7話 月のお姫様は君のもの
「それじゃあ、自己紹介が終わったところで本題に入ろうか」
穏やかな笑みを浮かべ、居住まいを正した赫夜が話し始める。
「最初にも言ったけど、今日は昔話をしに来たんだよ。前世のお前と交わした約束についての話」
ゴクリと大きく喉が鳴った。
一体、前世の俺は赫夜のような綺麗な女の子と何を約束したのだろうか。
ほのかに甘い好奇心で胸が高鳴る。
「千年前、私達は『まつろわぬ神』という脅威を退けるために奔走していた。けれど、打ち倒すことは叶わず、封印するのみに留まった。その封印も年月とともに弱まり、遠からず解ける。完全に封印が解ける前に、今度こそまつろわぬ神を討つ。それが私とお前との約束だよ」
そうして、まるで大切な宝物について語るような声色で話を結ぶ。
「だから、私と一緒に、まつろわぬ神を倒しに行こうね」
見た人が溶けそうなほどの極上の笑みで告げられた、一連の発言に対する理解を脳みそが拒んだ。
もしかしたら、俺の耳が急に悪くなったのかもしれない。
「ちょっと……もう一回言ってもらっても良いかな?」
一縷の望みを掛けて問い直す。
「私と一緒に、まつろわぬ神を倒しに行こうね」
再び同じ内容を朗々と話す赫夜を見て、目眩のような感覚に襲われて額を軽く手で抑え る。
黎明期のRPGだってもう少し丁寧な導入だったろうに。
とは言え、そもそも『封印された神を倒しに行こう』という枠組み自体が荒唐無稽なので、丁寧な説明を貰っても納得できるかはあやしいところだが。
「朝来? どうしたの?」
意識が遠くなっているのを感じたのか、赫夜は下から俺の顔を覗き込んで視野を確認するように手を降っている。
後ろにいる夕鶴さんは、もうスマホをいじっていて話を聞いている素振りすら無い。
「ああ、うん。大丈夫……」
な、わけがない。全然大丈夫じゃない。
けれど、心配そうに俺を見つめる赫夜につい虚勢を張ってしまった。
昔から何度も見る夢に出て来たきれいな女の子が、現実にも現れて俺に微笑んでくれる。なんてのは、憧れる人が多いファンタジーなシチュエーションだと思う。
だからそんな子が、前世で交わしたらしい約束のために会いに来たって言ったら……少し、ほんの少しくらい、意識してしまってもしょうがないじゃないか。
魂ごと抜けていきそうなほど、深く大きなため息が口から出てく。
神様を倒すなんて冗談としか思えないのに、赫夜の真剣な眼差しは嘘をついているようにも思えなくて。
受け止めたくはないが、受け止めるしか無いんだろうか……何も考えたくない。
眉間のシワを指先で伸ばしながら、早くも諦めの境地に至り掛けていたが、なけなしの理性がなんとか現実を理解しようと試みる。
「待ってくれ、話が壮大すぎる。『まつろわぬ神』って何なんだ? 倒すとか、封印とか、とんでもなさそうなのは伝わってくるけど」
これまで封印されていた神様を今度こそ倒さなくては、と言われると魔王や悪神といった印象を受ける。
「まず、なんでその神様が封印されたのか、なんで倒さないといけないのかも教えてくれなきゃ。良いとも駄目とも言えないよ」
「……この国、この土地に住んでいる人間が皆死んでしまうから」
「みんな死ぬ……?」
「この地に住まう人間に災いあれ。そういう呪いなんだよ」
「災いって、神様の祟りってことか?」
想像以上に物騒で規模の大きい話だ。
やはり、にわかには信じがたい。
「うーん、あれは厳密には神ではないんだけどね。とある一族達が行った大規模な儀式によって強固な呪いとして具現化した怪異なんだ」
「怪異……?」
「そう、あれが本物の神格であれば、とっくに国が地図から消えているだろう。だからといって、当然とても危険な存在だということに変わりはないよ。まつろわぬ神と呼んでいるのは、当時わかりやすい呼称が必要だったからだね」
「…………?」
話が普通に難しくなった。
説明を求めたものの理解ができない気まずさで、口角が勝手に引き上がっていく。
「はぁ……やっぱりきちんと説明しようと思っても、ややこしくなっちゃうね」
赫夜は眉を下げて肩を縮める。
「なんか、ごめん……理解できなくて」
「お前のせいじゃないよ。呪いや秘術、怪異のたぐいは、視えていようとお前にとってこれまで縁遠かった世界の話のはずだ。単語一つとて馴染みが薄いだろうし、理解し難くて当然だよ」
「そう思ってもらえると、ありがたいけど」
「うん。それに朝来は、あんまりこういう話を聞きたくないでしょう?」
「いや、聞きたくないわけじゃないけどさ。ゲームとかファンタジーな話は嫌いじゃないし……ただ、積極的に関わって来なかっただけというか」
言いよどむ俺を気遣うように薄く笑う赫夜が俺の目には寂しげに映って、そんなこと無いと、つい調子良く言ってしまう。
「――だからね、思ったんだよね」
赫夜は瞳を伏せて、静かに続ける。
「わからないなら、言わなくてもいいかなって」
「はい……?」
直後、赫夜の口から出たとんでもない理論に、頬が引き攣るのを抑えられなかった。
「先週お前と会ってからね、考えたんだよ。どう説明したら伝わるかなって。会議室でも借りて紙の資料を用意すべきかとか……けど、別に仔細を知ろうが知るまいが、やってもらいたいことはまつろわぬ神を倒すことだけだし。どうでもいいかなぁって」
「どうでもいいって……そんな適当な」
オカルト話もわからないが、赫夜の思考もまったくわからない。
「どうして? もっと聞きたいの?」
「だって、そこはさぁ……詳しく事情を知ったら、実は退治しない方がいいとかいう場合もあったりするのでは?」
思考の跳躍ぶりに、俺だって一言くらい言いたくもなる。
「えぇ? どうしてそう思うんだろう。あれの封印が解けたら人間なんて皆死んでしまうんだよ?」
「それって、一応聞くけど本当に……?」
「お前は私がそんな嘘をつく意味があると思うの?」
大きな瞳を丸くして、小首を傾げながら不思議そうに言う。
赫夜が嘘を言っているとは俺も思っていないけれど、ああも清々しく説明をぶん投げられたら可能性の一つとして探りたくもなる。
「ちなみに、その封印が解けるのって、今日とか明日の話では流石にないよね……?」
「そんなわけないじゃない。後二、三年の猶予はあるよ」
赫夜の言葉に目眩がしてくる。
何を馬鹿なと言いたげな表情をしているが、話の規模からすれば十分直近な日程だ。
「どうしてもっと早く来なかったんだよ……」
せめてあと数年あれば、心の準備がもう少しできたんじゃないのかとささやかに嘆く。
「年端もいかない子供に危険なことさせられないでしょう」
やや憮然とした表情で言い切られてしまう。
……今でも俺は未成年だよ。
「お前のそうした困惑も理解してるつもりだよ。大体、前世のツケを今生のお前に払わせようということ自体、私だってどうかと思うんだよね」
俺が先ほどからこの話を胡散臭く感じているのを視線から読み取ったのか、赫夜は呆れたように息を吐き肩を竦める。
「ただ、これはお前にしかできないことだし、やってもらえないと困る」
「俺にしかって、赫夜じゃ倒せないのか?」
「私はそれなりに力がある方だと自負しているけど、一人では無理だよ。だから、お前のことが必要なの。言ったでしょ、一緒に倒そうねって」
「俺じゃないと駄目ってのは、なんで?」
「勇者の剣に選ばれた魂だから」
間を置かずに返された答えの内容は、やはりどこかRPGめいていた。
俺の顔を見て柔らかく笑う赫夜は、この話がゲームみたいだと感じる俺の心を察してそう言ってみせたのだろうか。
勇者の剣に選ばれたなんて、ゲーム上ではそういうものだとセリフを送ってしまうのに、現実となるとすんなり受け入れられないものなんだなと感じていた。
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何度目かの沈黙が、部屋の中を満たした。
やる以外に選択肢がないことは、これまでの会話の中で何となくもう察している。
こうなったらもう、どうにかするしかないじゃんって考えてしまう能天気な自分もいる。
けれど、流石に命がかかっていそうなこの状況で、すぐさま「はい」と答えを返せそうにはない。
皆のために神を倒すだなんて、俺にそんな大層なことができるのか?
自分の膝の上に置いた拳に、力が入ってしまう。
「本当にね、急な話だし危険な話でもある。受け入れ難いだろうと思う……でも、この国の人々のためにはお前に戦ってもらう必要がある」
煮え切らない俺を前に、赫夜はゆっくりと穏やかな口調で諭すように提示してきた。
「そこで、お前のために私もお得なオプションを用意してみたよ」
ぱちぱちと、胸の前で小さく手を叩く。
数秒前までの真剣な空気はどこへ行ったのか。
まるで胡乱な深夜の通販番組かのようだ。
「お得なオプション……?」
ノリは通販だけど、話の流れとしては討伐報酬ということだろうか。
ここまで報酬なんてものは頭の片隅にすら浮かばなかったが、RPG的に考えるならあって不思議はない。
アイテム等をくれるというなら確かにお得な印象ではあるけれど。
「私と契約しよう」
しかし、きれいな笑顔で言う赫夜は立派な壺売りだった。
「ま、間に合ってます……未成年なんで、契約書とか出されても困るというか」
付け加えた俺のか細い断りの声は赫夜の耳に届いていないらしい。
「これは私の趣味でもあるんだけどね。私はこれまで、人間と契約や約束を結んでそれを叶えてきた。だから、まつろわぬ神を倒すまで、私がお前の願いを叶えよう」
「願いを叶える……?」
「そうだね。期間限定だし、私に叶えられる範囲でとはなるけど。これまでの契約者は一人につき一度だけだったのだし、悪くない条件なんじゃないかな」
歌うように契約内容を話す赫夜は後光が見えるほどに輝かしい。
本気で「はい」以外の返答は聞く気がないという可能性が脳裏に浮かんでくる。
これは絶対にそうだ。
「……うん、すごいね」
「そうでしょう」
俺の投げやりな賛辞に、どこか自慢げに胸を反らしている赫夜は可愛らしい。
ああ、もう。どうにでもなれ。
どうして俺はこんなにこの子に弱いんだろう……
「じゃあ、そういうことでいいよね」
「……ハイ」
赫夜は全身から喜色を漂わせて、無邪気な笑顔で話を進めていく。
俺の返答に満ちている諦観は伝わりはしないらしい。
「承認が取れたってことで、少し手を貸してね」
赫夜は膝の上に置かれていた俺の左手を取り、指同士を交互に組むようにして固く握った。
一週間前と同じ柔らかな感覚。隙間なく密着した手のひらの、その小ささ。
前回は赫夜が両手で、俺は包まれる側だったけれど、こうして片手同士を合わせると赫夜の手は俺の手のひらにほぼ収まってしまう。
やましいことを考えてるわけじゃないけれど、変に意識してしまって体温が上がっていくのを感じる。
赫夜の顔をちらりと見ると、向こうはずっと俺を見ていたらしくすぐに目が合った。
柔らかな笑みが、更に深く、甘みを増す。
親しみと、慈愛をはらんだような蜜色の瞳に、自分の姿が映って見える。
……本当に、どうしようもない。
「これが、三個目だからね」
赫夜が言った意味を考えようとしたその時、絡めていた左手の小指に静電気が起きた時に似たパチッとした痛みが走る。
「……っ!」
大した痛みではないが、想定外の刺激に驚いて反射的に大きく動かしたことで俺達の手は離れた。
「なんだ……?」
まだ痺れた感覚のする指の付け根部分を確かめると、輪のような痕があった。
指をくるりと一周囲う、まるで指輪みたいな痕。
輪になった部分だけ日に焼けたみたいに周囲の皮膚より濃くなっていた。
「それは契約の証。ただの契約書みたいなものだから害はないよ」
「契約の証なんてあるんだ」
思わず感心して、しげしげと眺めてしまう。
本当にファンタジーな話だ。
「目立つ程でもないと思うし、終わったらちゃんと消えるから」
「なるほど。確かに言われないと気付かないかも」
手元を見たら変わった痕だと気になる人もいるだろうが、俺の手をそんなにじっくり見るような人間もいないだろう。
契約の痕について思考を巡らせていると、視界の中心にある俺の左手に白く繊細な指先が伸びてきた。
突然の感触に心臓が跳ね上がる。
驚いて顔をあげると、俺の手を取って心なしか嬉しそうな表情をしている赫夜が目に入った。
赫夜の指が、視線が、ゆっくりと滑るように俺の小指の付け根にできた契約の輪を優しくなぞっていく。
「ねぇ、これで私はお前のものだよ」
赫夜はその甘い蜜のような瞳を伏し目がちに流して、悪戯っぽく笑みを浮かべた。