28話 月のお姫様とちょっとあやしい身体検査
自分より体温の低い指先が胸元をなぞっていく。探るような動きが少しくすぐったい。
確かに赫夜が言ったように、されていることは医者の触診に似た感じがする。
俺は目を閉じて、掛かり付けのお爺ちゃん先生を思い浮かべることで、何とかギリギリのところで平静を保っていた。
でも無理かもしれない。
先生はこんなに甘い匂いはしない。
「赫夜、もう良いかな……?」
「ついさっき始めたばかりなんだけど?」
激しく鳴り響く心臓の音と混じって、困り果てたような赫夜の声が耳に届いた。
数秒すら長く感じる。このままじっとしていられる気がしない。
目を閉じている分、他の感覚が鋭敏になっているのだろうか。
たまに肌に触れる髪の毛らしき柔らかな感触や息づかいに、どうしても意識が引き摺られてしまう。
これが瞑想ってやつだろうか?
なんとなく修行している気持ちにはなっていた。
「別段おかしな部分はないね……どういうことなんだろう」
赫夜はうーんと唸りながら、納得行かない様子で呟いている。
「なんかまずい?」
「昨日の戦いで、お前の様子がおかしかった。だから、体に影響が出ていないか気になってね」
「俺は戦ったことなんか無いのに、途中から体が戦いを覚えてるみたいに動いて。やっぱり前世が、鞘守が影響してるのかな?」
自分とは思えない滑らかな動きを思い出して尋ねてみる。
「その件については、そうだろうね。推測の域を出ないけど、昨日のお前の戦いぶりは鞘守とそっくりだった」
「そう、なんだな……」
「別に意識が取って代わったわけでもないんでしょう? 戦い方を多少なり覚えているというのは今後を考えても悪いことじゃないよ」
赫夜は顔を上げて、俺の頭を撫でた。
優しく髪を梳く指先が心地いい。
「確かに」
未知の感覚は少し怖くもあったが、言われてみれば得だ。
俺が納得して笑うと、赫夜はわしわしと頭を撫でる手を少し強めた。
「でも、あの力を使うのはもうやめなさい」
赫夜が深刻な声で言う。
「あの、力……?」
「覚えているかはわからないけど、お前は昨日の戦いの最後に、蟲を一匹を元素に還した。」
赫夜の話が、あの白い砂になった蜂についてだとわかって心臓が跳ねる。
「元素? 還すって何?」
「それについてはまた今度。とにかく、使おうとは考えないように」
赫夜は俺の目の前に人差し指を突き出して、ぴしゃりと言い放つ。
オカルト講座はしてくれないらしい。
多分言っても俺がわからないからだろうけど。
「あれも鞘守の使ってた術とかじゃないのか? 素人は真似するなってこと?」
体術と霊能力が絡む術は扱いが違うのかもしれないが、気になってしまう。
術は、使えたら特。とはならないんだろうか。
「違うよ。あれは違う」
赫夜は体を屈めて、俺と目を合わせて静かに答える。
「あれは人の言う霊能力というものではないし、魔法などに該当する術式でもない。もっと根源的な力だ。鞘守には使えない。いや、鞘守だけではない、そも人が使えるものではないはずなんだよ」
「え……?」
驚きで自分の口が薄く開くのを感じた。
「人に使えない力って……そんなものが使えるなら、俺って何なんだ?」
「お前は人間に違いないよ。それは私が保証する。だからね、お前が自在に力を使えたとしても、人の身で行使するならば必ずどこかに負荷がかかる。使うべきではないんだよ」
良い? と、赫夜は心配そうに眉を下げて念を押す。
「そっか……わかった」
「昨日は前半の動きだって悪くなかった、得物を傘から変えれば十二分に戦えるよ」
赫夜は、もう一度俺の頭を軽く撫でる。
宥めるような手付きに、自分でも掴みきれない感覚と不安を上手く伝えられそうになくて口を噤んだ。
+++
年に数回も会わないお爺ちゃん先生の顔を思い浮かべる修行を始めてから体感十五分、ようやく赫夜の指先が身体から離れていく。
甘やかな地獄がようやく終わった。
一瞬で緊張が解けて、どっと疲労感が押し寄せてくる。
水中で長く息を止めてから陸に上がった時のように、胸を抑えて何度も呼吸を繰り返した。
「もう、良いかな……?」
丸めて置いた上着を手繰り寄せながら確かめる。
「もう少しかな」
まだあるのか。どうやらまだ俺の修行は続くらしい。
赫夜は身体に力が入り切らず俯きがちになっている俺の脚の横で、膝立ちをして顔を覗き込んできた。
ぱちぱちと、照明の光が入り込んできれいに輝く蜜色の瞳をまたたかせながら、真剣な面持ちで紡ぐ。
「次、下脱いで」
……何を言ってるんだこの人。
頭が思考を放棄して、自分の背後に宇宙空間が広がった気がした。
「何言ってんの赫夜……」
理解できなさすぎて、心の声がそのまま口から出てしまった。
「下も見ないと確認にならないし、怪我したのも腿じゃない。早く脱いでよ」
困り半分呆れ半分といった様子で眉尻を下げた。
俺の膝に両手をつくようにして身体を前に乗り出すように傾けている姿はとても可愛い。
ねぇ、とねだるように言う赫夜には掻き立てられるものがある。
でも、それは駄目だ。色んな意味で駄目だろう。
「そんなの、できるわけ無いじゃないか!」
「さっきは同意したのにまた駄目なの? こんな短時間の言動に一貫性がないのはどうかと思う」
窘めるような言葉は正論にも聞こえるが、駄目なものは駄目だ。
上着とスボンとでは男からすれば心理的に大きな差がある。
「ほら、赫夜は女の子だし、異性に身体を見られるのはやっぱりちょっと……恥ずかしいと言うか」
赫夜だって、素直に話せばそれくらいはわかってくれるはずだ。
見られると困るのだ。なんでなんて聞くな。
「別に身体を見られるくらいどうでも良くない? 別に裸になれとまでは言ってないのに」
「全然、まったく良くない!」
柔らかく言っても全く伝わっていない。
いや、伝わりはしているが理解はしてくれないらしい。
「あのねぇ……社会的に必要な感覚だとはわかるけど、お前だって異性の医師に掛かることくらいあるでしょう」
……駄目だ、感覚が違う。
頭を抱えてベッドの上を転げ回りたい。
この手応えの無さから赫夜が引いてくれることってあるんだろうか。
赫夜はむすっと不満を表すようにして、白く滑らかそうな頬を膨らませている。
つついてみたい愛らしさがあるが、それどころではない。
「慎みがあるのは結構だけど、お前は少し恥じらいが強すぎるよ」
赫夜にはもうちょっとあっても良いと思うんだ。
「私達は契約関係にあるんだし、もう他人じゃないんだよ」
俺の隣に座り直した赫夜は、俺の腿に手を置いて距離を縮めると、じっと俺の目を見つめてきた。
だから何も問題ないと、真摯な声で訴えてくる。
何がどう問題ないと言いたいのかは不明だ。
適当に丸め込もうとしているだけの気がする。
ただ、「他人じゃない」と言った赫夜の表情や声色だけは、心なしか嬉しそうだったと感じてしまった……のは俺の願望なんだろうな。
扇情的なシチュエーションに、全く情緒のない現実が混ざりあって俺の頭はおかしくなりかけているらしい。
俺はもう駄目だ
諦観は声にならず口内で溶けた。
「調べるだけでこんなに時間を取ってどうするの」
項垂れながらも、決してわかったとは言わない俺に赫夜はついに焦れたようだ。
自分の一挙手一投足でこっちが色んな思いを巡らせているというのに、微塵も配慮などする気がないと暴挙に出た。
「ほら、自分で脱げないなら手伝うよ」
ズボンの腰周りに指先を差し入れて、わし掴むようにして布地を手前下へと引っ張る。
「待って赫夜、それは駄目だって!」
誇張ではなく血の気が引いて、慌てて手を掴んで止める。
昨日の戦いで一枚駄目にしたせいで、今日のズボンは新しく下ろしたばかりで着るには柔軟性に難のある厚手の物だった。
夕方着た時には膝も曲げにくく失敗したかと思ったが、むしろそれが幸いだったようだ。
座っている状態だからというのもあるが、赫夜が布地を引いても、ごわつきと引っかかりの多い布地は言うことを聞かないらしい。
「朝来はどうしてそう、非協力的なんだろう……」
真面目な嘆きのようだけど、恨みがましいと感じなくもない。
スボンの堅牢な布地の頼もしさに安堵している俺を、赫夜は悲しげに眉を下げながら見据えている。
「ほら、脱げないから、無理だから諦めよう」
「下着まで取ろうなんて思ってないのに、どうして子供みたいな我が儘いうの」
「子供じゃないから駄目なんだって……!」
ズレた使命感でズボンの端に手を掛けている赫夜の手と、その俺にとっての魔手を阻もうと奮闘する俺。
ズボンを巡る言い合いばかりが激しさを増していく。
一体何なんだこれは。
考えると目眩で倒れそうなので、冷静になったほうが負けなのだ。
「赫夜! もう本当に駄目だって言ってるだろ!」
「ちょっと朝来……!」
赫夜の手首を掴んで強引に引き剥がす。
強い抵抗を想定して込めた力は、思ったより赫夜の腕力が弱いのかズボンから手があっさりと離れたことにより大振りすることとなった。
勢いよく腕を上に持ち上げられた形になった赫夜は、バランスを崩して後ろ向きに倒れ込む。
「……ぁ!」
「うわ!!」
当然、手首を拘束していた俺も引っ張られて倒れた。
座っていたベッドの縁から床に落ちる格好になったので、ドタンガタンと随分大きな音が立った。
よろめいた感覚にとっさに目を閉じていた。
膝を強く打ち付けたが、身体の大部分ではぐにゃりとした弾力というか、独特の柔らかさに受け止められる。
「痛って……」
膝の痺れに意識が取られて身体を引き摺るように動かすと、下から苦しげな声が漏れてくる。
「朝来……お前ね………」
非難の声にそっと目を開いてみれば、眼前には白いニットの目地が細やかに映る。
そのなだらかで控えめな傾斜の頂点らしき場所に顔を載せていた。
薄い柔らかさの奥から響く、小さく規則的な鼓動を頬で感じる。
ニットの繊維が鼻先をくすぐり、先ほども嗅いだ覚えのある甘い匂いがした。
「赫夜……え?」
こんなこと現実に起きるものなのか?
状況を受け止めきれずに呆然と呟く。
けれど事実として、俺は赫夜の身体を押し潰すように被さっているのだ。
慌てて両膝を立てて四つん這いになり下に隙間を作った。
上から見下ろすような格好で、人一人分の重しから解放された赫夜の様子を窺う。
両手を拘束されていたせいで受け身も取れずに床へ背中を打ち付けられた上に、これまで俺に押し潰されていた赫夜は、片瞳だけ薄く開きながら痛みを堪えるように荒い息を吐いている。
その息遣いは痛々しいのにどこか艶めかしく聞こえてしまう。
この状況って……今更ながら、ものすごくアレなのではないだろうか。
「重いよ朝来、手を離しなさい」
息が整いきらない赫夜が吐息混じりに苦情を言う。
衝撃に固まっていると、困ったような呆れたような目でじとりと睨み、じたばたと強く身を捩った。
「ごめん!!」
謝罪とともに慌てて飛び退いたつもりだったが、強く打ち付けた膝はまだ痺れていて、力が入らず動かない。
近付いた顔を直視できなくて、視線を下へ逃す。
ただ、そんなささやかな逃避にも意味はなく。
赫夜のワンピースの裾は身を捩るたびに少しずつ引っ張られるように捲れ上がり、太腿の付け根近くまでそのシルエットが露わになっていた。
下着が見えないのは、俺の角度と黒に近い濃い色のタイツのおかげだろう。
それでも、これ以上動かれてしまうと絶対に見える。
それは絶対に駄目だ。
「ごめん、ちょっと待って、赫夜大人しくして……!」
このままでは視覚的に大変問題があるので一旦落ち着いてほしい。
ガチャリと鈍い金属音がして、前触れも無く自室の扉が開かれる。
混乱で殆ど真っ白だった頭の中に、やけに大きく響いた気がした。
「朝来、竜くんが来てるの? ゲームで盛り上がるのはいいけど飛び跳ねたら下に響くから、夜勤明けのお母さんのことも考えて頂戴!」
それは、俗に言う、親フラというやつだった。
うちの母親は怒りに任せて怒鳴り込んでくるというわけではなく、あくまでも軽く様子を確認して一言注意していく程度だ。
日頃やましいこともないし、「はい」と言っておけば良かったので、これまではノックの有無すら気にしたことがなかった。
が、この状況は、見られただけでおしまいなのだった。
息子によって床に組み敷かれている、下着が見えそうなほど着衣の乱れた女の子。
誤解しかないのに言い訳の余地が無い、本当の地獄がそこに形成されていた。
「朝来、ちょっと痛いよ。いいかげん離して」
焦りと動揺できつく握ってしまった手首の痛みを訴える赫夜の声で我に返った。
それは、扉の前で固まっていた母さんも同じだったようだ。
「朝来……ちょっと退いてなさい」
「……はい」
沈黙を破ったのは、案の定母さんの方が先だった。
いつもよりも低く、冷え冷えとした声で命令を下す。
俺を上から退かすと、赫夜を抱き起こして乱れた服や髪を整えながら、頭を打ったかと聞いたり、痛みを訴えていた手首の手当てをしようと看護師らしく救急箱を持ち出したりしてバタバタとしていた。
一段落すると、今度は赫夜を家まで送ると言い出して肩を抱いて連れて行ってしまった。
赫夜は展開に付いてこれていないようで、終始困惑に瞳を丸くして俺を見ていた。
俺はそれを暗澹たる気持ちで見送った。
その後、俺は母さんから男女交際と性教育について小一時間の小言を貰った。
愚かな俺は、赫夜は彼女ではないと事実を口から滑らせて、可愛い子だからって既成事実から入ろうとするなと更に長い説教を聞く羽目になった。
どうしてだろう。
襲われてたのは俺の方だと思うのに。




