35話 月のお姫様と寝起きの✕✕
リビングで一緒に勉強を始めて二時間近く経った頃、斜め向かいに座っていた夕鶴がノートに向けていた顔を上げた。
「結構いい時間になっちゃったし、赫夜のこと起こして来てよ」
「なんで俺に言うんだよ」
動揺して真横に引きたかったカラーマーカーの線が右上がりに歪む。
頼む相手も、頼み事の内容も間違っている。
「あたしはこの数式を解くのに後二十分は掛かる……!」
夕鶴は俺を恨めしげに見据えながら、低く唸っている。
「それは理由にならないだろ。終わらせてから行けばいいじゃないか」
「別に赫夜は怒んないよ!」
「だからって、勝手に部屋入るのはまずいだろ」
寝ている女の子の部屋に男が勝手に入るのは倫理的に問題があると俺は思う。
「あたしはお腹空いてきたから早く起きてご飯作って欲しい!」
「わざわざ俺を使わなくても、夕鶴がさっと起こせば済む話じゃないのか?」
子供のように嘆く夕鶴に呆れた視線を送れば、シャーペンを握る手を震わせながら更に長い唸り声を上げた。
「立ったら全部忘れちゃう。どこまで解いたかわかんなくなる」
大きな瞳を潤ませながら、眉尻を下げて弱々しく訴えてくる。
いつもの剣幕で言われれば文句を返しやすいのに、そうやってしおらしくされると対応に困ってしまう。
「……赫夜の部屋ってどこ?」
「リビング出て左」
立ち上がって尋ねれば、うっうっと嗚咽を漏らしながら答えた。
数式一つでそんなに辛くなられると心配なんだが。
大丈夫かと不安を抱きつつも、廊下に出て赫夜の部屋らしき扉を軽くノックする。
――廊下は静かだ。
「赫夜、起きてる?」
先ほどより少し強めに叩きながら声を掛けてみるが、しばらく待っても内側からは何の反応も感じ取れない。
鍵穴の見当たらない扉を、音を立てないようにそっと押して隙間から中を覗う。
室内には照明の白い光が満ちていた。
「大丈夫? 起きれそう?」
起こしに来たと伝わるような言葉を選ぶ。扉を大きく開けて中に入ると、部屋の端に置かれたベッドの上に横たわる赫夜が目に止まる。
明るい室内と、壁と一体化したタイプのクローゼットが開いているところから、着替えるつもりはあったが睡魔に勝てなかったのだろうと推察できた。
しかし、何とも……
見渡した室内は、生活感どころか何もなかった。
ベッド以外の家具がないのだ。
窓に掛けられたカーテンと、クローゼットの中に衣類は見えるがそれだけだ。
物を置くのを好まないのかもしれないけれど、どこか異質な感じがした。
赫夜の様子を確認しに近付くと、白いシーツを握りしめながら気持ち良さそうに丸まって寝ているのが見て取れる。
あきらかに熟睡中だ。
「赫夜、起きて。夕鶴が夕飯食べたいってさ」
ベッドの脇に膝を立てるようにしゃがみながら呼んでみるが、やはり反応はない。
微笑ましくて自然と笑みがこぼれる。
突飛なところはあっても、いつだって落ち着いた年上のお姉さんらしい振る舞いをしていたのに、実はこんなにも寝ぎたないなんて。
新しい一面を知ることができて、嬉しくてくすぐったい気分だ。
かすかな寝息をたてて寝入る赫夜をついじっと見つめてしまう。
滑らかな白い肌の上に狂いなく配置された形のいい眉、長い睫毛、通った鼻梁、薄く色付いた小さな唇。普段は人とは違う存在だと強く感じさせる作り物めいた繊細な美貌も、こうして見ると実に可愛らしく、あどけなさが強い。
もっとよく見たくなって、そっと立ち上がりベッドの縁へ浅く座り直す。
小さく身じろぎをした赫夜に、勝手に寝顔を鑑賞している罪悪感からびくりとしてしまう。
幸いにも目を開ける気配はないが、髪が口の端に掛かるようになって不快なのか眉間を寄せて唇を動かしている。
何だか可哀想になってしまって、肌に触れないよう神経を使いながら爪の先でそっと口の端に張り付いた髪を払い除けた。
起きないように気を使うなんて、起こしに来たのにおかしな話だ。
でも、正直眠いなら寝かせておいてあげたいし、このままずっと眺めていたい。
赫夜は髪が払われて不快感が消えたのか、満足そうにふやけた笑みを浮かべた。
「昨日のお返しだから」
我慢が効かなくなっただけのくせに、自分への言い訳を呟いて無防備に眠る赫夜の髪に触れる。
淡い色の髪をゆっくりと梳けば、途中で引っ掛かることもなく柔らかな感触だけが指先に伝わってきた。ふわふわとした髪質に、撫でているこちら側が心地良くなってしまう。
何度かそうして撫でていると、赫夜がくすぐったそうに寝返りをうつ。が、反応が遅れたせいで手を引ききれず、逆を向く顔が俺の手を下に敷くように巻き込んだ。
ぽすり、と頬が手のひらに収まって中途半端な位置で浮く。
すべすべと柔らかな頬は、深い眠りで体温が下がっているらしく少しひんやりと感じた。
赫夜は俺の手の熱がお気に召したのだろうか。緩みきった表情で、深く埋めるように頬を擦りつけてくる。
言ったら怒るらしいけれど、こうした仕草はやっぱり甘えている猫に近い。
頬擦りのたび、わずかに触れる唇のふわりとした柔らかさが心臓を強く跳ねさせた。
……このままではまずい。
とは言え、慌てて手を引いて起こしてしまい、この状況が発覚するのも大変にまずい。
あらゆる意味で心臓が痛くなってくる。どうしたらいいのかと、数分前の自分の自制心の無さを猛省していると、手のひらの中で赫夜の頬がぴくりと動いた。
「……ん」
少し高く掠れた声と共に、緩やかに長い睫毛が持ち上がっていく。
開かれた蜜色の瞳は焦点が合っていない。まだ意識の半分以上は夢の中といった面持ちの赫夜は、俺の手に頬を預けたまま、ゆるゆると体勢を変えて身体を起こす。
気付かれずに手を退ける絶好のチャンスだったはずが、動作の軸にされている感じがして手を引き剥がすことができない。赫夜がなんとかその場で自立できる姿勢を整えるまで、しばらく時間がかかった。
赫夜はベッドの上で正座を崩すようにぺたんと座ると、微睡んだ瞳を俺へと向けた。
「……あさき?」
小さく俺の名前を呼ぶ声は甘い。いつもより舌が回っていなくて、だいぶ幼く聞こえる。
もっと寝ていていいとベッドに押し戻して撫でたくなってしまう愛らしさがあった。
「お、おはよう、赫夜」
内心の動揺をどうにか悟られまいと、落ち着いた喋りを心掛ける。
「おはよう……あさき、どうしているの?」
赫夜は、ぼんやりとした表情のまま問いかけてきた。
「起こしに来ただけだよ。夕鶴に頼まれたんだ」
「……うん……おきないと……おきなければ……」
赫夜は自身を奮い立たせるように言葉を繰り返してはいるが、目蓋はゆっくり下がっていっているので効果は薄そうだ。
「そんなに眠いなら寝ててもいいよ。この後の予定も無理しなくていいし、夕飯のことも夕鶴には俺から言うよ」
ろくな食事は作れないが、夕鶴が許すならコンビニかスーパーまで走ることくらいはできる。大きく船を漕いでいる姿が心配で、つい勝手なことを言ってしまう。
「うぅ……だめだよ、おきる……」
吐息混じりの苦しげな呟きと同時に、赫夜の手が俺の両肩に伸びる。倒れ込みそうな身体を支えようとしているらしい。
制服の布地をぎゅっと握り込む指はわずかに震えていた。
力が入らないのか、次第にずるずると手が滑り落ちていくと、赫夜の身体も引きずられるように前のめりになって近付いてくる。
ただ、倒れたら危ないと思って両肩を支えるように受け止めた。
それなのに、軽く押し戻した瞬間、赫夜の夢見心地であどけない顔があまりにも近いことに気付いてしまう。とろんと潤んだ瞳に先日のよこしまな夢が重なって、鼓動が急に早くなり顔に熱が上がっていく。
「赫夜……起きるならちゃんと立たなきゃ」
やましい気持ちを散らすように、目を横に逸らしながら話しかける。
「あさき、ちょっとうるさい……」
眉根を寄せて漏らす赫夜にちょっと傷付くが、起き抜けに至近距離で喋られたらそうだろう。ごめん、と素直に小声で謝っておく。
赫夜はまだわずかに焦点がぶれた瞳を俺のいる方角へと向けてくる。
小さな唇には朱が差して、あどけなさに更なる甘さが足されていた。
瑞々しく柔らかそうな、その朱に目を奪われてしまう。どれほど頑張って見ないようにしても、キスをしたい。抱きしめたい。そんなことしか考えられなくなるほどの破壊力があった。
「……なに? あさきは、わたしとくちづけしたいの?」
突然ふわふわとした口調で呟かれた問いに俺の思考は止まる。
「……え!? そ、それは!」
やましい感情を本人に言い当てられて、動揺してしまう。
「ん、わかった」
「何でそんなこと」
わかったのかと問う前に、濡れてぼやけた蜜色の瞳がすっと近くなった。
視界を淡い金の髪と、豊かな長い睫毛が埋める。
これまで感じたことのない、熱っぽい柔らかさを唇に感じた。
ゆっくりと視界が正常に戻る。眼の前の赫夜は、瞳を伏せながら何かを確かめるように二度頷いた。
「ちょっと、目がさめてきた……おふろ行ってくる」
ベッドからするりと降りて、まだ覚束ない足取りながら部屋を出ていく。パタンと扉を閉められた音すら遥か彼方のものに聞こえた。
今、何が起きた?
状況を上手いこと頭の中で処理できずに……理解できずにいる。
自分の唇に未だ残る感触は夢なんかじゃない。確かめるために這わせた指先が、無意識に小さく震えていた。
「あれ、朝来まだ居たの?」
どれくらい経ったのか定かではないが、ガチャリとまた扉の開く音がして、薄いタオル地の白いバスローブを身につけた赫夜が部屋に帰ってきた。
俺がまだこの部屋に留まってぼんやりとしているのを不思議そうに首を傾げている。
「ごめん! 今出てく!!」
風呂で温まって赤く上気した頬、しっとりとした首筋が見えるバスローブ姿というのも非常に目に毒で、部屋から慌てて転がり出た。




