37話 月のお姫様と路地裏とオカルト講座
赫夜に連れられてきたのは、線路に近い小ぢんまりとしてレトロな飲み屋が立ち並ぶ通りから細い道をジグザグに進んだ先にあった路地だ。
ここも飲み屋通りだったのだろうが、営業している店はない。
どの店も外装が薄汚れており、壊れた立て看板が隅に放置されていたりもする。
落ち着いた雰囲気ながらも賑わいがあった飲み屋通りとの落差。暗く寂れたこの通りにもかつてはそれがあったのだろうと、在りし日の姿を想像させられて言いようのない寂寞を感じた。
「……行かないの?」
半歩前を歩いていた赫夜が突然ぴたりと足を止めたので、不思議に思い声を掛けた。
「百メートル先に五匹、小物だね。これ以上近寄ると勘の良い個体なら気付いて逃げるかもしれないから、ここから狙うよ」
「え……? ここから?」
蟲の位置を性格に把握しているような発言に、わけがわからぬまま曖昧に返す。どう見ても道の正面は百メートルもなく曲がり角だ。
赫夜はちらりと肩越しに俺を見て小さく笑う。
「まぁ、折角ついて来たのだから、感覚を養う訓練だと思いなさい。意識を集中してよく見ると良い。私の周囲に漂う元素の流れを感じ取って」
「いや、そんなこと言われても」
唐突に難題を振られても困ると言い返しかけたところで、言葉通り赫夜の周囲で何かが変わった。
あまりにも感覚的なもので形容し難い。空気が変わったと言えば良いのだろうか。
濃霧の中にいるような息苦しさを感じ始めた。
「これ……あの時と同じ……」
「場にある元素を、お前にもわかりやすいようにゆっくりと動かしている。苦しかったらごめんね、これも慣れだよ」
「赫夜、何なんだこれ……」
「霊子、気、魔素、元素、エーテル……好きに呼べば良い。国や体系によって呼び名は違うけど、全ては同じものを示している。大気に満ちる力。凡その人間は意識せず、感じ取れもしない力だ」
静かに説明を続ける赫夜の周りに、金色のキラキラと光る細かな粒子が舞い始める。
身体に感じる圧力と息苦しさは上がっているのに、目の前の幻想的な光景はそれすら忘れさせる美しさがあった。
「私達も人も、力の行使には必ずこの元素を扱う。こんなふうにね」
赫夜が腕を上げ、顔の横で立てた人差し指をくるくると回す。
その手を囲うように光の粒が輪を描くと、次第に途切れ、飴玉ほどの大きさの光球になった。赫夜が指先を前に向けて少し大きく払うように振ると、光球がものすごい速度で尾を引くように飛んでいく。
辛うじて目で捉えた軌跡は、ホーミング弾のように上下左右にうねりながら、器用に道の角を曲がっていった。
「それじゃあ、行こうか」
赫夜が穏やかな笑顔で、道の奥へ進もうと俺の手をひく。
もう赫夜の周囲には光の粒は視えないし、力によるものと思われる重苦しさもさっぱり感じなくなっていた。
「さっき赫夜がやってたやつ、修行とか勉強したら俺にも使えるようになるかな?」
「私と人間では力への干渉の仕方が違うから無理……と言いたいけど、朝来ならできるだろうね。でも、やらせる気はないから諦めなさい」
興味を惹かれたので聞いてみたが、さらりと言われてしまう。大きな期待もしてもいなかったけれど、にべもなく言われると少し悲しい。
「……ま、赫夜の専用技ってことか」
「朝来にわかって欲しいのは力が動く感覚だよ。自分で使わなくても、感覚がわからないと敵の攻撃を避けるのは難しくなるからね」
俺のがっかり感が伝わったのか、慰めるように繋いだ手を軽く上下に揺する。
「力の動きってあの、ムワッとした重くて苦しくなる感じのことで合ってる?」
「そうだね。息が苦しくなるのは慣れが足りないだけだけど、感覚を覚えておいて」
「なるほどな。わかった」
「いい子だね。大気中の元素に動きを感じたら何かしら対応する必要があるから、それも忘れないで。実戦なら相手次第で数秒掛けずに飛んでくるだろうし、私も本来ならあのような前振りはしない」
素直に頷くと、どう聞いても不穏な話が返ってきた。
口角に引きつりを感じながら質問する。
「じゃあ、その対応策を教えてはもらえないでしょうか……」
「反射神経を磨いて避ける」
「そのまま過ぎるだろ?!」
「今のお前は術を返したり弾いたりも難しいだろうからしょうがないじゃない」
前回も攻撃を避けそこなった手前不安しか無い。
「避けそこなっても即死じゃなければ何とかなるよ」
絶句する俺に対して、相変わらず声だけは優しいズレた励ましをしてくれた。
話している間に、目的地だろう細い路地の行き止まりへと辿り着く。
見渡しても薄暗がりの中には壁の配管と室外機くらいしかない。
俺に感じ取れる蟲の気配はなく、姿も見えなかった。
「赫夜、何も見えないんだけど、蟲って死骸とかも残らない感じなの?」
「そうだね、絶命から数分もしたら黒くなり、蝋のように融解してしまうみたい」
見た目でかい虫なので、死骸が複数落ちているのも嫌だけど、溶けるというのも気持ちが悪い。ただ、まだそう時間が経っていないのにそれらしきものが見当たらず、左右に大きく首を動かす。
「さっきの蟲はこれだよ」
俺の手を軽く二、三度引いて、赫夜は地面の一点を指さして教える。
示された先に視線を動かすと、灰がこびり付いたような黒く煤けた跡があった。
焦げ……?
目を凝らしてみると、黒い跡の横に数本の脚が残されているのがわかって確かめたことを後悔した。
壁や路地の隅にもいくつか同じ跡がある。そういうことなんだろう。
「……あのさぁ、赫夜この戦いに俺って必要なのか?」
あきらかなオーバーキルを見せつけられて疑問しか湧いてこなかった。
「必要だよ?」
赫夜は不思議そうに目を丸くする。
間髪入れずに返されたのは嬉しいけれど、疑わしさは消えない。
俺の訝しむ視線を受けて、赫夜は困ったような顔をしながら唇に指を添えて言う。
「千年前、まつろわぬ神を倒すために新しく造られた霊剣がある。その時限りと思って使用者を限定することで効力を高めようとした結果、神を弑する無二の強力な剣が出来上がったのだけど……お前しか使える人間が居ないということに」
瞳を伏せた赫夜の口から小さなため息が漏れる。
「特効武器を扱えるのが俺だけって感じか……」
そう説明されると、納得できるものがある。
仮に一撃必殺の武器があったとしても、使える人間が居なければ意味がないということだ。
「朝来じゃないと駄目だって、わかってくれた?」
「うん、なんかまぁ……ようやく納得はした」
繋いだ手を一際ぎゅっと強く握り、俺の顔を下から覗き込んでくる。
これまでの戦いの場といった空気が失せたことで緊張感がほぐれ、不意に近づいた距離にこれまで忘れていた件を思い出してどきりとしてしまった。




