55話 月のお姫様は男子高校生のもの
「話はわかったけど、俺はそういう便宜上の話じゃなくて本当に赫夜と付き合いたいと思ってるんだ」
結局のところどこかズレていた認識をすり合わせようと必死に言葉を紡ぐ。
「うん、いいよ」
「ちゃんと伝わってる?」
あっさりとした簡素な返答に、たまらず聞き返してしまう。
「だから、私がお前の恋人になるってことでしょう?」
俺の懐疑は伝わったらしく、赫夜は付き合いの定義を再び述べた。
「いいの?」
「もちろん構わないよ。さっきも言ったのに」
顔を覗き込むようにして念を押して聞くと、赫夜は少し呆れたような顔で笑いながら俺を見上げる。
まっすぐに俺を捉える瞳が本当に優しい色をしていて、ひと時落ち着いていた鼓動がまた早まっていく。嬉しくて死にそうだという言葉はこういう気分かもしれない。
体中を巡る熱に炙られた思考が溶けてくる。告白を受け入れてもらえたことが嬉しすぎて、赫夜を好きだと思う気持ちが抑えきれない願望として口からこぼれた。
「……ごめん。抱き締めてもいいかな」
「そんなの聞かなくてもいいのに」
赫夜はくすりと笑って両腕を俺に向けて広げる。
思い切り引き寄せたい衝動に駆られたが、手荒い真似はしたくない。
小さく深呼吸をしてからできる限りそっと身を寄せた。
腕を背中に回してみるものの、俺の胸元に顔を埋める赫夜はあまりに小さくて華奢で、力を入れるのが怖くて隙間を広めに作ってしまう。
「どうしよう。すごい嬉しい」
「お前が嬉しいなら、私は嬉しいよ」
赫夜の柔らかな髪からする甘い匂いにクラクラしながら幸せを噛みしめるように呟けば、静かで穏やかな声が返される。
少しだけ回した腕の隙間を狭めてみれば、もそりと腕の中で赫夜が身じろいだ。俺のニットベストをぎゅっと握り込む感触に、苦しかったかと思い腕の力を緩めて赫夜の様子を窺うように顔を下に向ける。
痛かったかと聞くつもりで開きかけた唇に、柔らかなものが押し当てられた。
瞬間、頭が真っ白になる。
視界に映る金色の長い睫毛に、柔らかさの正体を知る。赫夜にキスをされたのだとわかった時には、もう唇は離れてしまっていた。
「か、赫夜!」
「したいって聞こえた」
するりと腕から抜けた赫夜がにっこりと笑いながら言う。思考がバレた恥ずかしさと不意を突かれたわずかな悔しさから、俺は思わず声を上げた。
「聞こえたからってしなくて良いんだって!」
窘めるつもりで少し強めに言うと、赫夜は不思議そうに小首を傾げた。
「どうして? したいんじゃないの?」
「それはそうだけど」
隠しようがない事実は認めるしかない。
嬉しいけれど、聞こえたからといって先回りされてしまうのは少し困る。
「その瞬間思ってることが全部じゃないだろ」
空になった腕に感じる物足りなさを埋めるように首筋を揉む。
俺も男なので好きな子を目の前にしたり触れ合ったりしたら大なり小なりやましい感情を抱いてしまうし、欲求のコントロールもまだ上手くないという自覚もある。
だからこそ、赫夜を大事にするためにも少しずつ段階を踏んで確かめながら進んでいきたい。赫夜が良くても、俺の欲求を察して先回りしてもらって、確認をおろそかにしてはいけないと思うのだ。
後は単純に、毎回してもらってばかりな自分が情けない気がしている。
「朝来は難しい。さっきからすごく聞こえるのに」
「とにかく、勝手にしない。次は先に言ってくれ」
不服を唱える赫夜に、せめてそれだけはと訴える。
「じゃあ、する?」
「いや、そういうことじゃなくてさ」
秒で返されて、力が抜けて肩が落ちた。
「だって、それがお前の望みでしょう?」
赫夜の透き通るような蜜色の瞳がじっと俺を見据えている。
「赫夜……?」
一際強く吹いた風が、俺の首筋を冷やしていく。
これまでの浮ついた気持ちが全て吹き飛ぶような寒気を感じて、ニットベストの腹部分を強く鷲掴んだ。
「今の、俺の望みって、どういう意味?」
気のせいだと、聞き流すことなんてできなかった。
俺の中で一気に膨れた不安が出口を求めてうごめいている。
落ち着いて確かめなければと冷静ぶっても、絞り出した声は震えていた。
「意味も何も、そのままだよ。お前の声が聞こえたから、お前が私とくちづけをしたいって願ったから叶えただけなのに、どうして不満げにするんだろうって」
「叶え……た?」
「そうだよ。だって契約したでしょう、お前の願いを叶えると」
口元に笑みを浮かべて平然と言ってのける赫夜に、おかしいのは俺の方なのかと錯覚してしまう。わからなくなる。
上履きがコンクリートの上の砂埃を擦って耳障りな音を鳴らす。
「何だよそれ……付き合ってくれるって言ったのも、俺が望んだから叶えたってことか?」
「どうして驚くの? それこそ今さっきお前が願ったことじゃない」
赫夜がわずかに眉をひそめて、首を傾げる。
何度となく撫でてくれたのも、甘やかすように優しくしてくれたのも。
キスしたのも、契約があったからなのか。
全部俺が心のどこかでして欲しいと思った願望を読み取って、叶えてくれていたと言うのか。
「全部、俺がやらせてたんだな」
いたたまれなさに、たまらず自分を嘲った。
「馬鹿だ。一人遊びじゃないか」
赫夜も俺のこと好きで頷いてくれたんだって思っていた。
「どうしたの朝来?」
「赫夜は俺のこと」
どう思っているんだ。
喉元まで出かかった問いを飲み込む。
もし仮に好きだと言われても、赫夜の言葉を俺は信じられるのか?
唇に歯が食い込んで、鉄の味がじわりと舌先に滲んだ。
「何か間違えたかな? お前の望んでることじゃなかった?」
赫夜は戸惑うように瞳を揺らす。
声色も表情も、真剣に俺を案じているように見えるのに……そこにある感情が何なのか、俺にはもうわからなかった。
「赫夜は俺が望んだら何でもする気なのか? そんなの、おかしいだろ」
「これまで喜んでくれたのに……どうして急に怒るの?」
赫夜の言葉は図星だった。
そうだ、馬鹿みたいに喜んでた。
痛いところを突かれて、混乱は強い憤りに変わり、責め立てるような言葉となって俺の口から溢れた。
「キスしたいって思ったらしてくれて、付き合ってくれて……その先はどうするつもりだった? 触りたいって、抱きたいって思ったらそれもする気だったのか?!」
俺の疑問を、恐ろしい想像を、一言でいいから「それは違う」と否定して欲しかった。
「朝来は私の契約者だもの。私にできることなら何でもするって言ったよ」
強い目眩がして視界が暈ける。
歌うように言葉を紡ぐ赫夜の澄んだ甘い声が耳の奥に響く。
月と同じ色の美しい髪が薄い青空の下で風に吹かれて柔らかく揺れている。
赫夜は呆然と佇んだまま力の入らない俺の左手を取って、自分の胸の上に導く。
布越しに伝わってくる柔らかな感触があまりにも生々しい。
「お前が望むなら、私の全てはお前のものだよ」
一瞬何を言われているのか理解できなかった。
いや、理解することを心が拒んだ。
――俺のあさましい夢が、現実になった。




