34話 月のお姫様のお宅訪問とやっぱり理不尽な幼馴染
「でっっか……!」
閑静な住宅街の一角に佇むマンションは四階建てと高層ではないが、建物を囲うように植えられた庭木を含め、全体的な敷地面積が広く感じた。
外観のデザインからして洗練されており、華美ではないが庶民の目から見てもすぐにわかるほどの上品さと高級感にあふれている。
口を開けて見回してしまう俺に「こっち」と声を掛けてから、夕鶴は石造りの重厚なエントランスを平然と進んでいく。
旅先のホテルフロントみたいなカウンターでこちらに向けてお辞儀をするスタッフらしき人の存在が謎だ。
家だよな? ここ。
挙動不審になりながら、夕鶴からできるだけ離れないように後ろに回る。
エレベーターから降りて最上階の共有廊下を歩いていくと、きれいに整えられた中庭と、一階にガラス張りのフィットネスルームらしきランニングマシンの並んだ部屋が見えた。
未知の世界に迷い込んでしまったと心臓が痛くなっている俺を、夕鶴は肩越しにちらりと見て怪訝な表情を浮かべる。
「そんな珍しいものでもある?」
「全部だろ」
「あっそ」
何言っているんだと答えればそっけない態度が返ってくる。
記憶と共に庶民の感覚というものも忘れてしまったらしい。
夕鶴は俺の家より一回りは大きそうな濃い灰色の玄関扉に、鮮やかなピンク色のキーケースに仕舞われた鍵を差し入れた。
ゆっくりと開かれた扉の先には、淡い金の髪に軽く手櫛を通しながら柔らかくきれいな笑みを浮かべる赫夜が俺達を出迎えるように立っていた。
「おかえりなさい」
赫夜は出迎えの言葉と同時に夕鶴へ向けて両腕を伸ばす。
夕鶴もそれに応えるように腕を広げて赫夜を抱きしめた。
「ただいま、赫夜。朝来が家に来るなんて聞いてない! 重要な話はちゃんと教えておいてよね!」
「ごめんね。帰宅した時は遅かったから言いそびれてしまって」
背中しか見えないが、夕鶴の叱り声は呆れの中にも優しさが強い。
赫夜はのんびりと謝りながら、抱きしめる夕鶴に頬擦りをしている。
微笑ましくも若干倒錯的な雰囲気がある。距離が近い二人だと思っていたが、挨拶で抱き合うのが日常なのは海外ドラマみたいだ。
夕鶴が身体を離すと、赫夜は玄関に立ったままの俺に視線を移す。
「朝来も、おかえりなさい」
微笑みながら腕を広げている。
………今見たことをやれと?
郷に入っては郷に従えとはよく聞くことわざだが、これが従うべき事柄なのかがわからない。
夕鶴も靴は脱いでいたが、この家の中は海外ルールなのだろうか。
ただの挨拶とは言え、女の子の身体をそんなに気軽に抱きしめていいものなのだろうか。
俺が忙しく葛藤していると、夕鶴がくるりと廊下の先で振り返る。
「赫夜、朝来はおかえりじゃないから」
「あ、そっか」
赫夜は夕鶴の方を向いて、納得したように声を上げると広げていた腕をさっと下げた。
困惑の原因が無くなって安堵するものの、少しだけ残念な気がしてしまうのが厄介だ。
「お邪魔します」
自分の中の面倒な感情に苦笑いをしながら、定番の声を掛けて廊下に上がらせてもらった。
「いらっしゃい。ちゃんと来てくれて良かった」
横に立った俺を見上げている赫夜は、よく見れば先日横流しされた写真とも違う薄手の白いシンプルな長袖ワンピースだ。
ゆったりと柔らかそうな素材だが、生地が薄くて赫夜の線の細さが目についてしまう。
「もしかして、それパジャマ……?」
「あれ、わかるの?」
「それはまぁ、何となく。連絡も全然つかなかったし寝てたんだろ?」
「寝すぎちゃって」
両手を添えるように口を隠して、きまりが悪そうにはにかむ姿は無防備で可愛い。
心なしか、いつもよりふわふわとした声をしている。
「まだ寝てなくて良いの? 無理しなくてもいいんだけど」
「大丈夫だよ。いつもはもう起きてる時間だもの。朝来もね、せっかく来てくれたし」
俺が必死にやましい感情の詰まった胸を抑えていると、夕鶴がいつの間に戻って来たのか赫夜の背後に立っていた。
夕鶴は赫夜の両肩に手を添えて、俺との距離を離すように自身の方へと引き寄せる。
「赫夜、話の前に着替えとかしちゃってよ」
「……そうだね。着替えていたら間に合わないと思ったけど、寝間着で人前に出るのは良くないことだったね」
夕鶴が誘導するように廊下の奥へ押しやると、赫夜は素直に従って家の中へ消えていく。
わずかに左右に揺れている背中は、まだ抜けきっていない眠気を感じさせた。
廊下を歩く足音が遠ざかると、夕鶴は俺に呆れきった半眼を向けてくる。
「家の中で発情するのやめてくれない?」
「言い方!!」
直球なものの言い草に、顔が熱を持つ。
寝起きの赫夜に見惚れていたのは事実だけど、指摘するにしてももう少し他の単語があるだろう。
「違うと言わないだけ進歩か……」
「……認めるから、そういう確認の仕方はやめてくれ」
探るような夕鶴の視線に、後頭部を掻きながらため息と共に欲しがっていた答えを渡す。
「素直でよろしい」
一瞬目を見張ると、これまでとは一転して満足げな笑顔を見せた。
着替えてくるからソファに座って待っていてと言われ、緊張しつつリビングのドアを開く。
左右でダイニングと分けられている室内は、全体的に白と木質の薄い茶色を基調とした優しい色調で纏められている。
大きな窓に掛けられたカーテンは灰色がかった淡いピンクで、可愛らしくも落ち着いた印象だ。
テレビの対面に置かれた布張りのソファは白く、汚さないか心配しながら腰掛けた。
足元に敷かれた薄い灰色のラグ、テレビとのソファの間に置かれた角の丸いローテーブル、天井を彩る照明一つとっても、どれもシンプルだが質が良さそうに見える。
赫夜の名前をお姫様のようだと思っていたが、これを見ると暮らしぶりもお姫様だ。
ソファの端で肩を縮めていると、リビングの扉が開く音がした。
視線を向ければ部屋着に着替えたらしい夕鶴が小さく手を振る。
身に纏っているモコモコとした柔らかそうな材質の、白とピンクのストライプが描かれたパーカーとショートパンツはセットのようだ。
可愛いし、夕鶴にも似合っていると感じるが、正直寒いのか暑いのかよくわからん格好だと思う。
「あれ、赫夜はまだ来てないの?」
「通してもらってからずっと一人だけど」
「……これは寝てるわ」
「ああ、なるほど……」
胸の下で腕を組んで諦めたように言う夕鶴に、俺も諦めの言葉を返す他無かった。
「あたしはこれから試験勉強だけど、朝来はどうする? テレビ見てても良いけど」
ローテーブルの上に氷と水の入ったグラスを置きながら夕鶴が聞いてきた。
「この机も借りていいなら、俺も期末の勉強するかなぁ」
「ふーん、そっちの学校いつから?」
「今週の金曜」
「は? 一緒じゃん?!」
夕鶴は目を剥いて大きな声を上げる。
割と近い位置だったので音量に驚く。耳が痛くなって耳珠を親指で抑えた。
「高校の定期試験なんてだいたい同じ時期じゃないのか?」
「あんたが今日うちに遊びに来るなんて余裕かますもんだから、来週以降かと思ってた!」
「別に余裕とかじゃないけどさ」
何が気に食わないのか、夕鶴は腰に手を当てながら口を尖らせて大袈裟に顔をそらす。
俺は耳を抑えていた手でそのまま首筋に触れながら、自分の困惑を宥めた。
「あんたって試験捨ててるタイプ?」
「捨ててもいないけど、夕鶴ほど真面目にもやらないだけだよ」
「じゃあ、いつもは学年何番くらいなのよ」
「載ってるとは聞いたけど順位の掲示とか見たことないな」
首を捻ると、夕鶴はますます顔をしかめた。
一位を争うわけでもないし、自分の得点だけ把握していれば見る必要もないと思うのだが。
「む、むかつく……やっぱり余裕なんじゃん!」
「学校が違うのに腹を立てられてもなぁ……問題作ってるのは先生なんだから、授業聞いておけばなんとかなるだろ。授業でやってない範囲は出ないぞ」
ましてや模試でも受験でもないのだから、そこまで気負うこともないのに。
落ち着けと両手を身体の前で縦にして制止をかけるが、夕鶴は愕然とした顔で口を開け閉めしている。
「絶対点数悪くない! 腹立つ!! こっちは死にもの狂いで平均点を維持してるのに!」
「真面目に取り組んでる夕鶴の方がえらいから気楽に挑めって話をしてるんだよ!」
「あんたみたいな奴には授業聞いてもわからん奴のことはわからんのだ!」
「夕鶴が今めちゃくちゃに理不尽なのはわかる!」
子供のように不満を喚く夕鶴の剣幕に押されながら、仰け反りつつも両手で頭を隠すようにガードを作った。
お互いに散々な言葉の応酬で疲れ切って息切れを起こしていた。
家の中がこれだけ喧しかったのに赫夜が起きてくる気配もない。
俺は何をしに来たんだっけかと、きれいな天井を呆然と仰ぎ見た。
「……まぁ、どうせだし一緒にやる? もしかしたら教えられる部分もあるかもしれないし」
夕鶴の怒りを刺激しないよう探りながら、和解案を提示する。
「そうする……ちょっと待ってて」
少しバツの悪そうな表情で素直に頷くと、勉強道具を取りに自室へと戻っていった。
俺は柔らかなソファに座ったまま縦に腕を上げて伸びをする。
人目がないのを良いことに大きくあくびが出てしまい、目の端に涙が浮かんだ。




