31話 月のお姫様と男子高校生の少しだけ近い夜
もう数分したら日付が変わるというのに、眠気が来る気配がまるで無い。
自室の固い床の上に全身を投げ出してゴロゴロと転がる。
節々の骨が床材にぶつかって少し痛いが、煩悩で温まりすぎた頭を冷やすにはこれくらいが丁度いい。
転がりすぎてテレビ台にぶつかったところで、仰向けに姿勢を直して大きく伸びをした。
赫夜は今、どうしているんだろう。
合わせる顔がないというのに、会いたいと思ってしまう。
大きくため息を吐いてから、床を手で押すように力を込めてゆっくりと身体を起こす。
何もしないでいると赫夜のことばかり考えてしまってよくない。
「よし、復習だ。授業の復習をしよう」
うちの学校も期末考査が近いので、眠れないなら勉強でもしてみようかと机に向かうことに決めた。
途中で眠くなろうとも俺に損はない。
余計な思考を遮るためにわざと声を出しながら、普段あまり使われることの無い小さめの学習机に、バサバサと乱雑に教科書とノートを積み上げていく。
どれから手を付けようかと腰に手を当てて考え出したところで、机の上に筆記用具と一緒に置いたスマホが震えた。
「人が珍しくやる気を見せたのに。あいつらまだゲームしてんのかな」
一時間前に抜けてきた友達とのゲーム雑談部屋での人員募集のメンションかもしれない。
念のためスマホをつまみ上げて通知欄を確認する。
『まだ起きてるかな』
……赫夜だ。
驚いて手を滑らせて、足の甲にスマホの角が直撃した。
丁度いい角度で入ってしまい、目の際に涙が滲むほど痛い。
『起きてる。どうしたの?』
『少し話せる?』
『全然大丈夫!』
楽しませる話題もないのに、二つ返事で了承してしまう俺は愚かだ。
『ベランダに行くよ』
てっきり通話が掛かってくるものだと思っていたので、文字を見て一瞬頭が白くなる。
ベランダに続く掃き出し窓へと振り向けば、その先に赫夜の気配が現れたのが感じ取れた。
机の上にスマホを放り投げる。
ゴトリと重たい音が鳴ったけれど気にしてはいられない。
「赫夜!」
「こんばんは、朝来」
窓を勢いよく開けると、正面に立つ赫夜がにこりと笑って夜の挨拶をした。
「ああ、うん……こんばんは」
まっすぐ自分に向けられた笑顔に心臓が跳ねる。
顔がじわりと熱くなる感覚がして、まともに見ていられなくなって目線を下げた。
腕を後ろに回して俺の部屋の狭いベランダに立つ赫夜は、白い薄手のニットに赤茶のチェック柄のタイトめなロングスカート姿だった。
今日の服装もとても可愛いが、何故かコートは着ておらず、見ているこちらが寒そうに感じてしまう。
「今日はコート着てないけど、寒くないの?」
「すぐに帰るから平気。今後の予定についてと、昨日は何も言わずに帰ることになったから、ちょっと挨拶に来ただけだよ」
「いや、寒いって。部屋に入りなよ」
「また親御さんを驚かせてしまうだろうから」
くすりと耳に小さな笑い声が届く。
顔を見られずにいる俺には表情がわからないけれど、昨日のことを何か思い出しているのかもしれない。
「……昨日はごめん。痛かっただろ?」
「私が先に聞こうと思ってたのに。大丈夫だよ。お前こそ、体調はもう本当に問題ない?」
「良かった。俺は本当に大丈夫だよ」
痛みを訴えていた手首が特に心配だったが、身体の前でひらひらと手を振って見せる様子に胸を撫で下ろした。
「今後のことなんだけど、朝来は当面、戦いに出る必要はない」
「え……? 怪我も治してもらったし、体調も悪くないけど」
明日からまた戦いに行こうという話だと思っていたので、戦力外通告のような言葉に動揺してしまう。
赫夜は俺の両腕を横から挟むように軽く叩く。
「戦えるのはわかったし、また傘やほうきを振り回して怪我をされても困るからね」
「……それは、何というか。すいません」
傘の件を指摘されると心に刺さる。
素人でも無謀だなと思うことはやっぱり他人から見ても無謀だったようだ。
「お前の得物を手配しているから、それが届いてからでも遅くないよ」
「得物って、武器って意味だよな?」
「得物で補った方が効率が良いかなって話したでしょう? だから剣をね、取り寄せているところ」
そんな話を耳にしたような気もするが記憶が曖昧だ。
剣なんて、ゲームでしか見たことが無い。武器を取り寄せるなんて聞くと、本格的に違う世界に足を突っ込んだ感じがしてくる。
「蟲の方に大きな進展があるか、得物が届いたら連絡するよ。それまではいつも通り過ごしなさい」
それじゃあ、と話を終わらせようとする赫夜に、慌てて待ったをかけた。
「ちょっと待って! それまでって、いつまでだよ」
「……さぁ? 早くても二週間はかかるんじゃないかな」
赫夜は少し考えるように沈黙してから、平然とした口調で答えた。
それまでは会うつもりが無いということなんだろうか。
「二週間は長くないか……?」
「手配に時間が掛かるのは諦めてほしい。お前にも日常があるだろうし、ゆっくりと過ごすといいよ。夕鶴のように試験もあるんじゃないの?」
「試験はあるけどさ、そういうことじゃなくて……」
「なら頑張りなさい。夕鶴も四苦八苦してよく騒いでいるよ」
くしゃりと耳の横の髪を撫でられる。
赫夜の冷え切った指先が、俺の心の中に湧いた寂しさに引っかかる感じがした。
「……指、冷たいから。暖まるまで中に居ない?」
俺の言葉に、赫夜の撫でる手がぴたりと止まる。
「もう夜中だよ。ちゃんと寝ないと怒られてしまうよ」
「こんな時間に来たのは赫夜の方じゃんか」
「だから、少しって言ったじゃない」
赫夜の声からは戸惑いが感じ取れる。
無理を言っている自覚はあるけど、僅かでいいから引き止めたかった。
「今日は、母さんまた夜勤で居ないから。大丈夫だよ」
恐る恐る視線を戻して表情を窺うと、赫夜は俺を甘やかすように優しい笑みを浮かべていた。
「朝来は悪い子だね」
その表情がきれいすぎて、またすぐに目をそらしてしまう。
抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。
赫夜を部屋へと招き入れて、暖房の温度をリモコンで1℃上げた。
「赫夜、床は冷たいからベッドの上に座ってて」
「うん、失礼するね」
赫夜がベッドの上に腰掛けたのを確認して、俺は対角の床に座る。
昨日の今日で、万が一にも俺が間違いを起こさないようにしておきたい。
赫夜のためにも、俺の社会的な信用性のためにも必要な対処だ。
しかし、名残惜しくて引き止めたものの、特に話すような話題が思い付かない。
天井と壁の境を目でなぞるようにして考えていると、赫夜が「ねぇ」と問いかけてきた。
「どうしてそんなに遠いの?」
「……必要なことなので」
俺の言葉に、赫夜は目を丸くして不思議そうに肩を竦める。
そして何故か、ベッドから立ち上がり俺の前まで歩いてきて、すっと左隣に座り直した。
横から俺の顔を覗き込むように、上目遣いでじっと見つめてくる。
そんなことをされると俺の体温のほうが先に上がってしまう。
「……どうしてそんな近くに?」
「暖かくしてくれるんじゃないの? 必要なことでしょう」
言いながら、俺に寄りかかるようにしてぴたりと肩を密着させてきた。
何を考えてるのか全くわからないけれど、その言葉と仕草は可愛すぎて困る。
ゆるく弧を描く唇に、どうしても目が行ってしまう。
それは駄目だと湧き上がる欲望をすぐさま払いのけるが、赫夜のくれた大義名分が心の底をくすぐってくる。
暖めるためならば……触れてもいいのではないかと。
手くらいは許される気がしてしまって、床に置かれた小さな白い右手の上から包むように自分の左手を重ねた。
密着した部分に熱が集まっていく気がして、そわそわと落ち着かなくしていると、赫夜が長い睫毛を伏せ気味に話し出す。
「良いご母堂だよね、ご尊父もだし、素敵な家族が居て朝来は幸せだね」
「ありがとう、喜ぶと思う」
自分の親が褒められるというのはちょっと照れくさいけれど、両親と話したことが悪い印象でなかったことは純粋に嬉しい。
「どちらからも息子をよろしくと言われてしまったし、任されたからには私も気を引き締めないとね」
「それは多分ちょっと意味合いが……」
親は何故こうも余計なことを言ってしまうんだろう。
別の恥ずかしさが加わって、さらに体温が上がった気がして目を閉じた。




