42話 月のお姫様とお風呂上がりの部屋
「じゃあ、俺はこれで……」
ほのかに漂う嫌な予感を察知して、別れの挨拶とともに身体の向きを玄関扉へ変える。
「そんなずぶ濡れのまま帰すわけないでしょう」
表情は見えないが、赫夜は呆れきった声色で言って、解いた俺の手を再び強く握り直す。
濡れた足で室内に上がるのを躊躇う俺などお構いなしに手を引いて、洗面室まで連れてきた。家主である赫夜も濡れているとは言え、あのきれいな廊下を水浸しにしてしまったと少し居たたまれない気持ちになる。
「そこの扉がお風呂場ね。服は脱いだら洗濯機に入れて」
「いや、タオルを借りられればそれで大丈夫だよ」
やはりという思いで、俺に向けて指で指し示しながら説明をする赫夜の前で両手を上げて待ったをかけた。
「駄目、お前は明日から試験でしょう。今日も折角勉強したのに風邪を引いたら台無しじゃない」
「それでも、お風呂を借りるのはちょっと……」
「聞いてあげないよ。夜に私についてくるなら言うことを聞くって話だったんじゃなかったの」
眉根を寄せて叱られてしまう。赫夜はささやかに抵抗を示した俺の背に回って奥へと押し込んだ。
その話は確かにしたので、持ち出されるとこれ以上は言えなくなる。問答を続けていては明日から家に来るなと言われかねない。
いやそれでもこの状況はどうなのかと極力下を向いて悶々と葛藤を繰り広げていると赫夜は若干面倒くさそうに口を尖らせる。
「お風呂も手伝ってほしいの?」
「そこは断固! 違う!!」
「そうでしょう? 三分後には着替えを持ってくるから。私に丸洗いされたくないなら自分で入りなさい」
「はい……」
パタンと扉を閉められて、逃げ場のない洗面室に取り残される。
思わず頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。
入るしかないのはわかっている。赫夜は言ったらやるだろう。三分後にここに居たら、この前の体調確認どころではない惨事が起こってしまう。
大きくため息を吐いてから立ち上がり、雨を吸って色の変わった制服を洗濯機に放り込む。下着だけは幸い濡れていなかったので、祈る気持ちで小さく畳んで隅っこに置いた。
広い家は当然のように風呂場も広かった。灰色の光沢がある壁面は高級感に溢れていて、白く大きな浴槽の存在感をより強調している。洗い場だけでも自分の家の風呂場より広い気がして落ち着かない。
素早く出ようと心に決めてシャワーを浴びる。温かなお湯にじんわりと痺れる感覚がした。
シャワーのすぐ横の壁に取り付けられたラックには、ピンク色の可愛いボトルが並んでいる。
赫夜達は普段これを使っているのかと、英語で書かれた馴染みのない商品名をまじまじと目で追う。
「朝来、着替えは洗面台の横に置いておくから、お風呂から出たら私の部屋においで」
「わかった……!」
すりガラスの向こう側から呼びかけられて肩がびくりと跳ね上がる。
覚えられる気のしない長い商品名を、それでもじっくりと見てしまったことで気が咎めた。
赫夜が洗面室を出た音を聞いてしばらくしてから、そっと浴室の扉を開けて出る。
洗面台に用意されていたのはタオル生地のバスローブだった。
目こぼしされたのか、ただ目に止まらなかったのか、無事だった下着を履いてからバスローブを素肌に羽織る。
袖を通すと脇が狭い。洗面台の鏡に映るバスローブの形はうっすらと昨日見た気がするので、これは赫夜のものなのだろう。
俺は小柄ではないけれど、どちらかと言えばひょろい部類に入る自覚があるのに。
女物はこんなに小さいのかという驚きを感じつつ、赫夜のサイズ感について考えてしまい慌てて頬を抓って打ち消した。
なんとか前は閉じられたが、貧相な胸元が覗いていて鏡を見てげんなりする。
戦うと約束してからは家で筋トレもどきもしているものの、目に見えた効果はないと思い知る。
ただ、そうして鍛えたところでバスローブが似合う見た目かと言われると、絶対に違うのが悲しいところだ。
「――赫夜、いる?」
コンコンと軽くノックをしつつも、この格好で夕鶴に遭遇するのも気まずいので返事が返る前に扉をゆっくり開いた。
扉からそう遠くない場所に立っていた赫夜は、床を濡らさないためかタイツだけは脱いでいたものの、まだ濡れた服のままだ。
身体に貼り付いた布地はその曲線を隠そうとしないし、髪からはまだ雫が肌を伝っているのが見える。
一緒に雨に打たれていた時は気にならなかったのに、あらためて見ると妙に色っぽい。
赫夜は見惚れて立ち尽くす俺に気付いて室内に招き入れると、エアコンのリモコンを手渡した。
「私もお風呂に行ってくるから待っていて。服が乾くまではこの部屋に居て貰うから、寒かったら温度上げてね」
それだけ言って、片手に着替えらしき服をつかんで部屋から出ていく。
ぼんやりしすぎて声を掛けることもできないまま見送ってしまった。
一人になると、途端にそわそわしてしまう。
好きな子の部屋で、その子の風呂上がりを待つというシチュエーションだけでも心臓が破れそうなほどうるさい。
風呂場の形や並んだシャンプーなんかのボトルをつい思い出してしまう。余計な情報を仕入れたせいで、やましい想像の解像度が上がってしまって良くないと頭を振った。
気を紛らわせるために、ベッドから少し離れた位置に置かれた濡れた鞄の中身を出して、わずかに湿気ってたわんだ教科書とノートを乾かすために床に並べていく。
数分でやることのなくなった俺は、鞄の横の床に座って煩悩が頭に浮かぶたびに払いのけながら天井を見つめていた。
切実で間抜けな葛藤を片手ほどに繰り返した頃、部屋の扉を開いて赫夜が戻ってくる。
「朝来は床に座って何してるの? お店屋さんごっこ?」
「どうして俺が一人でそんな事をすると思うんだろうな」
横に置かれた鞄の前に並んだ教科書類や文具といった小物を見れば確かにそうも思えなくはないけれど、俺が二人居たとしても高校生にもなってそんな遊びはやらないだろう。
「私が付き合ってあげるよ?」
「全部非売品なので店じまいです」
穏やかに微笑みながら俺の対面に座った赫夜へ言い返すと、冗談とばかりに楽しげに笑みを深める。よしよしと宥めるように洗いたての髪を混ぜられた。
「床は固いから、ベッドに行こうよ」
立ち上がった赫夜は俺の横を通りながら、促すように俺の頭を撫でる。
離れていく白く小さな手を目で追いながら、その先へと身体を動かした。
ベッドの上に先に腰掛けた赫夜が、俺を上目遣いに見上げながらシーツの上を手のひらで数回軽く叩く。
「はい、ここ。おいで」
赫夜の頬やパジャマの襟ぐりから覗く血行の良くなった肌はほんのりと赤く色付いていて、他意のない表情すら恥じらいのように見えてしまうのは場所が悪い。
「ああ、うん……」
「どうしたの? 立ってないで座ると良いよ」
その光景に気後れして佇んでいると、赫夜は伸ばした手で俺の指先だけを握って座るようにと下の方へ引く。
隣に腰掛けると、指先を握った手を離してまたも俺の頭を撫でつけた。髪に触れる優しい指先と、満足げな笑顔が理性をくすぐる。
赫夜の纏う薄手のパジャマは下へ向けてゆったり広がっていくようなデザインであるらしく、肩や胸といった一部の出っ張りに対してはむしろ形が直に透けそうなほどに正確なラインを拾っていた。
じわじわと顔に熱が集まってくる。心臓はさっきからずっと忙しいし、このままでは今日もまた良くない気持ちが赫夜に届いてしまう。
すぐにやましい物思いに囚われてしまう愚かな自分を誤魔化すために、視線を忙しく動かしてすげ替えられそうな話題を探した。




