6話 月のお姫様、家に来る
日々は変わらず。されど、ここ数日の間に一気に冬めいた気温となり、これまでの暖気が嘘のように年末の雰囲気を強めている。
カーテンの隙間から覗く薄い青空と窓を揺らす風の音は寒々しく、休日を言い訳にして昼過ぎまでベッドの中で惰眠を貪ることを肯定しているかのようだった。
が、現実はそう甘くない。最近聞くことのない来訪者を告げる呼び鈴のざらついた電子音が階下から響いてきた。
家族の誰かが出るだろうと、掛け布団を抱きしめるように寝返りをうってから思い出す。
母さんは今日も仕事だし、父さんも朝から桑野の実家まで片付けに出かけてるんだった。
宅配が来るなんて話は聞いてないけどな……と前夜の団らんの記憶を探りつつベッドから這い出る。
あくびを噛み締め、ゆるゆると寝起きの重い足取りで階段を降りて行く。
「はーい、今出ます」
階段を降りたすぐ前にある玄関扉に向けて声を張る。
無性にむず痒くなった脇腹を部屋着の裾から手を突っ込んで掻きながら、一段と緩慢な動作で扉を開けた。
「すいません。お待たせしましたぁ」
応対が遅れたことに対する形ばかりの謝罪すら、口を開けばあくび混じりになってしまう。
「こんにちは、朝来。昔話をしに来たよ」
目に飛び込んできたのは、淡い金色。
肩口に掛かる程度に短い柔らかそうな金色の髪の毛が、陽の光を受けてきらきらと眩しいほどに輝いて見える。
全体的に作り物めいた繊細さのある美貌、長い睫毛に覆われた蜜色の瞳。左耳で揺れる赤い房の付いた耳飾り。
加えて、着ている服は先週の夜に会った時と同じ、濃茶のチェック柄のコートに白いワンピースと濃い色のタイツ……忘れるわけがない。
目の前に居るのは疑いようもなく赫夜だった。
「ぇえ?!」
玄関扉を開けたら全く予想外の相手が居たことで、眠気が一気に吹き飛んだ。
「え? 赫夜……だよね?」
「そうだけど。おはよう、だったかな? 寝てた?」
「あぁ、うん。おはよう……いやその、赫夜が家に来るとは思ってなくて」
くすりと小さく笑いながら、赫夜は俺に向けて朝の挨拶をする。
「それは言ってないからね。今日は駄目だった?」
「駄目って言うか、こないだ赫夜と会ったのも夢だったかもって、ちょっと思ってたとこだったから……」
連絡先も聞かなかったし一週間音沙汰もないしで、あれは極限状態の俺が見た願望ってやつだったのではと自分を疑いかけていたので、そこだけは少し安心した。
「ほら、現実だよ?」
赫夜は人差し指で俺の鼻の先を軽く突いた。
「……理解した」
触れるから夢じゃない、と言いたいようだけど、そういう確認方法はちょっと心臓に悪い。
「この前言った通り、約束について話をしにきたんだ。少し長くなるかもしれないし、立ち話もなんだから家に入れてくれると嬉しいな」
赫夜はもう一方の手を丸めて口元を隠すようにして、上目遣いに提案してくる。
俺がその可愛い仕草に言葉を詰まらせていると、駄目押しするように首を少し傾けた。
「ねぇ、いいでしょう?」
……それ、ずるいなあ。
元々断る気はないものの、そんなふうに言われたら絶対断れないだろ。
「えっと、じゃあ上がって――」
言いかけて、自分が寝起き頭で部屋着なことと、自室のしわくちゃなベッドを思い出す。
今日家に来るのがわかっていればあらかじめ掃除もしたし、多少なりとも見られる服に着替えておいたのに……
しかも、あくびをしながら赫夜の前に出てしまったんだった。
内心深くため息をつくが、日頃から生活態度が良ければこんなことにはならない。
わかっていても、性格的にもこの自堕落さを正すのは難しいのだった。
「ごめん、俺寝起きだし……ちょっと着替えるから! 寒いしスリッパ無いけど、玄関上がって待っててくれる?」
玄関扉を入りやすいように大きく開けて、それだけ伝えて小走りで洗面台へ向かった。
顔を洗い髪を梳かしたら、再び玄関前を通って二階に駆け上がり自室に駆け込む。
床のものはまとめてクローゼットに放り込んだ。今は見えなければいい。
無難そうなグレーのゆったりとしたニットを頭から被り、黒いスリムパンツを履いた。
「――待たせてごめん! 俺の部屋二階だからこっち上がって来て!」
階段の上から身を乗り出して、一階の階段脇で、脱いだコートを腕に掛けて待っている赫夜へと声を掛ける。
慣れ親しんだ家の中に夢の住人だったはずの赫夜が居るというのはなんとも奇妙な気分だ。
先週見たものと同じ服だろうとは思うが、コートのない状態でまじまじと目にすると、身にまとっている白いニットのワンピースは赫夜によく似合っていた。
色が、というのが一番だけど、ニットという素材が所々に遊びのようなたわみを作りつつも全体的に体の線を拾っているせいで、赫夜の繊細さを際立たせているように感じられる。
見てはいけないものを見た気がして目を逸らすと、赫夜の後ろに一人の女の子が寄り添うように立っていることにようやく気が付いた。
おそらく俺と同じくらいの年齢だろう。当然初めて見る顔ではあるけれど、この子もとても可愛い子だ。
少し幼く見える顔立ちに、大きな垂れ目。ゆるく巻かれた胸元まである焦げ茶の髪と、きっちりとスキなく施された化粧が、元の甘い顔立ちを華やかで気が強そうといった印象に変えていた。
服装もお洒落というか、アクセサリーや鞄といった細かい所にも気を使っていそうなのが見て取れる。
うちの学校にいたら、かなり周囲が騒ぎそうな容姿の女の子だ。
ただ一方で、学校が一緒でも俺からすると華やかすぎて関わりの薄そうなタイプだとも思った。
「えっと、ここが俺の部屋。入って」
「うん。ありがとう」
「…………」
実は二人いた来訪者を、自室の中へと通す。
ベッドと机とクローゼットと、ベランダに繋がる掃き出し窓。白と茶色で構成された室内は、俺にポスターを貼ったり小物を飾ったりという趣味がないので特徴らしいもののない至ってシンプルな部屋だ。
「クッションもないし床で悪いけど、とりあえず座って」
「かまわないよ」
「…………」
赫夜はさらりと答えてその場に腰を下ろす。
もう一人の子は、これまでと同じく赫夜の背に寄り添うように一歩下がった位置に座った。
二人が座ったのを確認してから、俺も相対する位置に座る。
「…………」
室内はとても静かだ。
どうしたらいいんだこれ?
ずっと無言を貫いている女の子の胡乱げな視線が、ちょっとだけ痛い。
「えーっと……そういえば、赫夜はなんか話をしてくれるんだったっけ?」
家主と言えるのは俺だけど、目的を持って訪ねてきたのは赫夜の方だと思うので何か言ってくれないだろうかと縋る気持ちで声を掛けた。
「そうだね。先週言った通り、昔した約束について話しに来たんだよ」
「そう、それだ。約束って結局なんなの?」
「それなんだけどね、何から話したらいいだろう……」
先ほどまでの沈黙もそのあたりを決めあぐねていたのか、うーんと小さく唸りながら悩ましげに腕を組んでいる。
すると、これまで口を開くことのなかった華やかな見た目の女の子が、赫夜の服の袖を引きながら耳打ちをはじめたのが聞こえてきた。
『聞こえてきた』というのは文字通りで、単純に部屋が狭いし距離も近いので小声だろうが聞き取れてしまうだけだ。
「……で、こいつは結局誰なのよ。せめて自己紹介の前フリくらいしなさいよ」
「私がするの?」
「赫夜の知り合いなんだから当たり前じゃない!」
どうやら女の子は俺のことを何も聞いていないらしい。
首を傾げる赫夜の腕を掴んで強く揺すりながら、苛立ちの滲む呆れ声で促す。
向こうとしては名も知らぬ相手だから、紹介があるまで黙っていたようだ。
「そうだね、それじゃあ、まずは皆で自己紹介からはじめようか」
女の子の抗議を受けて、赫夜は納得したように何度か頷いてから自己紹介を切り出した。
「最初は私からかな。私は赫夜。これでも千数十年は生きている、お前たち人間とは違う生き物だ。というのは、恐らく二人とも知っていることだよね? 今は便宜上、後ろにいるこの子の姉ということになっているよ。そして、朝来は古い友人……というところだね」
赫夜はそれだけ言うと、次は俺の番とばかりに目配せをする。
「俺は笹原 朝来。十六歳の高校二年生。赫夜とは、一週間前に会ったのが初めてかな。なんか、説明が難しいな。赫夜が言うには前世の知り合いらしいんだけど……」
俺は、赫夜の後ろにいる女の子に向けて自分のプロフィールを簡単に伝えた。
赫夜の『妹』らしい女の子は、未だ訝しげに俺の様子をうかがっている。
たしかに前世の知り合いっていうのは怪しいとしか言えないけれど、俺にはどうしようもない部分なので不審者を見るような顔はやめて欲しい。
「――高月 夕鶴。夕方に鶴でゆづる。昨日十七になったばっかり。あと、あたしは人間だから」
幾分そっけない物言いで、女の子が名乗る。
その名前を聞いて、あれ? と、頭の中で何か引っかかる感覚がした。
夕方に鶴と書いて夕鶴。その名前は、ほんの少し前に思い出したばかりだった気がする。
音の響きはそれほど珍しくないけれど、夕という、時刻を表すその漢字。
俺は朝だけど、キミは夕方なんだね。なんて……よく話すようになったきっかけがそうだった。
けれど、名字も違うし、そもそもあの子は事故で死んだはずだ。
不思議な出来事が最近連続してるから、頭に浮かんだものを何でも関連付けたくなっているだけなんじゃないのか?
思わず、夕鶴さんの顔を凝視してしまう。
大きな垂れ目、化粧さえなければもっと優しげな印象だろうその顔が、記憶の中のあの子と次第に重なっていく。
そんなことが、あっていいのだろうか?
でも、あの子はこんな都会的で華やかな女の子じゃなくて、野山が似合うすごく大胆で快活な……
「……え? 夕鶴って男」
「――は?」
だったはずじゃ? と続く予定の言葉は大きな威圧に遮られた。
「何? あんた、あたしが男に見えるわけ?」
「ごめん! そうじゃなくて!」
「じゃなくて? だから? 人の顔ジロジロ見たかと思えば変なこと言ってさぁ」
片膝を立てて身を乗り出し、低い声で苛立ちを露わにする夕鶴さんへ慌てて弁明する。
「夕鶴さんの名前が子供の頃の友達と同じで、雰囲気も似ててつい」
何故か最初から良く思われてない感じだったが、そこまで怒らなくてもいいのにとは思う。
けれど、そんな彼女の怒りようを見てもなお、桑野にいた室屋 夕鶴と、目の前の高月 夕鶴さん、この頭の中で重なった二人が自分の気のせいとも思えず混乱していた。
「子供の頃の……?」
「夕鶴、少し落ち着いて。朝来も、それはまた後で、ね」
顔を顰めている夕鶴さんの両肩を抑えて再び元の位置に座らせて、赫夜は俺へ肩越しに視線を送りながら言う。
「そうだ、渡しそびれてた。」
そうして、場の空気を変えようとするみたいに軽く手を叩いてから、自分の畳まれたコートと一緒に置かれていた白い小さな紙袋を俺の前に置いた。
真紅のサテンリボンの持ち手が、少し高級そうに見える。
「これは?」
「お菓子だよ。クッキー嫌い?」
「いや、そんなことない。ありがとう……」
「よかった。先週言ったでしょ、プレゼントを持って行くって」
そういえば、別れ際にそんな事を言っていたかもしれない。
「それが二個目ね」
俺を見る蜜色の瞳が、柔らかく細められる。
それは、赫夜からの答えだった。