62話 男子高校生は月のお姫様に届けたい【第一章完】
今日という日は、世間ではクリスマスイブと言うと伝わりやすいのだろうか。
俺は今、友人達との数日間に渡る人気テーマパークへのクリスマス旅行に出掛けた夕鶴と入れ替わるように赫夜達の家に入り込んで、リビングにある上質で寝心地の良い白い布張りのソファに横たわって目を閉じている。
かれこれ数時間はこうして転がっていて、時折固まった体をほぐすように寝返りを打つ程度しかしていない。
デザインと機能性を兼ね備えた人間を駄目にしかねない身体に吸い付く弾力性のあるソファは、寝心地が良すぎて気を抜くと睡魔に足を取られかける。
何故こんなことをしているのかと言えば、赫夜が逃げるからだ。
家に行くたびに逃げられるなら、いっそ諦めて帰ってくるまで居座ってやることにした。
夕鶴には留守中の家に留まる許可を貰っている。
赫夜が母さんの妄言を適当に流したせいで出来上がった付き合ってるという設定を使って、実に無意味な性教育その二を受けてからこの場に来ているのだ。
いい加減、赫夜は俺の前に姿を見せるべきだ。
八つ当たりに近い感情を胸の奥に仕舞い込んで再び寝返りをうつ。
寝たふりをしているのは油断を誘うためと言えば良いんだろうか。直感的に起きてたら逃げるが寝てたら寄ってくる気がしていた。
最後に時計を見たのは二十一時だった。
あれから二時間近くは経っているはずなので、そろそろ手持ち無沙汰になってくる。
喉の奥で何度目かのあくびを胃に押し戻していると、リビングの扉が開く微かな音が耳に届く。
赫夜も俺が居ることを知っているのかもしれない。気配を消しているらしく感じ取れなかった。
耳をそばだてているせいで、スリッパが床を摺る音がやけに大きく聞こえる。
赫夜との距離はだいぶ近そうだが手の届く範囲には居ないようだ。
もう少し近くまで……悟られないように身体の力を意識して緩めて、もう一歩か二歩かと堪えたが、直後にすっと踵を返したような音が聞こえた。
気付いて逃げたのか? 追いかけるべきか?
考えを巡らせていると、程なくしてまた足音が近づいてくる。
今度こそギリギリまで寄ってきて欲しい。
今だ、と感じたままに腕を伸ばす。
急に身を起こした俺に驚いて瞳を丸くする赫夜を強く抱き寄せた。
学校の屋上で、抱き締めたら折れそうだと怖いほどだった華奢な身体を今は隙間なく腕に収めている。
ぱさりと柔らかな音を立てて床の上に白いシーツが落ちる。
状況的に、俺が寝ていると思った赫夜が掛けようとして持ってきてくれたんだろう。
「朝来……何を……」
「赫夜と話がしたい。俺の話を聞いて欲しい」
頭の横から聞こえてくる赫夜の戸惑う声に、身じろぎすらさせないように拘束を強める。
「……先日も言ったけど、話す理由がない。お前との契約はもう無いんだから」
「そうだ。俺と赫夜の契約は終わった。まつろわぬ神を倒すのなんて前世のツケ払いだし、夕鶴は俺の幼馴染だ。俺と赫夜には関係ない」
「…………」
「今の俺達には何もない……赫夜が俺の話を聞くべき理由なんて一つもないってわかってる。それでも俺は赫夜と話がしたいんだ」
事実をただ一つ一つ挙げていく。
赫夜が言っている通り、繋がりのなくなった俺の話に付き合う理由なんて何もない。
「わかってるなら離れて」
強い言葉なのに、小さく震えて掠れていた。
「嫌だ。逃げたかったら逃げればいいだろ。赫夜こそ、話す気も無いなら何で俺に前に出てきたんだよ」
「ここは私の家だよ。それに、いくら室内でも今は冬だもの、ソファで寝るのは良くないと思うけど」
「心配はしてくれるんだ」
「……っ。知らない仲じゃないし、少しくらいするでしょう。起きたなら家に帰りなさい」
「夕鶴には家に居て良いって許可取ってるし。――で、このまま話を聞いてくれるってことで良いの?」
俺の問いかけに赫夜は答えない。
わずかに頭が下がったが、諦めか頷きかの判断はつかなかった。
「逃げていい。話したくないなら、俺が嫌なら逃げてくれ……これまでみたいに今すぐ逃げろよ」
柔らかな淡い金色の髪を掻き分けて赫夜の首筋に顔を埋める。
薄い身体が強ばっているのが伝わってくるけれど、俺から手を緩める気なんて微塵もない。
逃げるなら逃げろ。
するべき理由なんかじゃなくて、赫夜の心で決めて欲しかった。
+++
「……話は聞くから、離して」
長い沈黙の後、背中の布地を指で引いた赫夜が細い声を漏らす。
わかったと頷いて素直に腕を解いて身体を離せば、赫夜はすんなりと解放されたことが意外だったのか呆けた顔で瞬きをする。
「赫夜が逃げる気なら消えて逃げられるのわかってるからさ。ありがとう」
赫夜の戸惑った表情が面白くて覗き込むように目を合わせながら理由を知らせると、唇を小さく結んで少しだけ俯いた。
「隣り座って。あと、手を握ってもいいかな」
「それは構わないけど……どうして手を握る必要があるのかな?」
許可を得たので、おずおずと差し出された赫夜の両手を下から取ってソファに促す。
「俺が落ち着くから」
緩く握った両手を上下に揺らしながら言い切れば、赫夜は困惑に眉を寄せた。
目に見える繋がりに心が凪ぐのは俺も同じだ。契約や約束といった明確な関係に縋る赫夜の気持が全く理解できないわけじゃない。
俺だって、赫夜と付き合いたいと思った。
恋人になって欲しいと、曖昧な関係に名前の付いた札を掛けて安心したかった。
だけど、結局はただの名札でしかない。
大事なのは想う気持ちだと、何があっても赫夜は家族なのだと笑った夕鶴の言葉を思い返す。
赫夜は不安げに肩をすぼめながらも黙って俺の言葉を待っている。
「俺は赫夜が好きだよ」
自分でも不思議なくらい穏やかな声で告げた想いに、赫夜が瞳を上げた。
「何なの急に。意味がわからない」
「屋上で言った気持ちは今も変わらないって、最初に伝えておきたかった」
素っ気ない口調で言い捨てて顔を背けた赫夜に、最後まで言わせて欲しいと離れかけた手を引き寄せる。
「この前は赫夜のこと、何もわかってないなんて偉そうに怒ってごめん」
「……それは良い、事実だもの」
赫夜が自嘲気味に呟く。
目蓋を閉じたのは、先を聞きたくないと言っているようにも見えた。
「良くない。まず俺がちゃんと話さなきゃいけなかったんだ。したいこと、して欲しいこと。それ以外も思ってること全部」
最初はただ恥ずかしかった。
初めて知った、誰かを好きだと思う気持ちに戸惑ってばかりで上手く喋れなかった。
友達には言える些細な褒め言葉一つ口にできなくて。
なのに、赫夜が俺の心の声を拾ってそれらしく動いてくれていたから、何となく上手く行ってる気分になって。
お互いを繋ぐために、思いを伝えるための言葉を積み重ねていくことを忘れていた。
「俺はこれから先も、赫夜とこうやって顔を見て話がしたい。一緒に居たい」
「どうして? 私がお前を怒らせて、私のこと嫌いになったから……いらなくなったんじゃないの?」
弱りきった声で吐き出された困惑はやはり見当違いも良いところで。
俺だって鈍いとか子供だとか色んな人に呆れられたレベルなのに、それ以下じゃないかと苦笑いしてしまう。
「俺が今ここに居るのも、屋上で付き合いたいって言ったのも、赫夜の言葉にショックを受けたのも……怒ったのも。契約を解消したのも、全部赫夜が好きだからだ」
微かに震えた指先に、赫夜の困惑が深まっただけだと気付かされる。
拙い言葉しか持たないことがもどかしい。どう言えば伝わるんだろうか。
「……だって、おかしいよ。契約はいらないって言ったのに」
拗ねた子供みたいに口を曲げて俺を咎める。
「うん。契約はいらないよ。赫夜に俺の望みを強制するような関係は嫌だった」
「契約自体に強制力なんてものはない。私は……して欲しいこと、お前の強い願い。私にできることなら何でもしてあげたかった」
嫌々やっていたと取られるのは心外だ、とでも言いたげに声を上げた。
「ねぇ朝来……何が駄目だったのかな。何度考えてもわからないよ。学校まで行ったのがいけなかった? 勝手にくちづけしたから? それとも、私の身体が人と違って……触れてみて嫌になった?」
小さく震える赫夜の声は、泣いてしまうんじゃないかと思うほど心細く指先に落ちる。
ただ、切実な眼差しは酷く間違っていると苦く胸を焼いた。
その献身が何処からくるものなのか。俺にもようやくわかったのだ。
赫夜はきっと、願いを叶える形でしか人と繋がれないと思い込んでいる。
人に願いを乞われ続けて、人が好きだから叶え続けて。自分にはそれしか無いと思っているのかもしれない。
こうなってしまったのは、赫夜が悪いわけじゃない。
超常の存在に出会った時に、切実に奇跡を願った人間が悪いとも言えない。
だけど、千年生きている間に気付ける瞬間が、覚えられる瞬間があったはずなのだ。
それをしなかったのは赫夜が臆病だからだ。
怖いなら手を引くから、わかるまで伝えるように頑張るから、俺の手を取って欲しい。
「そんなんじゃない。俺はしょうもない奴だからさ、嬉しかったよ。赫夜に出会ってからずっと、優しくされて、キスされて、その度に嬉しくて浮かれてた」
身勝手だったと、思い出して喉がつかえる。
「じゃあ、何が悪かったの? 望まないことをしたから怒ったんじゃないの……?」
「俺の願いはさ、赫夜も同じ気持ちでなきゃ意味がなかったんだ」
だからこそ、知ってしまった瞬間から契約を続けることだけはできなかった。
「私……?」
赫夜は瞳を丸くして瞬きを繰り返している。
どうしてここで疑問を浮かべるのか俺の方が疑問だ。
「好きだって言っただろ」
「私も、お前のこと好きだよ」
「……今はそれで十分嬉しいけど、赫夜の好きと俺の好きは、まだちょっと違うかな」
ここ数日で結構好かれている気はしているけど、恋愛感情かと考えると疑いが濃い。
不服そうに眉間を寄せる赫夜に、本当のところを告げた。
「赫夜の言うこと、契約を残したままじゃ信じることは出来なかったよ」
俺のために甘い嘘を囁いてくれているんじゃないかと、きっとずっと猜疑したはずだ。
「それにさ、願いを叶えて貰うだけなんて嫌だ。貰ったら、返したいんだよ。赫夜のして欲しいこと、俺だって叶えたいんだ」
「……別に、そんな必要無い」
赫夜は背を引いて小さく首を振る。
「あるだろ。赫夜もちゃんと受け取ってくれ」
「契約は私が好きでやっていることだもの。対価を払わせるようなことはしないよ」
「ただ貰うだけ貰ったって、困るんだ。寂しいんだよ。赫夜がそれで良くても、貰う側はどうなる? 俺の気持ちはどうしたらいい?」
「朝来の? でも、私にはそんなもの……」
赫夜の表情はどこかぼうっとしていて、これまでの困惑を引き摺ったまま肝心なところは響いてはいないのだと見てわかる。それでも。
今はわからなくても、いつか届くと信じて言葉を降らせた。
「わかってないだけだ。だって、赫夜はまず見ようともしてないじゃないか。俺達が渡したいと思ってるものだけじゃなくて、自分が渡そうとしている手元すら。それで何がわかるんだよ」
言って強く手を握ると、赫夜は唇をきつく結んで視線を落とす。
「俺からは赫夜がいつもどこか寂しそうに見えた。契約や約束に拘るのは、寂しくて誰かと一緒に居たがってるからなんじゃないか。それが赫夜の願いじゃないのか?」
「そんなわけない……寂しいなんて、変だよ。私人間じゃないもの」
「人間じゃなかったら寂しいって思わないもんなの? 感情があるのに?」
「それは……」
前のめりに否定しかけたのに、その先を続けられず視線を左右に動かしてから「わからない」と弱々しく呟く声に苦笑いして、赫夜の手の甲を握ったままの親指で撫でる。
「止まらないで考えてくれ。赫夜の中に答えはちゃんとあるんだ」
自分の中に籠もって、逃げようとする赫夜に強く声を掛けて引き止める。
繋いでいた手を片手に纏めて、空いた手を俯きがちに眉根を寄せる赫夜の頬に伸ばす。
指の腹で目元をなぞると、少し驚いたように瞳を大きくして俺の顔を見た。
「辞書で見るそれらしい感情を当てはめてみても、本当に正しいのかなんて私にはわからない。私の感じているものは、ちゃんとお前達と同じものだろうか……」
「それはさ、赫夜が教えてくれなきゃ俺にはわからないよ」
他人の気持ちなんてわからないから。
「まずは言ってみて欲しい。口に出したり、人と話したりしてみて初めて自分の気持ちに『そうか』って納得することは俺もあるし。だから、教えて欲しい。聞きたいんだ。」
「……朝来の言うこと、よくわからないよ。きっと大事なことなのに」
心細そうに声を震わせながらも、俺の手から逃げるどころか感覚を確かめるようにさらに強く頬を寄せてくる赫夜の姿に口元が緩んでしまった。
「俺もまだ全部は上手く説明できないし、今すぐ理解して欲しいなんて言わないよ。これから考えて、覚えていけば良いんだ」
わかってほしいと思うのは俺の我儘だ。
それでも、届いて欲しい、伝わって欲しいと強く思う。
「だから、これからまた一緒に居てみないか」
ゆっくりと俺の求める着地点を口にする。
手のひらに乗る柔らかな頬の重みに、好きだという気持ちが温かく胸に満ちた。
許されるなら、ここからもう一度始めさせてほしい。
「赫夜の答えを聞かせてくれよ」
「でも、もう何も無いのに……またお前のこと怒らせるかもしれない」
赫夜の口から落ちる躊躇いは、あきらかに一緒に居たいとしか言っていなくて。
「人のこと遠くから見てたいとか言ったくせに。見るなら堂々と隣で見てろよ」
「……っ」
流石に焦れて呆れを込めた視線とともに言ってやれば、赫夜は頬を淡く染めて唇をわななかせた。
しばらく返答を待っていたが、物言いたげな瞳で刺してくるばかりで何もない。
「じゃあ、そういうことで良いよな」
俺が指で頬を押して催促すると、じっと視線を外すことなく上目遣いで尋ねてくる。
「朝来はおかしい。何でそんなに私と居たがるの。お前の願いはずっとそう……私に触れたい、私に優しくされたい、私にくちづけしたいって。朝来は私にって言う」
強い困惑の声とは裏腹に、赫夜は繋いでいた手を離して頬に添えた俺の手の上から包むようにそっと重ねる。
覗き込んだ瞳は少しだけ湿っていた。
「朝来に自分を乞われる度にどうしていいかわからなくなる」
「まぁ、多分うるさかったよな。迷惑だった?」
「初めはただ嬉しかった。大きな犬に懐かれるような心地で可愛くて。なのに段々、お前の視線が変わって……ひどく落ち着かなくなった」
きゅっと、赫夜の手に力がこもる。
見つめ合っていた瞳が逃げるように横に動いた。
「今もそう……そんな目で見られると、どうしてあげたらいいのかわからなくなる」
さっきより顔を赤くして、これでもかと眉を下げた弱りきった表情でこぼす。
「……私、朝来と一緒に居ても良いのかな」
「俺は赫夜と一緒に居たいって言った。赫夜もそう思ってくれるなら他に結論なんかないだろ」
言い切って、ゆっくりと顔を近づけて額を合わせた。
今度こそ大事にする。赫夜の埋められずにいた部分を満たせるような存在になりたい。
顔が近くなりすぎたと面映ゆさを感じながらも、目の前の赫夜に心の中で誓いを立てた。
「これからまたよろしく、赫夜」
「……うん」
赫夜の蜜色の瞳が柔らかく細められて、口の端が緩く持ち上がる。
久しぶりに見る赫夜の笑顔はやはりとても可愛いと、これまで緊張で抑えられていた脈が早くなるのを感じていた。
お読みいただきありがとうございました!
二章は二人の関係を進めつつファンタジー要素を回収に向かう予定です。
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