43話 月のお姫様の趣味
「――赫夜は趣味とかって何かある?」
見渡した部屋の何もなさに、昨日も感じた寂しさに似た気持ちを思い出して尋ねてみる。
何もない部屋からは、赫夜の好みを推し量ることができない。
「趣味……契約と、約束かな?」
赫夜はわずかに思案してから、語尾の疑問符と同時に首を傾げた。
「待ってくれ、あれ本気だったのか」
「何で嘘をつく必要があるんだろう?」
二度目に会った話の時にそんなことを言っていた覚えがあるけれど、その時は何をおかしなこと言ってるんだとしか思っていなかった。
自分もそれどころではなかったし、変な冗談だと流していたが本気だったらしい。
「人は私と出会った時、何かしらを願う。だから契約を結んで、それを叶えてあげるんだよ」
無邪気な笑顔で告げる赫夜に、普通の人間はそれを趣味とは思わないとは言えず、穏やかな表現を探して少ない語彙を漁る。
「趣味ってほら、スポーツとか、読書とか……大体そういうのを上げる人が多いから、契約とか約束自体を趣味っていうのはなんか不思議だなぁと」
「そうかな?」
「うーん、そうなんじゃないかなぁ」
赫夜はわからないとばかりに眉を下げるが、俺もよくわからない。
「赫夜も願いごとの代わりに魂とか血とか取ったりするの?」
完全に物語上のイメージだが、契約と聞くとそんなことしか思い浮かばなかった。
「別に何も。契約の体裁を取ってるのは、口約束は信頼性に欠けるかなってだけ」
「何もいらない?」
「どうして驚くの? 大体、血肉なんて貰っても困るよ」
「でも、ただ願いごとを叶えるだけなんて……変じゃないか?」
訝しむ俺を赫夜が不思議そうに見つめる。
詳細を聞かされても、何か違う気がするという思いはそのままだ。
「そう大したことはしていないし、趣味は余暇に行う楽しみなんだから特に間違ってはいないと思うけど」
口を少し尖らせながら、趣味の定義からは外れていないと主張してくる。
「……なら、どんな内容があったとかって聞いても良い?」
俺の好奇心に、赫夜は顎に丸めた手を当てながら考え込むようにした。
個人がわかるわけじゃないからいいか、と小さく言って伏せた瞳を薄く開く。
「死に瀕する怪我を治して欲しいとか、明日を生きるお金が欲しいとかが多かった気がするね。遠い国に行きたい、離れた家族に手紙を届けて欲しいとか、……亡き親の代わりに絵本を読んで欲しいなんていうのも一ヶ月くらいやったかな。どれもひどく切実で、私からすれば他愛のないものばかりだよ」
過去の出来事を懐かしむような慈しむような声で語り、顎に当てていた手で口を押さえて小さく笑う。
そんな赫夜の姿に、さっきから不満にも似た感情を抱く自分がよくわからなくて曖昧に言葉を返した。
「それが楽しいの? 俺には……ちょっとよくわからないな」
「自分のできることをしてあげて、誰かが喜ぶならそれは嬉しいことだよ」
「……それは何となくわかる気もするけど」
言葉にならない苦い気持ちが舌をもつれさせる。
「朝来も親御さんの手伝いをしたり、夕鶴に勉強を教えたりするでしょう。それと変わらな
いよ」
赫夜は俺に向けて柔らかく笑う。
挙げられた俺にとっても身に覚えのある例え話に一瞬だけ納得しかけた。
――でもそれは、違うだろ。
「それじゃ、やっぱり赫夜が損してるだけような……気がする」
「どうして? そんなこと、考えたこともない」
赫夜は俺の言葉に目を丸くして、それから少しだけ玩ぶように頬の横に垂れる髪を摘んだ。
「長く生きているだけで、やるべきことなんてないもの。どうせ漠然とそこにあるだけの存在なら、誰かの役に立ったほうが良いじゃない」
赫夜は慈愛に満ちた瞳を柔らかく細めて笑っている。
見惚れるほどのきれいな笑顔なのに、心がざわついて仕方がなかった。
「――結局ね、暇なんだよ」
「……ひま?」
両手をぱちりと軽い音を鳴らしながら合わせ、いつも通りの穏やかな笑顔で赫夜は言う。
これまでとの落差に、聞き違えたかと問い返してしまった。
「すごく暇。お前は学校のない長い休みとかに、そう感じることはない?」
「うーん、そう言われると……暇だと思うこともあるかも?」
ぱっと同意を返すのが難しくて首の裏を掻く。俺は暇な時は寝るだけなので、長期休暇を暇だとか辛いとか思ったことがない。
この場面で「別に」とは言えずに返した当たり障りのない答えの後に、暇というものが大の苦手でいつも何かしらやることを探していた母さんと兄さんの休日の落ち着かなさを思い出し、我が身に置き換えて納得する。
「だからね、お前の学校の試験のような先々の予定とか、他愛のない約束とか。あったほうが楽しいよ」
屈託なく笑いながら、俺の左手をそっと両手で持ち上げる。
赫夜の視線が小指の痕に注がれているのがわかってむず痒い。
「試験はちょっと面倒だけどね」
「夕鶴もいつも嫌そうにしているよ。楽しそうなのに」
「赫夜も学校に行ってやってみればいいよ。夕鶴が嘆く理由もちょっとはわかるかもしれないし」
「どうかな。考えたことなかった」
赫夜は俺の手を太腿の上に載せて小指を揉むように触っている。
どっちの感触も落ち着かなくさせてくるので、俺は極力意識しないよう軽口を叩くのに必死だった。
何もない部屋の中だと知ってはいても、気を紛らわせられるものが何かないかと視線だけ動かす。何度探したところで当然何もないので、定期的に左手に伝わる柔らかな感触に引きずられてしまう。
赫夜も飽きもせずにいつまで触っているのか。
そろそろ一度離してもらえないと精神的な疲労が限界に近い。
これまで無縁だった煩悩に最近翻弄させられっぱなしだと、赫夜に悟られない程度に肩を落とす。付き合いが浅すぎて制御の仕方がよくわからないのだ。
赫夜の淡い色の頭を見下ろしつつ言葉に詰まっていると、ピーッと高い電子音が壁の向こうから聞こえてくる。
「――あ、できた」
音に弾かれるように顔を上げて、俺の左手をぱっと離すと赫夜は部屋から出て行った。
離して欲しかったはずなんだけど……何でか複雑な気分だった。
赫夜から渡された乾燥機から出したばかりの制服に袖を通す。一部は熱いくらいだけれど、暖かく柔らかな布に包まれるのは心地いい。
「赫夜、着替えたよ」
コートまで羽織って鞄を雑に肩に掛けてから、部屋の外で着替えを待っていてくれた赫夜を呼んだ。
「ちゃんと乾いている? 大丈夫かな」
部屋に入ってきた赫夜は、俺の周りをくるりと一周して洗濯物に不備がないかを確認している。
「大丈夫だよ。ありがとう、十分乾いてる」
「……む。糸くずがある」
背後に回った赫夜の真剣な声が聞こえる。同時に腰のあたりに手の当たった感覚があった。
自分では気付きにくい場所だ。
直後に、小さく吹き出すような笑い声が聞こえてくる。
振り向いたら鞄がぶつかりそうなので、そのままの姿勢で問いだけ投げた。
「何か変なところあった?」
「ううん。服が暖かいなぁって思ったら何だか笑えてしまっただけ」
「乾燥機から出したばっかりの服ってホカホカで気持ちいいよね」
「うん。暖かくて気持ちいい」
ぽすりと背中に何かがぶつかってくる。圧のかかった部分の布が、内側の肌に密着して熱く感じる。
「……赫夜?」
「暖かいね」
囁くような言葉の後で、背中でもぞもぞと動く感触がした。
きっと当たっているだろう想像に、口元が緩むのを止められない。
「ねぇ赫夜……暇なら、来週末どこか遊びに行かない?」
「来週は先約がある。夕鶴の誕生日プレゼントを買いに行くから」
「誕生日ってもう終わってなかったっけ」
「新しいスマホが欲しいらしくて、テストが終わったらって約束だったんだよ。だから、来週は無理だけど再来週なら良いよ」
「じゃあ、再来週で……」
背中の重しが縦に動く。
顔の見えないやり取りはもどかしいけれど、赫夜が背後に居てくれてよかった。
正面に居たら抱きしめないでいる自信がない。
内側から胸を叩く音がうるさくて、コート越しでも聞こえているんだろうという気がする。俺が今、抱きしめたいと思っている心の声だって、きっと聞こえているんだろう。
それでも離れていかない赫夜に、期待しても良いんだろうか。
「約束だよ」
一際強く押し当てられた部分が熱すぎて、背中が焦げるんじゃないかとすら思えた。




