に座るほどパッとした経歴はない男です。しかし、全く表に出てこない点から何かあると考えたほうが良いでしょう。油断なさらず」
纏めた書類をカバンに入れた都筑さんは、そのまままっすぐ部屋を出ていった。
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二人きり残されたダイニングで無言の時を過ごす。
沢山の情報を頭に一気に詰め込まれてパンク寸前だ。
けれど、考える事、やるべきことが芋づる式に増えて焦ってしまいそうになる心を、俺の手を握る赫夜の柔らかな手の温もりが落ち着かせていた。
「赫夜、あのさ。夕鶴のことだけど」
「どうかした?」
「飾ちゃんのこと……まだ本人って確証も無いけど、もしかしたらお姉さんかもしれないって言った方が良いのかな」
「どう……なんだろうね」
赫夜は俯きがちに歯切れの悪い返答をする。
「私には……判断しかねると言えば良いのかな。夕鶴は過去の記憶に触れそうになると、今日のように恐慌状態に陥るんだ」
夕鶴の変調は恐怖のせいにしては行き過ぎていたが、強いフラッシュバックが原因だったようだ。
「そっか、それで倉庫で飾ちゃんの話をした辺りから様子がおかしかったのか」
「血を分けた家族という存在は人間にとってどれ程のものなんだろうね」
赫夜は気まずそうに言って、瞳を伏せ気味に逸らす。
「微かに記憶に触れただけで、あれほど苦しそうにしているのに……教えて、思い出させるべきなのかな」
「……確かに、難しいな」
夕鶴なら知りたがる気がして口を出してみたけど、赫夜がこれまで話さなかった理由も勿論わかる。
家族への思い入れは人それぞれだろうし、本人にとって今が幸せなら無理をさせる必要は無いかもしれない。
正解なんて、きっと人によって違うんだろう。
「私はね、忘却は人が生きるために必要な機構だと思ってる。夕鶴も耐え難い苦しみを……生きていくために忘れたんだと」
だから、それで良いと思っていた。
静かな赫夜の呟きは少し掠れて聞こえた。
「……赫夜にも、そんな経験があった?」
忘れたいほどの痛みが、赫夜にもあるんだろうか。
気軽に踏み込んで良い部分ではないような。でも、ふと湧いた赫夜のことが知りたいという気持ちを抑えられなかった。
「無いよ。そうした人々を何度も見てきただけ」
赫夜は瞳だけ上げて、俺を見て寂しげに笑う。
「辛かった記憶を忘れて、憎かった記憶を時間とともに薄れさせて……人はなんと生きる事に強かで健気なのかと。私には彼らがとても目映く美しく見えた」
ゆっくりと、そのまま天井を仰ぐように赫夜は顎を上げた。
「でも、彼らは本当は忘れたくなかったのかな。私では、やっぱり……わからないね」
顔を顰めて自嘲する赫夜の手を元気付けるつもりでぎゅっと握ると、赫夜は困ったような、面映そうな顔で俺を見る。
「赫夜だからじゃない。俺だって想像してもわかんないし、答えなんて人によって違うよ」
「そう……かな……」
「俺はそう思った。――ああ、じゃあ……最初の質問の答え、夕鶴が落ち着いたら聞いてみよう」
多分それが一番良い。
俺が言うと、赫夜はきょとんとして首を傾げた。
「昔の事を聞きたいかどうか。話す話さないとか俺達が考えるより、夕鶴に選んで貰う方が良いよなって思い直した。俺達も、もうそこまで子供じゃないしさ」
「……そうか、そうだね。夕鶴は自分で選べる子だ」
赫夜は頷いて、でも、やっぱり少し寂しそうに微笑んだ。




