41話 月のお姫様と前世の約束
雑居ビル同士の隙間から見える空にはぶ厚い雲が掛かっていて、そう遠くないうちに雨が降り出しそうだ。
アスファルトの表面に焦げ付いた蟲の名残の前にしゃがみ込んで手を合わせながら、横に立つ赫夜に問い掛ける。
「昨日の話を聞いて思ったんだけどさ、何でまつろわぬ神って封印されてるの?」
素朴な疑問をそのまま口にしてみれば、赫夜は要領を得ないといった様子で首を傾げた。
「何でって、鞘守が封印を施したからだけど」
「それが不思議だなって話だよ。鞘守ってきちんと修行とかしてて、俺より圧倒的に戦い慣れてたわけだろ。自分専用の特効武器も作って……それなのに、まつろわぬ神は倒せなかったってことなのか?」
まつろわぬ神がそれほどに強い相手ならば、もっと俺を鍛えようとするだろう。
けれど昨日の話では、肝心の武器を振る人間が居ないといった程度に聞こえた。そこに違和感を覚えてしまった。
「それは……」
「赫夜は蟲をなんとかすればまつろわぬ神を倒せるって口振りだったけど、よくわからなくなってきた。俺に倒せる相手なら、そもそも千年前に倒せたんじゃないのかって思ったんだけど」
赫夜はまっすぐに下ろされた腕を包む布地を、もう片方の手で強く握り込みながら瞳を伏せ気味にさ迷わせている。
何かしら事情がありそうだとは思ったが、その通りらしい。
話の途中から頭の天辺にぽつりぽつりとわずかな水気を感じたが、何かを話そうとして言い淀んだまま黙っている赫夜の言葉をじっと待った。
「……千年前、まつろわぬ神の討伐は行われなかった。封印は鞘守の独断で行われたものだ」
「準備をしたのに、まつろわぬ神とは戦わなかったってこと?」
「そうだよ。鞘守は誰にも告げずに一人でまつろわぬ神の元へ向かい、その命と引き換えに封印を施した」
赫夜は立ち上がった俺をまっすぐ見返して静かに頷く。
表情は平静さを取り戻しているが、指先はまだきつく腕に食い込んでいた。
「封印して死んだ? 命が惜しくて戦いを避けたわけじゃないなら、どういうことなんだ」
「どうして鞘守がそうしたのかは、わからない」
赫夜の瞳がまた困惑の色に染まって揺れる。
「手筈はすべて整っていた討伐決行の前夜だ。――鞘守は当時の周囲の人間からの評判でも、生真面目で世のため人のためと強い信念を持った男だった。そうせざるを得ない事象が起こったのだと考えるのが自然だろうけど……」
「それだと、今回もまた何かが起きるんじゃ」
「私からすると、あの時に何か異変があったとは感じられなかったんだよ。だから、鞘守の行動がわからない」
現状も赫夜から見れば蟲の陣以外に問題はないのだと言う。
ただ、もし俺より遥かに強かったはずの鞘守が討伐を断念するような出来事があるとするならば、俺にどうにかできるものだろうか。
次第に大きく降り出した雨粒が身体を濡らし、水を吸った服が胸中の不安そのままに重くなっていく。
それでも赫夜も俺も、雨を理由に話を切り上げようとはしなかった。
「お前が見ていた夢、鞘守の記憶の中に何かそれらしきものはあった?」
「……あまり考えたことなかったけど、物騒な感じは何も」
俺が見ていた赫夜の夢はどちらかというと穏やかで日常的なものだ。他に強く印象に残る夢というのも思い当たらない。
そういえば、赫夜に現実で会ってからは、あの夢を見なくなっていた。
「鞘守は本当に赫夜に何も言ってなかったの?」
「まったく何も。私から見れば最後に会った時はいつも通りだった」
赫夜はびしょ濡れになった頭を緩く振った。
そこでまたふと、疑問が生まれる。
千年前、直前までは倒される予定だったまつろわぬ神を独断で封印した鞘守と、何も知らないと言う赫夜。ならば今に繋がる約束とはどこで交わされたものなのか。
「……おかしいだろ。約束したのに、そうなった経緯を何も聞かなかったなんて」
「鞘守から、約束をして欲しいと書かれた文だけが残されていた。千年後に同じように強い力を持って生まれ変わると、その人間を探し出して、今度こそ共にまつろわぬ神を倒して欲しいと……」
雨を降らす空を仰ぎながら落とされた赫夜の声は、水が地面を打つ音にかき消されそうなほどに小さかった。
「なんだよそれ。勝手な話だな」
書き置きを残せる余裕があるならば、事情は全て書いておけと言いたい。
何もわからないまま命がけの神退治を押し付けられている俺としては、明らかになった前世の男の身勝手さがひたすらに腹立たしい。
「本当にね……もしこの先、何かわかったことがあれば教えて欲しい」
吐き捨てるような俺の言葉に同意しつつ肩を竦めて力なく笑う。
頷きはしたものの、蓋を開けてみれば一方的な約束だったものを律儀にやりきろうとする赫夜にも、少しだけ腹が立っていた。
「――しかし、ずぶ濡れになってしまったね」
「まさかこんなに勢いよく降るとは」
頬に貼り付いた髪の毛を手で拭いながら困った顔で笑う赫夜に、俺も苦笑いを返す。
張り詰めていた空気が少しずつ和らいでいくのが感じられた。
水を含んだウールコートの重みがずっしりと肩に掛かっていたが、ここまで濡れてしまうと流石にどうでも良くなってしまう。
心配事は鞄の中にある教科書やノートが使い物にならなくなっていないかだ。
鞘守に対する憤りは当面収まりそうにないけれど、もう居ない人物に腹を立てるのも不毛だとわかっている。
魂は同じらしいのに、こんなにも共感できないものかといっそ不思議な気分だった。
「一度、家に戻ろうか。このままでは風邪をひくよ」
赫夜はそう言って、雨の中ぼんやりと思考にふけっていた俺の手を取る。
返答を待たずに行われた転移によって、視界が暗く歪んでいく。
昨日も今日も移動には転移を使っているが、この感覚には当面慣れそうもない。
着いた先の赫夜と夕鶴の暮らすマンションの広々とした玄関で、独特の浮遊感に軽い吐き気を覚えた胃を擦りながら思った。




