56話 月のない夜
電気もつけないまま、日が落ちて真っ暗になった自室のベッドで布団を被り横たわっていた。
何もやる気が起きないが、眠れそうにもない。ただただ、胸が苦しかった。
あれからどうやって家に帰ったのか記憶が定かではない。
校門を出た辺りで、夕鶴に連絡をしなければと思い立って一度だけスマホを見たのは覚えている。『まだ昼間だし先に帰る、赫夜とゆっくり帰ってこい』という、本日の仕掛け人の種明かしと言える一文だけが送られてきていた。
夕鶴らしいその優しさにも、今更何を返したらいいのかわからなくて返信ができていない。
のそりと壁を向くように緩慢に寝返りを打って姿勢を変える。
……何一つ考えたくない。
手のひらで額を擦りながら今日の出来事を頭から消し去ろうと試みる。
荒い手付きで前髪ごと強く掻くように擦ったが、すればするほどに赫夜のことしか考えられなくなる悪循環に陥っていた。
俺は、赫夜が俺を好きじゃないとわかったから落ち込んでるわけじゃない。
今日の告白を断られていたとして、確かに落ち込みはするだろうけれど、俺は結構楽天家だから何だかんだ前向きに捉えられただろう。可能性があればもう少し頑張ってみようとか、そんなふうに思ったはずだ。
俺が苦しいのは、俺が赫夜を好きになったせいで、赫夜に欲求を抱いたせいで、俺と交わした契約のせいで赫夜にひどいことをさせていたからだ。
今日知った赫夜の小さな身体と柔らかな感触を思い出して強い吐き気が喉を焼いた。
望みを叶えるという契約が、こんなものだなんて思っていなかった。
――そんなのは言い訳だろうか。
出来すぎていると思っていた。
前世の件があるとは言え、思い返してみれば俺は彼女に好かれるようなことは何もしていない。それなのに赫夜みたいなきれいな女の子が、自分から手を握ったりキスをしたり、優しく笑いかけてくれるなんておかしい話だろう。
何で気が付かなかったのか。心のどこかで感じていたんじゃないのか。
答えてくれる者などいない自己嫌悪に身を浸し続けた。
暗い部屋の中でもわかる、左手の小指を囲う契約の痕がとても醜いものに感じてしまう。
俺は赫夜にどう償えばいいんだろうか。
日付を跨ぎそうな時間になってようやくベッドから起き上がった俺は、裸足のままベランダに出る。冷えたコンクリートの上で砂埃が足裏に食い込むのを感じながら目を閉じて、契約の痕に意識を集中させた。
赫夜に強く呼びかける。
数分経って、これで方法は合っていただろうかと思い始めた頃に、ふわりと舞う金色の羽根とともに赫夜が目の前に降り立つ。
その光景はとても綺麗だったけれど、自分のしたことの後ろ暗さから赫夜の顔を直視できずにいた。
俺も赫夜も、お互い向かい合った格好のまましばらく言葉を発さなかった。
「こんな時間に呼び出してごめん」
「お前が呼ぶならいつでも行くと約束したよ」
約束、赫夜の口から出たその言葉に喉の奥がひりついた。奥歯を噛み締めて、罪悪感で潰れそうになるのを堪える。
「お前、裸足のままだよ。冷えるから部屋に上がりなさい」
「別にいいよ。話したいことはあるけど、そんなに長く掛けないから」
「駄目だよ。お前が部屋に上がらないなら聞いてあげないよ」
いつも通りの優しい口調はどう聞いたって俺を慮るものでしかなくて。
それは俺が言わせているのか赫夜自身の言葉なのか、どうしてもわからなくて目の奥が熱くなった。
「わかった。俺も入るから、赫夜も部屋に入ってくれる?」
俺が言えば、赫夜は小さく頷いて後に続く。部屋に入った赫夜は、手に持っていたらしいどこかのブランドのロゴが入った白地のショッピングバッグを床に置いた。
「今日はお前の制服を着たまま帰ってしまったから……ちゃんと洗ってある」
「ありがとう……」
「今日はごめんね。私はお前を不快にさせてしまったみたいだ」
俯きがちに謝罪を口にする赫夜の姿に心が痛む。
「赫夜が謝ることなんてないんだ。赫夜はなんにも悪くない……」
胸の痛みを誤魔化すために拳を握りしめながら自分の中にある事実を伝えるが、赫夜は気まずそうに押し黙ってしまう。
「赫夜……俺との契約を解消して欲しい」
俺の申し出に、赫夜は弾かれるように顔を上げた。
愕然と、驚いたように目を大きくした顔は何故かと言っているように見える。
「朝来……急に何を言うの?」
「俺には必要ない……いらないよ赫夜」
「どうして? お前が望むなら私は何だって……」
部屋に吹き込む冬の風が身体を冷やしていく。
力んだ腕が微かに震えている。丸めたまま強ばった指先の感覚が薄くなっているのは寒さのせいにできなかった。
「俺は赫夜に叶えて欲しい願いなんてない。いっぱい酷いことをさせてごめん……もうそんなことしないで欲しい。して欲しくないから、だからこの契約はいらないんだ」
「でも、契約はまつろわぬ神を倒してもらうということで交わしたもので。だから、それまでは……身体にも別に害なんて無いんだよ」
赫夜は胸の前で両手を抱きかかえるように握り狼狽えているように見える。
契約は赫夜から提示された討伐の報酬だった。
赫夜にとって、まつろわぬ神を倒すのがそれだけ重要なことなのだというのはわかっていた。
「まつろわぬ神はちゃんと倒すよ。修行とか必要なら言われたようにやる。だから、この契約だけは解消して欲しい。それが俺の望みだと言ったら叶えてくれるか?」
俺が意思を伝えると、赫夜は再び俯いてしまう。
しばらくの間、黙って頼りなげに肩を窄めている赫夜を見つめる。
「わかった……」
静かな部屋の中でも危うく聞き逃してしまいそうなほど小さな声だった。
風船が割れたような軽い音がして反射的にその場で軽く仰け反る。
音のした場所――左手を目の前に掲げてみれば、小指の痕が肌に馴染むように薄くなって消えた。
「これで私と朝来との契約は解消された」
「結構あっけないな……破棄なんてもっとすごいこと起こるかと思った」
「……前にも言ったけど、口約束を明文化するだけのものだもの」
瞳を伏せ気味に逸らした赫夜が、苦笑いでもするように少し多めの息とともに落とす。
「そっか……」
ただそれくらいしか、俺の中で言葉が見つからなかった。
やがて顔を上げ、決心した表情で赫夜はまっすぐ俺を見据えた。
「まつろわぬ神については、封印が破れる前までに必ず舞台を整えてみせる。……だから、あらためて朝来に願いたい。一度だけまつろわぬ神に向けて剣を振るって欲しい」
「俺もちゃんと倒すって決めてるから。そこは信用してくれないかな」
消えてしまった契約の痕に、ほんの少しだけ寂しいと感じた気持ちを打ち払いながら静かに伝える。
「……ありがとう」
赫夜はまた消えそうなほど小さな声でこぼした。
「朝来、手を出してもらってもいい?」
赫夜が懐から何かを取り出して、差し出した俺の手のひらの上に載せてくる。
暗い室内で目を凝らすと、折り畳まれた濃紺の革製品とだけ辛うじてわかった。
「今度、渡そうと思っていたんだけどね。私の家の鍵だよ。管理人には伝えてあるから出入りを咎める者も居ないはずだ」
「なんで今こんな物……」
「折角手配したものだしね。私が持っていても仕方ないし。夕鶴に会いに来るときにでも使えば良い。お前達の交友を制限する気はないし、家にあるものも好きに使ってくれて構わない」
赫夜が小さく自嘲気味に笑う声が聞こえたが、視線を手の中の鍵から動かせずにいた。
「夕鶴に先触れを出してくれたら家を空けておく。今後は、お前の視界に入らないよう努めるつもりだよ。不快な思いをさせてごめんね。」
鍵と一緒に渡されたのは、もう俺とは会う気がないという意思表示だった。
「視界に入らないってなんだよ……俺は不快になってないし、そんなことして欲しいなんて言ってないだろ」
俺と会いたくないというのも、俺がしたことを考えれば当然だろう。
怒ったり、嫌悪されたりするなら理解できる。けれど、赫夜の言い草はあまりに卑屈で的外れで意味がわからない。
夜中なのについ声を大きくしてしまった俺に対して、赫夜は泣き出しそうに顔を歪めながら伏せ気味にした瞳を揺らした。
「そんなの、わからないよ……だって私との契約はいらないのでしょう? お前は私にどうして欲しいの?」
どうして欲しいのかなんて、答えられない問いをぶつけられて何も言えなくなる。
この期に及んで俺が赫夜に望めることなんて、あるわけないじゃないか。
冷え切った床板に沈黙が落ちる。
赫夜はぎゅっときつく瞳を瞑ると、踵を返してベランダへと消えていった。




