45話 月のお姫様と夜の散歩
馴染みのコンビニに到着したので、夕鶴との通話を切り上げてスマホをポケットに放り込む。軽やかな入店音が店内に響き渡った。
この店を夜に訪れたのは赫夜と初めて会ったあの日以来だ。
店には俺以外に二名の客と、レジに佇む彫りの深い顔の店員と、緩慢な動作で品出しを行っている中年の店員が居た。事件以降、ワンオペはやめたのかもしれない。
今日は特に頼まれた商品もないので、暇つぶしも兼ねて普段買わない冷凍食品のコーナーまでじっくりと覗く。
ケースの中、まるっと商品の失せた一角には一体何があったのか。これから新商品が入るのか。そんな、どうでも良いことを考えるのが少し楽しかった。
ふと見上げたレジ奥の壁に掛けられた時計の差す時刻が日付を跨ぎそうなことに気付く。
何も言わずに家を出たので、そろそろ戻らなければ。
真っ赤なパッケージのインパクトに惹かれて手に取ってしまった激辛インスタント焼きそばを棚に戻す。
興味はそそられるが食べ切れもしないものは流石に買わない。
帰る前に明日の勉強会の手土産でも買うかと、お菓子コーナーを通る。個包装のチョコレートと会場を提供してくれる竜の好きなしょうゆ味のポテトチップスをカゴに入れてレジに並んだ。
中身に対して大きすぎる白いレジ袋を手に下げて店の外に出ると、薄い雲が掛かって滲んだような月が夜空の高い位置に見えた。
自然と足がコンビニの横の路地裏へと向かう。
あの日、怯えながら足を踏み入れた場所へと躊躇いもせずに歩いていく。
コンビニの裏口前を通ると店内でよく流れているCMの声がうっすらと聞こえた。
相変わらず薄暗く汚い場所だが、あの時とは違う穏やかさを感じられて安堵の息を吐き出す。
初めて赫夜に会った夜から、もうすぐ三週間が経とうとしている。
過ぎた日々を振り返れば、あまりにも早いと笑みが溢れた。
頭上に頂く月と同じ淡い金色の髪をなびかせた、きれいな少女。
目を閉じなくても、あの日の鮮やかな赫夜の姿を思い描くことができる。
存在自体が夢のようだと、何度となく思ったのに……
自分の感情を認めてしまってからは、たった数日で顔を見ない日を寂しいと感じていて。
馬鹿らしくてまた笑いがこみ上げてくる。
初めて感じる、好きという衝動に振り回されている自分に。
こんなに大きくて騒がしいものに、竜や夕鶴に散々言われるまで気付かなかったこれまでの自分にも。
「こんばんは。いい夜だとは思うけど、こんな所で何しているの?」
どこからか掛けられた澄んだ声に、手元に向けていた視線を上げる。
ふわりと、まるで空に浮かぶ月から舞い降りたかのように、目の前に金色の少女が現れた。その美しさに、会いたすぎる気持が生み出した幻覚かと感じながらも見惚れてしまった。
あの日と同じ服装に身を包んだ赫夜は、眉根を寄せながら呆れたとばかりに体の前で腕を組む。
思わぬ登場に呆然としたまま答えを返せずにいると、赫夜はそのまま言葉を続けた。
「夜中に一人で薄暗い路地に入ろうなんて危ないとは思わないの?」
額を手で軽く叩かれて、ぺしっと音が鳴る。絶妙な力加減で良い音がした割に全く痛くない。
「ちょっとコンビニまで買い物に来て、つい」
「ついじゃないよ。私が居ない時に何があったらどうするの」
赫夜が心配と非難の色が混ざりあった瞳でじっと睨みつけてくる。
「蟲の気配とかなかったと思ったけど、赫夜はどうしてここに?」
「巡回の途中で近くを通りかかったところで、お前がふらふら出歩いている気配を感じたからだよ」
「あ、俺のせい……」
「他にないでしょう。まったく、笑いごとじゃないよ」
赫夜は呆れの滲む声で言いながらため息をつく。
「ごめん」
俺は短く謝罪を口にして、少しだけ顔を横に背ける。
俺を見つけて来てくれたのかと考えると、叱られてるという認識はあっても顔の筋肉が緩むのを止められなかった。
「家に帰ろう。送ってあげる」
赫夜の手がすっと体の前に差し出された。
言葉の通り手を取ったら自分の家の前、というのは想像に難くない。
折角会えたのに、ここで帰されたら次は本当にテスト明けだろう。
先ほどまではただ顔が見たかっただけなのに、会えたら会えたで欲が出る。もう少しくらい一緒に居たいと思ってしまった。
葛藤で身動きできずに居ると、赫夜が俺の手を掴もうと伸ばしてきて反射的に身を捩って避けてしまう。
「……なんで逃げるの?」
「待って、もう少し……!」
空を切った手に口を尖らせる赫夜に、慌てて両手で制止を伝える。
「もう少しと言われても、今何時かわかっているの?」
「このお菓子も買ったし、帰るつもりだったよ。でも赫夜と会うのも二日ぶりだし、挨拶だけってのも……」
手に下げたレジ袋を掲げて見せた。
面と向かって一緒に居たいのだとは言えなくて、気恥ずかしさから曖昧な言葉がさらに濁る。
「朝来は本当に……なら、お前の家まで歩こうか」
困惑を呟いて眉を下げた赫夜は、わずかに考えてから提案を切り出す。
あらためて俺に向けて差し出された小さな手を、今度は迷わずに掴み取った。
俺の手を引いて路地裏から出た赫夜の足がぴたりと止まる。
何かあったかと横から顔を覗き込むと、赫夜はもう片方の手で口を隠しながら俺に視線を送る。
「……ここからお前の家までの道を知らない」
「ん? まぁ、そうだよね」
「普段徒歩で移動なんてしないから……」
生活圏外の道なんて普通そう把握してないだろう。おかしいことではないのに。
よく見れば赫夜の頬は少し赤い。決まりが悪そうに続けた言葉は言い訳のようだった。
「こっちだよ」
数メートル先の横断歩道を指さして歩き出せば、赫夜は大人しく手を引かせてくれる。
いつもと逆なのも悪くない。
堪えきれない笑みがこぼれて、大き目の白い息が空に溶けた。
「来週夕鶴のスマホ買うって言ってたけど、赫夜もスマホ買い替えるの?」
「夕鶴だけだよ。私は今のもので不自由がないし……あの子は去年も変えたはずなんだけどね」
「なるほどね。どっちの気持ちもわかるなぁそれ」
スマホはバッテリーが持たなくなったとか液晶が割れたとか、明確な不都合がなければ使い慣れた物から変えるのは手間だと俺も思う。けれど同時に、家電量販店の店頭で最新機種を見るといいなとも思うものだ。
「お前も買って欲しいなら一緒に来る?」
「あー、うん。全然大丈夫。今の気に入ってる」
「大きい電気屋だからそこで買えるなら他の物でもいいよ?」
「全部間に合ってます」
隙きあらば物を与えてこようとする赫夜は、どことなく記憶の中の祖父母を思い出させる。
「夕鶴みたいに誕生日でもないし貰えないよ。この前も肉奢ってもらったばかりじゃん」
「名目がないと言いにくいなら……ご褒美とかにしようか?」
「ご褒美って言っても俺は何もしてないけど?」
「夕鶴とは試験の点数が良かったらご褒美に服を買ってあげる約束をしているよ。お前もそれでいいんじゃない?」
赫夜はさも名案を閃いたと言わんばかりに顔を輝かせた。
気持ちはありがたいとも思うけれど、このままでは俺は孫かヒモのどちらかである。
「夕鶴はともかく、俺には試験のご褒美も必要ないよ」
「どうして?」
俺が苦笑いをしていると、赫夜が答えを急くように繋いだ手を小さく揺らす。
まっすぐに俺を見る大きな瞳に、自分の中にある素直な気持ちを伝えようと口を開く。
「欲しい物とか特にないし、今こうやって赫夜と歩いてる方が……嬉しいから」
「ただ歩いてるだけなのに?」
「そうだよ」
「そう……お前が嬉しいなら、私は嬉しいよ」
慣れない言葉の落ち着かなさから繋いだ手を揺らし返すと、勢いに釣られて前のめりになった赫夜が少しだけ眉を下げて微笑んだ。
「――だからさ、もうちょっとだけ遠回りしてもいい?」
冗談半分、本気半分。もしかしなくても本気の方がやや優勢だろう。
言っていることの恥ずかしさを誤魔化せる気がして肩を竦めながら尋ねた。
「今日は駄目」
案の定はっきりと断られたが、赫夜はくすりと笑って腕に体を預けるようにもたれ掛かってくる。
不意打ちに近い行動に心臓が忙しくなり、温かいとか柔らかいとか、色々感じる余裕などまるで無い。
もう目の前の角を曲がればすぐそこに我が家がある。
最後の悪あがきに、少しだけ歩く速度を緩めてしまった。




