25話 男子高校生は戦いの夜を終えて
暗い沼の底にあった意識が、強く手を引かれるようにして表層に引っ張り上げられる。
朝の起床用に設定してあるスマホのアラームが、くぐもった音として聞こえてきた。
頭の横からするはずの音が、今日は自分の腰のあたりから響いている。
薄く目を開くと電気の点いていない自室の天井に、カーテンの隙間から入った陽光が線を引いていて僅かに明るい。
俺の部屋?
朝……? 今は夜じゃなかったっけ?
繋がらない記憶の違和感に飛び起きた。
ばさりと掛け布団がベッドからずり落ちた音につられて視線を落とす。
俺の服装は寝る時に着ている部屋着ではなく、昨日の夜に家を出た時と同じ、外出用のコートを羽織ったままだった。
一体何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
一先ず、コートのポケットからスマホを取り出して喧しいアラームを止める。
スマホの表示が正しいならば、月曜日の朝七時になっていた。
両手で掴んだスマホの画面を呆然としたまま眺めていると、部屋の扉をノックする音が聞こえてきて肩がびくりと上がった。
「朝来、起きてるのかな?」
「……あれ、父さん? 何?」
俺はベッドから降りて、コートだけ脱いでベッドの上に放り投げてから扉を開けた。
「体調は大丈夫? 気持ちが悪いとか、頭が痛いとかは無いかい?」
部屋を訪れた父さんは開口一番に俺の体調を窺ってきた。
こんなに体調を心配されたのは数年ぶりだろうか。
普段全く俺の部屋に来ることなどない父さんがわざわざ朝の時間に、というのも違和感で怪訝な顔をしてしまう。
「大丈夫だけど、どうかした? 今日って仕事は?」
「今日は午後から。朝来は大丈夫ならいいけど、お酒には気をつけてね。今回は事故みたいだからしょうがないけど、弱いみたいだし」
さっぱり話が見えない。お酒って何の話だ?
疑問が顔に出て伝わったらしく、父さんは細い目を縦に広げて数回頷いた。
「昨日の夜、金髪の女の子が寝てる朝来のこと連れて帰ってきて、食事処で間違ってお酒を注文して飲んでしまったみたいだと言ってたよ」
「え?!」
「少量だったらしいし、寝てるだけみたいだから未成年だし家にって」
俺の認識では、蟲との戦いの最中に倒れたのか記憶が途切れている。
お酒の下りが言い訳なのは何となくわかったけれど、頭は混乱しっぱなしだ。
赫夜が俺を家に連れて帰ってきた?
「そ、そうだったんだ……」
「いやー、でもびっくりしたよ。仕事のメールでは英文よく使うけど、喋るのはそこまで得意じゃないからどうしようかと焦っちゃった。彼女が日本語上手で良かった」
父さんは頭を掻きながら朗らかに声を上げて笑った。
「ああ、うん。そうだね……日本語で大丈夫だよ」
悪いことはしていないのに変な汗が止まらず、肩を小さく丸めてしまう。
赫夜、俺の親と何喋ったんだろう……
「彼女、すごく心配してたよ。今日の夜にもまた様子を見に来るって言ってたけど、その前に連絡してあげるんだよ」
「今日家に来る?!」
驚いて、思わずスマホを確認しようとズボンのポケットを叩いたが、コートと一緒にベッドの上だと思い出した。
父さんは俺の動揺を見て小さく笑う。
「寝てると思って連絡入れてないのかな。今日誘ったのは自分だからって、責任感じてるみたいだったよ」
「別に赫夜のせいじゃないのに……」
最初から三匹相手というのは確かにきつかったけど、俺の準備不足とかが主な原因のような気がしていた。
「まぁ、そこはね。ちゃんと後で話し合えばいいんじゃないかな」
俺の呟きをどう捉えたのか、父さんは俺の肩を励ますように優しく叩く。
「学校に行くなら、シャワーくらい浴びたほうが良いだろうね」
そう言い残して、父さんは部屋を後にして階段を降りていく。
残された俺も、起きた以上は学校に行かないというわけにもいかない。
着替えを掴んで風呂場へと急いだ。
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完全に乾ききらなかった髪を諦めたおかげで、なんとか一限目の先生より先に教室へと滑り込むことができた。
数名のクラスメイトが息を切らせている俺の様子をちらりと肩越しに振り返ったが、一番後ろの席なので大っぴらに見られることはなかった。
教科書を朗々と読み上げる先生の声が室内に響いている。
授業を聞き、ノートにシャーペンを走らせつつも、頭の中では昨日のことを考えてしまっていた。
昨日の夜、俺の身に起きたことを時系列にして頭で描く。
三匹の蟲と対峙した時、蜂の攻撃を避けきれずに左太腿を怪我した。
そこから段々と意識が朦朧としていったのは覚えているが、感じていたより深い傷だったせいなのか、毒があったせいかはわからない。
シャワーの時に確認したが、解れたズボンの下、怪我をしたはずの場所にはもう傷跡が無かった。
恐らくは赫夜が治療してくれたんだろう。
問題はそこからだ。
どうしてあんなにも滑らかに体が動いたのかわからない。
意識して動かしたわけじゃない。これが当たり前で、効率がいいと、身体が勝手に動いていた。
まるで自転車に数年ぶりに乗ったような、身体が戦いを覚えているような感覚だった。
けれど、それ以上におかしいと感じたのは、あの時の温く重たい空気だ。
全身に纏わりついてくる、息ができないほどの圧迫感。
あれは怪我のせいなんかじゃなかったはずだ。
何より、意識を完全に失う前に見た、砂のように崩れゆく蜂の姿。
俺がやったのか?
でも、どうやって?
わけがわからないことだらけだ。
指先に力が入ってシャーペンの芯がポキリと折れてしまい、気持ちを落ち着けようと目を閉じた。




