58話 月のお姫様と男子高校生の幸福論
放課後、待ち合わせのコンビニへ行くと既に夕鶴が入り口脇に立って俺を待っていた。
片手をゆるく上げて挨拶すると、俺に気付いた夕鶴が眉間にシワを寄せた力のない笑顔で応える。
「今日はまた一段とひどい顔してんね」
「知ってる。まったく、一言目でそれかよ」
「あたしくらいしか指摘してくれるヤツ居ないでしょ? そんな辛気臭い顔してたら周りの方が落ち着かないんだからね」
内容はいつもの軽口だけど夕鶴の声は弱く、俺に向けられた瞳からも心配が色濃く感じられた。
「……昨日の報告、遅くなってごめん。駄目だったよ」
夕鶴は眉間のシワを深くして唇を噛む。
大丈夫だと伝わるように、できるだけいつも通りを意識して笑みを作ってみせた。
「赫夜が一人で帰ってきた時点で何かあったんだろうなって気はしてた。あたし、余計な事したかな」
「いや、後押しには驚いたけど感謝しか無いよ。赫夜との事はこれで良かったんだと思う」
「そんな凹んだ顔で格好つけられても説得力無いんだけど」
「俺なりに前向きに考えようとしてるのに……」
いたわるようでいて、呆れの強い夕鶴の眼差しに肩を竦める。
「昨日、何があったのかって話せそう?」
「赫夜からは聞いてないのか?」
「すぐ部屋に籠もっちゃったしね。あんまり聞ける雰囲気でも無かったというか、今回は朝来から聞いたほうが良いかなって」
「そっか……」
俺が屋上に置いて行っただろう赫夜はどんな気持ちで家に帰ったのか。
どうあっても赫夜には酷い事しかしていない自分の不甲斐なさが恥ずかしい。
「朝来さ、今日はまっすぐ家に帰れば? 無理してあたしのこと送らなくて良いよ。遠回りすれば人通りがある道もあるし」
夕鶴は苦笑いして、両脇で括られた髪の一房を指先で巻き取るように落ち着きなく触れた。
「気を使わせて悪いけど、俺が夕鶴を心配だから送らせてくれないか」
俺と赫夜がこうなると、間にいる夕鶴は気まずいだろう。
それでも現状、安全を考えると夕鶴を一人にはしたくない。何より――
「勝手だけど、これで夕鶴と縁が切れるのは辛い」
夕鶴からすれば俺は幼馴染という肩書があるだけの急に湧いた男だ。
大事な姉である赫夜に酷いことをした事実も合わせれば、今すぐ縁を切られてもおかしくない。
靴の先に視線を落としていると、夕鶴が呆れたような長い息を吐く。
「馬鹿だな。朝来が前に赫夜とあたしとは関係ないって言ったんじゃんか」
「……そうだったな」
「自分で言ったこと忘れんな」
「うん。ありがとう」
夕鶴は不満げに口を尖らせて顔を背ける。
そのまま身体の向きを変えてスタスタと家の方向へ歩き始めた背中を慌てて追いかけた。
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地面に伸びる自分達の影が歩くたびに揺れるのを見ながらただ無言で歩いた。
二人の家に一番近い十字路に差し掛かったところで、夕鶴が口を開く。
「ここ、左の道をちょっと歩くと小さなカフェがあるんだよね。申し訳無さそうな顔してるから奢らせてあげる」
俺の顔を下から覗き込むようにして笑うと、俺の鞄の紐を掴んで歩き出した。
住宅街の一角に店を構える小さなカフェは、白い壁に青い木枠のガラスドア、両脇に飾られた大きな植木鉢から伸びる木が印象的だ。内装も渋さよりも爽やかでお洒落感が強い。
店内はそう広くないのにテーブル間隔には随分とゆとりがあるせいか十席もなく、路面が見える席に一人だけ老人が座って本を読んでいるくらいで他に客は居なかった。
ご自由にと言われて店の奥の席に腰を下ろすやいなや、夕鶴は可愛らしい絵本のようなメニューを慣れた手付きで開く。
「ケーキセットでコーヒーと……うーん。フルーツロールケーキかな!」
「じゃあ同じの」
「朝来も食べるのかよ」
「なんでだよ。どうせ払うんだから俺も食べる」
「あっそ、思ったより元気そうで何よりだわ」
注文をしてからしばらくすれば、同じタイミングで同じケーキセットがテーブルに並べられた。
ロールケーキに勢いよくフォークを刺し入れる夕鶴を見ながら、淹れたての熱いコーヒーに口を付ける。
お互いに一息ついてから、俺は夕鶴に昨日あったことのほぼ全てを話した。
聞き終えた夕鶴は皿の上に飾られた黄桃をフォークで刺して口に入れ、ゆっくりと咀嚼してから話を切り出す。
「事情はわかった。でも、赫夜があんたの望み通りに動いてたとして何が駄目なの?」
「何がって、全部駄目だろ」
俺の葛藤をわかってもらえると思っていた夕鶴から疑問を返されて動揺してしまう。
「そういう契約でも結ぼうって言い出したのは赫夜じゃん」
「……だけどそれは、俺にまつろわぬ神を倒させたいからだろうし」
元は鞘守が一方的に押し付けた約束なのに、赫夜は律儀に守ろうとしている。
人の命がかかっているとは言え、あまりにも自己犠牲的すぎないだろうか。
ロールケーキのクリームをフォークの先で突く。
前世のお前のせいなんだから四の五の言わずにやれと言われていたほうが楽だった。なんて、逃げ場を探してしまう自分が情けなくて胸が痛んだ。
「朝来は結局さ、赫夜のどこが好きなの?」
夕鶴の突然の問い掛けに、フォークを皿の上に落としてしまい大きな音が鳴った。
「どこって……なんで急に」
「だって、これってそう言う話でしょ。やっぱ顔? 性格? それとも都合よく甘やかしてくれたから?」
「ずっと赫夜のこと憧れてて、会ってみてもっと可愛いと思ったし……」
「で、そんな憧れの赫夜に希望通りに優しくされて好きになっちゃったわけだ」
「……好きになった切っ掛けは確かにそうだと思うけど」
今は、不器用なくらい律儀なところも、どっかズレてるところも、寂しそうな横顔も、あどけない寝顔も全部可愛くて好きだと思ってる。
「それだったら、契約を続けてたって良かったじゃん。何が不満なの?」
「いいわけないだろ。契約のせいで俺に都合の良いように動かされて、赫夜の気持ちはどうなるんだよ」
事もなげに言って目を伏せながらコーヒーを啜る夕鶴に強く言い返す。
「赫夜の気持ち……ね」
「なんだよ。その言い方」
赫夜のことを一番に考えていると思っていた夕鶴が、どうして赫夜の意志を無視するようなことを平然と言うのか俺には理解できなかった。
「朝来が赫夜を好きで付き合いたいって願ったとして、それを叶えるのが赫夜にとっても幸せなんだったら二人とも幸せでしょ? 何が駄目なの?」
夕鶴が鋭い瞳で俺をじっと見据えて低く静かに問い掛けてくる。
赫夜は約束が好きだと、楽しいのだと言っていた。
『他者の願いを叶える』それ自体が赫夜の望みであるとするならば、夕鶴の言うことはそう間違ってはいないのかもしれない。
「でも、俺は嫌なんだよ……」
喉の奥から絞り出した声がコーヒーの黒い水面に波紋を作る。
眉間にシワを寄せた情けない男の顔がゆらゆらと揺れていた。
「好きで尽くしてくれるのと契約で尽くさせるのは違うだろ。赫夜にとっても、そんな関係が幸せだとは思えないよ」
今更、俺に赫夜を好きだとか言える資格はないだろう。
それでも契約を解消したことだけは後悔していなかった。
「そっか、朝来はそう言うと思ってた」
静かな店内に流れる柔らかなオルゴールのBGMと混ざって、夕鶴の呆れの滲む穏やかな声がぽつりと聞こえた。
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マンションの入口まで送り届けて、その場から立ち去ろうとする俺の背に夕鶴が制止の声を掛ける。
「ねぇ、本当に家寄っていかないの? 赫夜に会わなくていいの?」
「……今は合わせる顔がないよ」
昨日の今日ではまともに顔を見られる気がしない。
別れ際の口振りでは赫夜が俺に会ってくれる気もしないし、俺もまた赫夜の最後の言葉に対する答えが見つけられていなかった。
「そんなこと言ってたら一生会えないじゃん!」
「まつろわぬ神を退治する時には会うよ」
「朝来の馬鹿! アホ!!」
「考える時間くらいくれって」
浴びせかけられた貧弱な語彙の罵倒に苦笑いしながら、手を振って足早にマンションの前を離れる。
家までの帰り道、濃灰色に霞んだ空を眺めながら歩いた。




