23話 月のお姫様と健康に良い食後の運動
高級焼肉店の入ったビルから路地に出ると、周辺はますます夜といった印象を深めていた。
通りを歩く人々も年齢層が少し上がり、華やかな装いが目立つようになってきている。
「それじゃあ、行こうか」
赫夜は真っ白なコートをなびかせて、くるりとその場で一回転しながら背後の俺を振り返った。
「行くって何処に?」
「食事をたくさん食べた後は、身体を動かさないとね」
眩しいほどの笑顔を浮かべる赫夜の言わんとすることを察して、逃げ出したい気持ちに駆られる。
「すぐに動くのも……身体に悪いんじゃないかなぁ」
「少しくらい大丈夫だよ。お前がどれくらい戦えるのか見ておかないとね」
二人で出かけて、楽しくご飯を食べるだけなんて美味しい話で終わるはずがないのだと、肩を落としながらも自分に言い聞かせた。
「赫夜、今って蟲退治に向かってるって認識で良いんだよな……?」
来たときと同じように、俺の手を引いて前を歩く赫夜に問いかける。
きつく握られた手に先ほどまでとは違う胸の高鳴りを感じている。
連行されている宇宙人にでもなった気分だ。
「そうだね。信号をもう一つ越えた先の道を左に曲がるよ。向こうから気配がする」
「結構遠くない? 全然わかんないんだけど」
「感度は鍛えないと伸びないだろうね。まぁ、もう少し寄れば気付けるんじゃないかな」
次第に人気のなくなっていく道をきょろきょろと見回す俺とは対照的に、赫夜はまっすぐ前だけを見て進んでいく。
「アレとまた戦うのか……俺ちゃんとやれるかな」
「数も大して居ないから、そう気負わなくても平気だよ」
俺の声から不安を感じ取ったのか、赫夜は繋いだ手をきゅっと小さく握り直した。
「この奥だね」
赫夜がビルの立ち並ぶ一角にある路地の前で足を止めた。
両脇に立つビルはどちらも五階以上の高さがあるが、外から見るに明かりの付いている階はない。
壁面にも看板などないので、おそらくオフィス系のビルなのだろう。
眼前の静かな薄暗がりが、否応なしに緊張感を高める。
俺が気配を感じられる距離ではないようだが、あからさまにヤバい臭いしかしない。
「これ本当に行く……?」
「何のために来たと思うの?」
ご尤もな疑問で返されて、ぐうの音も出ない。
「じゃあ、ちょっと戦う前に質問してもいいかな?」
「後じゃ駄目なの?」
「できれば今聞いておきたい」
心の準備というものは大事なので、確認はしておくことに決めていた。
決して無意味な遅延行為などではない。
「なぁに? 私の知ってる範囲でなら何でも答えるけど」
「蟲のこと。攻略のヒントじゃないけど、わかることだけでも先に知っておきたいと思って」
「生態とかそういう話?」
赫夜は握った手はそのままに、もう片方を顎に添えながら俺を見上げてくる。
「俺もさ、先週の赫夜の話を聞いてから事件についてニュースとか見てたんだけど、化け物の話ってやっぱ出てくるわけなくて」
教えて欲しいと苦笑いしつつ尋ねると、赫夜はこくこくと了承を頷きで表した。
「私もそう大してわかっているわけじゃないんだけど」
前置きをしてから、赫夜は蟲と呼ぶ異形の生き物の特徴を語ってくれた。
曰く、蟲は路地裏のように暗く湿った場所によく潜んでいて、複数体の群れで行動しているのだそうだ。
個々の戦闘能力も知能も低いが、気配に敏感なようで逃げ足が早いらしい。
事件を起こしているように人の肉を特に好むが、時々ゴミ漁りをしている姿を確認していることから雑食なのだろう。ということだった。
「――って感じだよ。少しくらいは参考になりそう?」
「なんとなく。そこまで強いわけでは無さそうかも、とは思ったけど」
ただ、複数いるということと、戦闘能力が低いとは言うものの基準がわからないことから完全には安心はできない。
『得意技は噛みつきです』とか、『当たると一発で体力が3ポイント削れます』とか。
やっぱり目に見える数値化はされないものだなと、実感のわかない現実の戦いを前に、ぼんやりと考えていた。
「ついでに聞くと、事件の方ってどうなってるの? あれから何かわかったりしてる?」
赫夜の中で多少の目星はついているのだろうか。
一応は中間目標なので、今のところ俺は何もしていないが進捗は気になるところだ。
「あれらの事件は、動きが大胆すぎて目的がよくわからないんだ。毎晩追いかけてはいるけれど、近寄ると大抵すぐに逃げてしまうし、街中で派手に追い回すわけにもいかないから……」
赫夜は曲げた指の関節で顎のラインをなぞるようにしながら瞳を細めている。
調査の方はだいぶ難航しているらしく、声からは困惑と疲労が伺えた。
毎晩追いかけて収穫がほぼ無いようでは堪えるだろう。
「そっか、何か俺にもできる事とかあれば教えて」
「今のところは特に無いけど……しいて挙げるなら散歩、かな」
「散歩?」
少しだけ考えるように目を伏せた赫夜の口から出た提案は、のんびりとした響きに反してすごく嫌な予感がした。
「人気のないところを歩いてみたら、お前相手なら油断して向こうから湧いて出てくるかもしれない」
「……それってもしかして囮って言わない?」
嫌な予感は当たるというか、すぐに当人によって回収されていった。
聞き捨てならない不穏な物言いにツッコミを入れずにはいられない。
「お前が自分自身で対処できるなら、囮とは言わないんじゃない?」
赫夜は俺をからかうように上目遣いをして小さく笑う。
ただ、その目は微妙に笑っていなかった。
「いつの話になるんだろうね……」
「それはお前次第。一人で対処できるようになったらって話だよ。私も手伝ってくれるのは助かるからね。早めに形になってくれたら嬉しいよ」
じーっと俺を見据える視線に少しばかり圧を感じて、逃れるように目を少し上に向けた。
「もし今日戦ってみて、俺がめちゃくちゃ弱かったらどうするの?」
「大丈夫、四肢がもげたくらいなら治療してあげるから」
「一緒に居るんだから、もげる前に助けてくれても良いんじゃないかな?」
「少しくらい頑張らないと成長しないよ?」
手足がもげるのは少しじゃない。
最終的に治るなら良いか。なんて、なるわけがないだろう。
この調子だと一人で戦えるようになるよりも墓の下へ行くほうが早いかもしれない。
良くて手足が新品に生え変わってるんじゃないだろうか。
明るくない未来しか描けず、肉の詰まった胃がより重たく感じた。
「赫夜って結構ひどい」
ぼやきを口にすると、赫夜は繋いでいた手を離して俺の前髪の少し上をそっと撫でた。
「よしよし、いい子だから頑張ろうね」
「いい子って……俺のこと犬かなんかだと思ってない?」
赫夜の手付きは、子供を通り越して犬にするようだ。
一度そう感じてしまうと、言っている内容もそれらしく聞こえてきて少し傷つく。
「可愛いなぁとは思ってるよ」
手を止めず、肯定も否定もせず、少しずれた返答をする。
可愛いというのも嬉しくはないし、優しい指先と甘い声に丸め込まれそうなのも悔しい。
「…………可愛くありません」
ごまかされないと言う意思表示として、手が届かないように首を斜め上に伸ばす。
「もっと拗ねちゃった」
赫夜は俺の頭を撫でるかわりに人差し指で頬をちょんと突いてくる。
その手を避けるように、さらに少しだけ仰け反った。
「こら、つっつかない」
「だって避けるんだもの。優しくしてほしいんじゃないの?」
「仕方が雑だっただろさっきのは」
「……じゃあ抱っこでもする? おいで?」
ほら、と真顔で両腕を広げてみせる。
雑さ加減が上がっているのはどういうことなのか。
これも駄目なのかと赫夜は眉根を寄せているが、そこに躊躇なく飛び込めるのはやっぱり子供か犬だけだろう。
「し、ま、せ、ん」
呆れを強く声に込めて、はっきりと文字を区切って丁重にお断りした。
「えー、朝来は難しい……」
両腕を力なく下ろしながら、先ほどとは逆に赫夜がぼやいた。




