72話 月のお姫様の記憶と間の悪い男
「赫夜に話さないと……」
できる限り平静を装って展示スペースを出てから、早足で駅に向かい帰りの電車に飛び乗った。
『少し話せる?』
車内の端で立ったまま、急いで赫夜にスマホでメッセージを送ったが、最寄り駅に到着しても返信は来ない。
元々返信が早い方じゃないと知っているのに、今の俺は漠然とした不安に駆られてしまっていて、たかが数分すら長く感じていた。
あの宗教法人は怪しいにしても、赫夜に害があるとは限らない。
ただ崇めているだけと考えるのが自然だ。
そもそも、俺よりよっぽど強い赫夜を心配するのも変かもしれない。
だけど、無事を確かめて、声を聞いて安心したかった。
「――そっか、まだ十三時前だ!」
スマホ画面の時刻を見て、つい声を上げて納得してしまう。
この時間だと、赫夜はまだ寝ている可能性が高い。
連絡がつかない理由に思い至った時には、既に足が赫夜の家の方角へ走り始めていた。
+++
「ちょっと急用! 勝手に上がらせて貰うから!」
玄関前まで来てから、先に夕鶴に連絡すれば良かったと思い出したが、在宅かもわからないし気が急いていたので、少し大きな声で断りながら家に上がった。
「赫夜、起きてくれ!」
就寝中の耳には届かないとわかりつつ、声を掛けながら部屋の扉を勢いよく開いて中に踏み込む。
しかし、部屋に入ってすぐ目に入るベッドの上はもぬけの殻だ。
……あれ?
疑問に思って視線を少し横にずらすと、ベッドのすぐ脇にあるクローゼットの前に、赫夜がこちらに背を向ける格好で立っていた。
「起きてるよ。どうかしたの?」
突然部屋に入った俺の声に反応して肩越しに訝しげな顔で振り向いた赫夜は、丁度、下着の金具を背中で留めている最中だった。
「しろ……」
思考が止まる前に、慌ててぐるりと大きく体を捻って後ろを向く。
「ごめん! 見てな……一瞬しか見てない!」
思い出すな、思い出すな。
何も考えてはいけない。
頭の中で念仏のように唱えて邪念と記憶を無いものにしようと試みるも、背後から聞こえてくる衣擦れの音が頭に響いて仕方がない。
「そう慌てずとも……私は別にお前に見られて困ったりしないけど」
嫌悪されるよりはマシだけど、あっさり平坦な口調で言いきられるのも複雑な気分だ。
「俺は困る……!!」
「なら、今度は入る前に確認しなさい」
「それは、ご尤もです……」
間髪入れずに返された至極真っ当な指摘にぐうの音も出ない。
赫夜に背を向けたまま、謝罪の念を込めて頭を下げた。
「いや、本当にごめん。どうしても話したい事があったんだけど、メッセの返事も無いからてっきり寝てると思ってて」
「ん。連絡が来ると思ってなくてスマホを近くに置いていなかった。今日は竜と会う予定じゃなかったの? もう終わった?」
「遊びは竜の都合悪くてキャンセルになったんだ。けど、暇になって街をふらついてたら――」
「ちょっと待って」
早速本題に入ろうとした俺の言葉を赫夜が遮る。
「……何?」
「話すなら、ちゃんとこっちを見て話しなさい」
赫夜は不満げな声と一緒に俺の上着の裾が引いてくるが、今振り向いて顔を見たらよからぬ映像を細かく思い出してしまうこと必至だった。
「わかった……そしたら、もう少し待って」
俺には心を整える時間が必要だ。
さっきまで赫夜の顔をすごく見たかったはずなのに、どうしてこうなってしまうのか。
自分の間の悪さをささやかに嘆いた。
+++
赫夜の部屋のベッドを椅子代わりにして並んで座り、改めて今日の出来事を伝える。
すぐに知らせるべきだと思って家に来たのだということも。
「――なるほどね。金鵄の掛け軸と千年前の事情に酷似した絵巻物か」
赫夜は思案するように目を細め、唇の下を細い指でなぞる。
「赫夜は、展示会やってたこの金……何とかって宗教知ってる?」
よれた三つ折りのパンフレットを差し出して訊くと、受け取った赫夜はしばらく表紙の団体名をじっと見つめてから緩く首を左右に振った。
「初めて聞く名前だね。でも、先代を祀っている組織はいくつかあるし、その一つの可能性はあるけど……」
「先代?」
「そう、日本書紀に出てくる導きの金鵄が先代。先代は導きという役目を終えたのか何処かへ消え去り、新たに生まれたのが私だよ」
「あれは赫夜じゃないのか」
「お前と鞘守と同じ、生まれ変わりってところかな。同質の存在で有りながら、先代の金鵄と私は違う個だね」
うんうん。と、赫夜は自分で言いながら納得するように深く頷く。
生まれ変わりという答えは、俺にとって想像しやすいものではある。
「赫夜も生まれ変わったりしてるんだな」
「私も一応は生き物だからね」
俺のぼんやりとした感想に、赫夜は困ったように眉を下げて微笑む。
「……けど、私のような存在が一度消えてからまた生まれたことには、意味があるのだとは思うよ」
「意味……?」
「先代がこの国の祖を導き戦を収めたように。私にとっては、千年前の約束を果たし、まつろわぬ神を倒すことがそうなのだと思っている」
赫夜の蜜色の瞳が、窓の外の薄青い空へ向けられる。
眼差しと言葉から感じる強い意思に、赫夜が鞘守との約束に拘る理由がまた一つわかった気がした。
「じゃあ、俺頑張らないとな」
「朝来なら大丈夫だよ」
環月の埋まった手首を擦りながら言うと、赫夜は俺に視線を戻して柔らかく笑った。
しばらく見つめ合っていた赫夜の笑顔の綺麗さに、とうとう平常心を保てなくなり小さな咳払いで空気を破る。
「……あ、ごめんね。話が逸れちゃってたね」
「いや、俺が質問挟んだから」
赫夜は手元のパンフレットを開いて目を通す。
俺も軽く読んだが、簡単な組織紹介と施設の写真が載っているだけの内容だ。
先入観からか俺には全部胡散臭く見えてしまうので、赫夜がどう判断するか気になる。
「これは、朝来の感覚が当たったかもしれないね」
赫夜はパンフレットを閉じて唇の端を持ち上げた。
「赫夜から見ても、やっぱり怪しい?」
本当に敵の可能性が出てきたかと思うと、ゴクリと大きく喉が鳴る。
「神道系の団体のようだけど、それにしては祀っている対象の記述が無い。なのに、展示会ではまつろわぬ神に関する絵巻が大きく飾られていた。調べる価値は十二分にあると思うな」
赫夜はやっと手掛かりを得たと感じたのかもしれない、ニヤリと愉しげな笑みを浮かべながら立ち上がった。
「……どうかした?」
立ち上がった赫夜に悪い予感がして、恐る恐る声を掛ける。
「都筑に連絡して金葎求道会を調べさせる。ついでに、朝来が折角教えてくれたのだから、私も展示会を見に行ってみるよ」
ぐっと胸の前で拳を握り力強く答える赫夜の姿に、「やっぱりな」と言う思いと共に軽い頭痛がして額を手で押さえた。
「朝来も行く?」
赫夜は座ったままの俺の前に立ち、腰を折り曲げて顔を覗き込んでくる。
「……俺は行かないし、赫夜も駄目だ」
近くなった顔をまっすぐ見返すと、赫夜は僅かに眉を顰めて唇をきゅっと結ぶ。
「あの宗教はまつろわぬ神に関係あるかもしれないけど、それ以上に……赫夜を狙ってるって言うか、嫌な感じがするんだ」
「向こうが私に用があるなら、なおさら私自身が出向いた方が話が早いかもしれないよ」
「いや、調べるのは都筑さんに任せよう。赫夜は行ったら駄目だ」
不服そうに言う赫夜を再度止める。
まつろわぬ神に関係するなら調べる必要はあるだろう。
でも、あの宗教団体には赫夜を近づけたくない。
金鵄と金色のかぐや姫、掛け軸と絵巻物をただ見ただけだと色味程度しか共通点はない。
だからこそ、赫夜に対する執念のようなものを感じて薄気味が悪かった。
「心配しなくとも目立つ気はないし、危険そうなら様子を窺うだけに留める。もし仕掛けてきても街中で応戦などしないよ」
「そうじゃない、俺はあの展示会には近付かないでくれって言ってるんだ」
「現地の確認も必要だと思うけど。怪しくて気になるから報告してくれたんじゃないの?」
「俺が今日家に来たのは報告の為でもあるけど、それ以上に赫夜が心配だったからだ」
「……私は人に後れを取るほど弱くないよ」
赫夜は、俺に信用されてないと思ったのか眉間のシワを深くする。
「それでも心配なんだよ。赫夜が強いことくらいわかってるけど、俺が心配したらおかしいのかよ」
「……っ」
俺が言い返すと赫夜の肩がびくりと跳ねた。
赫夜はわずかに瞳を揺らしてから、一気にしゅんとなって俯きがちに唇を噛む。
「ごめん。強く言い過ぎた」
しばらく待っても言葉を発しない赫夜に、気まずくなって俺から声を掛ける。
すると、赫夜はハッとしたように顔を上げて慌てるような手振りを見せた。
「あ、ううん……! その、私は……」
「まつろわぬ神に関連する話だから、赫夜にとって大事だってわかってるけど、せめて今回だけでも……」
「わかった! ……わかったから、大丈夫。お前の意向はちゃんと……聞くよ。展示会には行かない」
赫夜は狼狽えたように言うと、ぎゅっと服の袖を握り込んだ両手で口元を隠してしまう。
「気が……急いてしまったけど、大事な手がかりだものね。慎重に行こう」
すぐにクルリと後ろを向いて、赫夜はベッドの角に無造作に置かれたスマホを手に取って操作し耳元に当てる。
おそらく都筑さんに掛けているんだろう。
赫夜を説得できたことに安堵の息を吐きながら一連の様子を目で追っていると、赫夜がちらりと横目で俺との視線を合わせて、部屋の扉を指差す。
「朝来、調査依頼が終わるまでリビングで待ってて。昼食はまだなんでしょう? 食べてくといいよ」
「急に来たのに……ありがとう。作ってもらえるなら食べたい」
昼食の話題を振られると、とたんにお腹が空いた気がしてくる。
今日は昼を外で食べる予定でいたので朝から何も口にしていなかったせいだろう。
それに、夕鶴には以前愚かと揶揄されたけど、赫夜が作ってくれた飯を食べられるのは嬉しかったりするのだ。
味は限りなくゼロに近い薄さではあるものの、元々病人飯にも慣れてるし、年寄りと長く暮らしていたのもあって薄味への抵抗も少ないから問題無い。
「お前が食べたいって言うの初めてだね。お腹が空いてるなら多目にしようか」
赫夜がへにゃりと頬を緩ませる。
心なしか喜んでいるように見える表情が可愛くて、バクバクと心臓が早く動いてうるさい。
「うん、楽しみに待ってる」
顔面がだらしなくなる前に、何とかそれだけ伝えて部屋を出た。
次回分は月曜日に更新します。




