30話 男子高校生は月のお姫様のちょっといけない夢を見る
赫夜が、俺に向けて柔らかく微笑んでいる。
一面に広がる白い世界に、柔らかな金の髪と左耳の赤い耳飾りの房とが、絡み合って散っていた。
「……赫夜」
名前を呼ぶと、長い睫毛に縁取られた蜜色の瞳が、俺の顔を映しながら蠱惑的に細められていく。
見下ろすような自分に向けてゆっくりと赫夜の白い指が伸びてきて、両頬を優しく包み込んだ。
「いい子だから……じっとしていて」
吐息混じりの甘やかな声に、顔が熱を持って鼓動が早くなっていく。
段々と近づいてくる桜色をした小さな唇に目が奪われる。
もう一度、名前を呼ぼうとした声は音にならない。
赫夜の柔らかそうな唇が、自分の唇と重なった気がした。
顔を離した赫夜は頬に添えていた手で俺の左手を取り、指先でなぞるように小指の付け根を優しく撫でる。
そのまま両手で持ち上げて自身の身体の上に導くと、歌うように囁いた。
「ねぇ、私はお前のものだよ」
赫夜の言葉に、息を呑む。
心臓が一際大きな音を立てて跳ね、その衝撃に弾かれるように身体を引く。
瞬間、天地が逆になったような錯覚に襲われた。
驚きに大きく目を見開いて、現実を見極めるために何度となくまばたきをする。
目の前にあるのは、白いシーツの海に横たわるきれいな少女の姿ではなく、薄暗い中ほのかに陽光の差す自室の天井で。
息が詰まった苦しさで、荒い呼吸を繰り返しながら上半身を起こした。
掛け布団を握りしめる指に、手が震えるほどの力が入る。
心臓はまだ、うるさいくらいに鳴っていた。
夢……だった。
あまりにも扇情的な夢に、自分が信じられなくて呆然とまたベッドの上に倒れ込む。
赫夜が優しく俺にキスをしてくれて。
それから手を……手を取って……
昨日は事故とは言え、あんな風に乱暴に身体に触って。さらには夢でもこんな。
昨日の事故の刺激が俺には強すぎたのかもしれないけれど、それにしたって夢の内容は言い訳のしようもない。
俺は最低だ。
申し訳無いと、困惑と罪悪感で心が埋め尽くされているのに、熱を持って緩む頬を止められなくて口元を両手で強く抑えることしかできなかった。
昼休みに入った教室を足早に抜け出し、三階にある図書室へと入った。
室内にはまだ他の生徒の姿はない。
図書室に好んで来るような友人はいないが、一人になって考えたかったので、見知らぬ他の生徒すらもこの場にいないことがありがたかった。
一番奥にある窓の横に椅子を運んで腰掛けて、銀色のサッシに額を付けるようにもたれ掛かりながら中庭を行き交う生徒達の姿を眺める。
女子生徒の歩くたびに揺れるスカートと、そこから覗く脚を一瞥して目を伏せた。
俺は自分のことをずっと、どちらかと言えば淡白な性質なのだと思っていた。
クラスメイト達のする、学内の女子を見る色めいた視線とか、SNSや動画サイトで見掛ける子で誰が可愛いって話とか、彼女が欲しいって叫びとか。
誰と誰が付き合ってて、交際がどの段階まで進んでいるかの噂話とか、そういうのを見聞きする度に内心呆れがあった。
水着とか肌の露出が多い写真を見れば、普通にエッチだなとは思ってたし、可愛いと友達が囃し立てる子を見れば、確かに可愛いなとも思った。
世間一般の認識とズレていると思ったことはない。
でもそれは、あくまで『そういうもの』という認識でしかなかった。
これまで生きてきて彼女が欲しかったことがないし、女の子と話すよりは男友達と話すほうがよほど楽しい。
エッチな動画も見たことは普通にあるけれど、あまり良いものには感じられなくて。
そういうの無くても良いなって、自分は女の子や恋愛といったものに興味が無いんだって思っていた。
誤解だった。……普通に、興味あるらしい。
あんな夢を見た後では、俺の自分に対する認識が間違っていたと素直に認めるしかない。
夢を見ただけならまだしも、赫夜に申し訳ないとか言いながら、午前中だけで何度思い出したことだろう。
それだけでは飽き足らずに、正直、続きが見たいとまで思ってる……
俺は最低だ。どうしたらいいんだろう。
窓ガラスに反射した自分の顔が赤くなっていて、額をサッシに数回打ち付ける。
ここは高い本棚の合間で誰にも見られているわけがないのに、自分の視線からも隠したくて腕で顔を半分覆った。
子供の頃からずっと夢で見てきて、赫夜のことはきれいだと思っていた。
憧れていたのは間違いない。
それでも、これまで夢で見ていた赫夜のことだって、全然そういう対象だと思っていなかったのに。
憧れの『夢の中のきれいな少女』、そういうものでしかなかったのに。
実際目の前に彼女が現れてからは、どうしても強く意識してしまっていたのを認めるしかない。
実際の赫夜は夢で見たよりも可愛くて、何気ない表情や仕草の一つ一つに目を奪われてしまう。
夢では聞くことのなかった甘く澄んだ声も耳に心地がいい。
あの声で名前を呼ばれると、その度にドキリとする。
自分より少し体温の低い、細い指。
猫の毛みたいに柔らかな月と同じ淡い金の髪。優しい蜜色をした瞳。
甘い匂いのする薄い身体。控えめだけど柔らかい……
駄目だ、やめよう。この話を考えるのやめよう。
またろくでもない方に意識が向いてしまう。
両手で自分の頭を抱えるようにして髪を梳く。
カラカラと図書室の扉が開き、他の生徒が入ってきた音が聞こえてきた。
次に会う時、どんな顔をして会えばいいんだろうか。
この調子では、まともに顔を見られる気がしなくて不安だ。
俺は赫夜が好きなんだろう……とは、思う。
顔を見たり、話ができると嬉しい。側にいるとドキドキする。
でも、赫夜のことを考えると、どうしても触れたいという気持ちが強く出てしまう。
これを恋と括るには、あまりにも欲が強すぎるように思えた。




