39話 男子高校生とはケダモノの名前である
熱い湯船に鼻の下まで浸かりながら、ぶくぶくと水面に泡を立てる。
湯に身体を浸してからもうだいぶ長い時間が経っているけれど、今日の出来事を思い返して浴槽から立ち上がれなくなるくらいに落ち込んでいた。
俺はケダモノだ。
正確には、だった、だ。
これまでそんなことは知らなかったのだと、誰も聞いてくれはしない言い訳を胸の内で強く主張する。
男はケダモノというのは世間一般に広く知られた言葉であるだろう。しかし、そんなものは親世代やさらに上の世代の言葉であり、自分には当てはまらないと常々思っていた。
男子ってやつはと冷ややかな視線を浴びせるクラスの女子達に、男というだけで同じ群れの生き物だと十把一絡げに括られてしまうのは誠に遺憾だと、不満をこっそり口にしたこともある。
最近、俺も自分が抗いようもなく群れの一匹であることに気付き始めていたものの、それでも節度と理性を持った人間であると心のどこかで信じていた。
しかし今日、間違いなく俺はただのケダモノなのだと痛感させられてしまった。
赫夜とのキス、寝ている赫夜に触れたこと。
そこに昂ぶりと幸福感を覚えたことが、俺の心に苦い罪悪感としてのしかかっている。
寝ていて意識のない相手に触れるなんて。
頭を撫でるくらいと軽く考えてしまったが、赫夜が俺に気を許していても家族でも恋人でもない相手にして良いことではない。
キスも、一回目は不意打ちの言わば事故だ。けれど、二回目は明確に意志を問われて……自分の意志でしたことだった。
キスなんてそれこそ恋人がするもので、俺と赫夜はそうした関係ではない。
赫夜の言葉を借りれば契約者だが、それが意味するところは相棒の方が近いだろう。
欲求に負けて赫夜が良いならと流されてしまったが、良くないことだとわかっていた。
赫夜のことを好きだと気付いたからこそ、気持ちを伝えて付き合うという段階を踏んで初めて行うべきことだったはずだ。
あの時だって、気持ちを伝えられるタイミングはいくつかあったのに。
赫夜のことが好きだから、触りたいと思うしキスだってしたい。でも、優しくしたいし大切にしたいとも思っているのだ。
自分の中で欲と思いやりのバランスが釣り合っていない現状に嫌気が差す。
湯気で白く曇った鏡に映っているのは人間ではなく野性のケダモノの顔なのだ。よく見ておけと、やさぐれた思考が駆り立てるままに腕を伸ばす。
湯気を乱暴に手のひらで拭うと、水滴の滴る鏡面には野性味に溢れて……とはとても言えない腑抜けた顔が映っていた。
また別の部分に傷ついてしまいとてもつらい。
このまま泡になって消えたいなどと童話の人魚ほど悲嘆に暮れてはいないが、人生においてここまでの自己嫌悪をしたことはなかった。
かぐや姫もこんなケダモノ達に迫られたら、それは無理難題を出して叩き返すだろう。
煩悩による羞恥の赤を隠せるくらいに長風呂で体中を真っ赤にしてから風呂場を後にした。
流石に血流が良くなりすぎてふらついていたので、水を飲もうと台所にある冷蔵庫の扉を開けた。自分の飲みかけのペットボトルが扉のボトルポケットに刺さっていたので手に取って一気に飲み干す。
空になってしまったペットボトルをキッチンのテーブルに置いて、大容量のボトルから中身を移していると、母さんも水を飲みに来たのか鉢会った。
「朝来、お風呂上がったなら声掛けなさいよ」
「そうだった。ごめん」
「まったく、朝来はいつもぼんやりなんだから……そんなんで赫夜ちゃん達の家に行って変な失敗とかしてない? 高価な壺割っても弁償できないわよ」
「壺はなかったから安心してよ。食器は高そうだったけど」
俺が冷蔵庫にペットボトルを戻しながら言うと、母さんは俺の態度に呆れながら眉間に皺をよせる。
「お夕飯まで食べて来たんでしょう? 食費についてもいらないなんて言われたけど、いいのかしらね。随分とお金持ちみたいだから、こっちが出すのは逆に失礼って感じなのかしら」
食費の件については、親である母さんの方が心配しているようだ。「お金持ちの常識は計れないわね」と手で頬を包むように添えて困惑を表す。
「親戚の農家で取れるりんごとかなら貰ってくれるかしらね」
「食べ切れそうな量なら多分、お金よりは」
「じゃあそうしてみましょ! 朝来がちゃんと持っていくのよ」
「わかってるよ」
母さんはまだ話を止める気がなさそうなので、大人しくキッチンテーブルに収まっている椅子を一脚引き出して座る。
「月曜日は、もう朝来をどこぞの寺に入れるしか無いかと思ったけど」
遠い目をして緑茶のペットボトルを傾けた母さんがさらりとのたまう。
「良かったわよね。なんとか犯罪者として突き出される前にお付き合いができて。赫夜ちゃんはびっくりするくらい可愛いし、お金持ちだし、お姫様みたいよねぇ……どうして朝来なのかしら?」
「どうなんだろうね……」
母さんには付き合っていないと話をしたはずだが、家で夕飯を食べて帰ると言った流れからか勝手に俺と赫夜が付き合っていると脳内情報が修正されていた。
また小言は嫌なので聞かなかったふりをして流す。
「まさか暁より先に朝来に彼女ができるなんてねぇ……あの子は結婚できるのかしら」
「兄さんの彼女は研究だから」
地方の大学で夢に向かって懸命に研究を続けているであろう兄を久々に思い出して、少しだけフォローを入れた。
兄さんは性格も見た目も母さんに似ていて、凛々しいという言葉の似合う顔つきの上、全く運動が苦手なのに武道でも嗜んでいそうな恵まれた体格をしている。
優しいけれど、無愛想というか寡黙すぎるのが難点なのかもしれない。
「――僕は朝来ってモテるんだって思ってたんだけど。これって親馬鹿だったかな?」
にぎやかな母さんの声に誘われてか、父さんが半纏姿でキッチンへと入ってきた。
「うん。親の欲目で間違いないと思う」
「だって、高校に入って随分背が伸びたし、朝来と似ているお婆ちゃんも若い頃はすごくモテたってお祖父ちゃんから聞いたよ」
「そう? 朝来、学校ではモテるの?」
「いや、残念ながらそのような事実は一切……」
女性である祖母と男である俺とは需要が違う。多少顔が似ていても同じようにモテはしないだろう。
「……まぁ、大勢にモテてなかったとしても朝来には赫夜さんがいるんだし、大事にするんだよ」
にこにこと、顔を見合わせて両親が笑う。平和な夜の団らんは本日の話題についてを除けば結構楽しい。
ただやはり、父親も記憶を捨てているのか何も知らないのか、俺と赫夜の関係を誤解していた。
自分と赫夜の関係に悩んでいたり罪の意識を感じていた俺にとって、両親の言葉がグサグサと刺さる。
針山にでもなった心地でぐったりと背もたれに体を預けた。




