19話 からかい好きの幼馴染と忠犬男子高校生
風呂に入ってから一時間、未だにのぼせた頭のまま天井を仰いでいる。
思考がはっきりしないのは、一週間の疲れや眠気のせいだけじゃないと自分でも多少は理解しているつもりだ。
どうしても緩んでしまう口元を誰に見られずとも隠しておきたくて、両の手首を交差させるようにして押し潰した。
約束を確認してすぐ、今日は夕飯当番だからと赫夜は帰っていった。
久々に会えたばかりだったので、もう少し話ができれば良かったのにと惜しむ気持が湧いたが、勝手な考えだとすぐに反省した。
予定の合間を縫ってきてくれただけでも十分だろう。
明日また会えるんだし。
明日。
明日か……
俺の鼓膜には「また明日」と笑顔で告げられた赫夜の別れの挨拶が未だ残響している。
何度も、何度も、繰り返し明日という単語を噛みしめていた。
明日のこと、赫夜のことを考えていたら、また契約の痕からその事が伝わってしまいそうで恥ずかしい。
今日も眠れなくなってしまうのは困るので強制的に気持ちを切り替えようと、口元から腕を剥がして枕元に放っていたスマホを引き寄せる。
ここ一週間、赫夜の言っていた例の蟲と関連しそうな事件。路地裏での連続暴行事件について少しだけ調べていた。
俺の居住区を含む都心部でここ数ヶ月の間に連続して起きている暴行事件。
路地裏のような薄暗く人気のない場所で発見された被害者達には、身体の一部を何かに囓られたような形跡があった。
被害者の証言には、虫や子供の幻覚を見たというような非現実的で不可解なものが多いことから、新種薬物を使用した犯罪グループの犯行の可能性が考えられているようだ。
ニュースサイトの新着一覧をスクロールしていると、連続暴行事件と書かれた見出しが目に入る。
昨晩も事件があったらしい。
記事を読んでみるが、蟲やら怪異についての話は当然一文字も出てこないし、これと言って目新しい情報もなかった。
一週間暇な時間を使って懸命に調べてみても一般人かつ高校生の俺にわかることは現状その程度だ、ということくらいしかわかっていない。
「赫夜から聞くしかないよな、やっぱり」
蟲を追っていると言っていたし、昨日の現場にも行ったのだろうか。
赫夜があの蟲と戦っている姿というのはあまり想像がつかない。
やはり人間じゃないだけあって魔法みたいなものを使ったりするのか、それともああ見えて自分の腕で殴りに行くのだろうか。
いやでも、スカートわりと短かったしな……?
赫夜の戦闘スタイルについての妄想を膨らませていると、若干内容にやましさを孕んできたところで、耳慣れた音楽とともに通話アプリの着信通知が入った。
後ろめたさから必要以上に驚いてしまい背筋が伸びる。
慌てて取り落としそうになりながら画面の表示を確認すると、相手は夕鶴だった。
夕鶴には、風呂に入る前にメッセで赫夜への連絡の件について『ありがとう』と入れておいたので、大方その話だろう。
出たら当然のように揶揄われるんだろうなと通話ボタンを押すのを迷ったが、流石に出ないわけにもいかない。
「ようやく赫夜と連絡先交換できたんだって? 良かったじゃん!」
賑やかすぎる声が通話口から聞こえてわずかに耳を離す。
やっぱり開口一番それかと言いかけたが、赫夜へ連絡をつけてくれたことへの感謝を送ったばかりなので甘んじて唾ごと飲みこんだ。
「……気を回してくれてありがとう。連絡ついて安心した」
気恥ずかしさはあるけれど、あらためて口に出して礼を伝えておく。
夕鶴はどういたしましてと言いながら、カラカラと音が鳴るように笑った。
「あんた、あたしに聞いてくるとか、仲介してくれとかなーんも言わないんだもん」
「……流石にそれは失礼だなと」
多少はその案も考えたけれど、自分で言えとも言われたし。
上体を起こして、ベッドのすぐ横にある壁に背をつける格好で座り直す。
通話口と逆の頬を掻きながら答えると、また大きく笑う声が聞こえてきた。
「やー、赫夜が先週帰宅してから『朝来は平日だと忙しいかな』って聞くから、次また会いに行くなら週末で良いんじゃん? って言っちゃったんだよね!」
「はあ?!」
通話の向こうでは舌を出しながら言ってそうだと感じるくらいの軽い口調で、とんでもない事実を知らせてきた。
週末まで赫夜は動かないとわかっていながら毎日俺に赫夜は来たかと聞いていたのか。
おそろしい女だこいつ。
俺のこの一週間って何だったんだ?
俺が今の夕鶴へ抱く感情は怒りや呆れよりは恐怖に近い。スマホを持つ手は力が抜けたように重くなり、少しだけ震えていた。
「あんたも赫夜のこと好きじゃないって言ってたし? なら別に週末まで連絡つかなくても困らないだろうって。言ってこないならそんなもんかって、からかい半分様子見てたわけ」
いやもう全然意味がわからん。なんでだよ。
夕鶴の言い分には納得がいかないが、唖然としすぎて何も言えない。
「んで、学校が近いって言うから、なんとなく顔見に行ったら物凄いクマ作っててさ! 駄目じゃん! って。一週間大人しく待ってるとか犬かよ! って笑っちゃった」
再度の大笑いとともに連絡をつけた理由を告げられる。
人の体調不良を笑うのはいかがなものだろうか。しかも犬扱い。
「おい、犬ってなんだ」
「吠えないでよ。忠犬ってこれ以上ない例えだと思うんだけどなー? 人間ならそこまで酷い顔面になる前にアクション起こせよ」
赫夜にもやんわり指摘されたけど、そんなに顔色が悪いんだろうか。
月曜日はともかく今日はそこまで睡眠時間も不足してなかったはずなので、積もりに積もったってやつかもしれない。
「……何、そんなにひどい顔だった?」
「顔も空気もやばかった。しっかり鏡見たほうが良いんじゃん?」
厳しい言葉だ。
「鏡見ろ」なんて、友人に言われてもさほど気にならないけど、女の子に言われると結構刺さるんだと知った。
夕鶴からの厳しい指摘を受けて、クローゼットの内側に取り付けられている鏡を覗こうとベッドから降りる。
忠告はありがたく聞くけれど、通話の向こうにいる夕鶴にすぐ鏡を確認しに行ったことがバレるのも悔しいので、そっと音が出ないように歩き出す。
「あたしも幼馴染として、ちょーっとだけ悪いことしたかなと思って、可哀想なあんたのために一肌脱いでやったのよ」
「……どうも、ありがとう」
夕鶴はどうしてこうも、素直に感謝しにくいことを言うのやら。
がっくりと肩を落として、ため息を通話に乗せるように口を近づけて話す。
少しくらい俺の疲労が伝わってほしい。
クローゼットをゆっくり開けて、まじまじと鏡を見る。
端の濁った長四角の鏡面には、いつも通りの何の代わり映えもしない自分の顔があるだけだった。
目の下にはクマがあるような気もするけれど、部屋の照明の角度のような気もする。
俺の顔なんて、黒い髪に黒い目、顔は祖母に似ていると以前言われたことがある。くらいしか語るべきところがない。
じっくり見ても、自分では何が悪いのかわからない。
造作と言われればぐうの音も出ないが、そこも別に、普通だと思うんだけどな……
様々に角度を変えて自分の顔を眺めるという奇行を続けていると、通話口から一際明るい声が響いた。
「明日の報告も楽しみにしてるから!」
「夕鶴は期末前なんじゃなかったのかよ」
夕鶴の好奇心に満ちた声音に、俺で遊んでる暇なんてあるのかと言外に伝える。
「勉強には息抜きが必要じゃん」
逆に何言ってるんだと呆れた調子で返された。
これまではまだ、一応真面目に俺のために考えてあげています。というスタンスだった気がするのに、もう取り繕うことなく言い切られるとは。
「自分の姉と幼馴染を息抜きのお茶請けにするんじゃない」
まったくと息を吐いて、こめかみから髪を掻き上げる。
「お茶と合わせるにはまだちょっと甘味が足らないかなー」
「俺と赫夜は一時的な戦いのパートナーみたいなもん! 甘さなんてないって!」
「ふーん。その割には昼間に比べて大分声が明るいですなぁ?」
「それは……夕鶴が勝手に感じてるだけだろ!」
夕鶴の揶揄いに付き合っているとキリがない。
時間も遅いし、もう挨拶だけして通話を終えようと思ったところで、夕鶴が急に神妙な声色でぽつりと呟いた。
「……あたしはさ、赫夜の味方だから」
「うん?」
告げられた言葉の意図を測りかねて、疑問符が声と頭に浮かんだ。
「でも、あんたのことも結構気に入ってるんだ」
「ありがとう?」
「あんた本当に馬鹿だよね」
よくわからない褒め言葉に疑問を抱きつつも礼を言えば、暴言が返ってくる。
夕鶴は本当に、俺相手なら何言ってもいいと思ってるだろ。
通話越しでは伝わりようもない眉間のシワを鏡で見つけて指でなぞった。
「朝来は今から一回、鏡見て自分が何でそんな顔してんのか考えてみなよ」
「……どういう意味だよ」
いいかげん俺だって怒るぞと一度釘を差してやろうと思ったが、先ほどから要領を得ない夕鶴の話に、苛立ちよりは困惑が強まる。
これまでと違う調子に少しだけ心配になって、様子をうかがうように黙って耳を澄ましていると、通話口から含むような笑い声が聞こえてきた。
「砕け散ったら慰めてあげるよってこと!」
「はぁ?」
俺の呆れ声を無視して、夕鶴はまたねと通話を切った。
「何なんだあいつは……」
何度思ったかわからない夕鶴への愚痴を呟きながらも、意味深なその言葉がどうしても気になって再び鏡へと目を向ける。
そこに映し出されているのは、やはりいつもの自分でしかなくて。
「全然わからん」
これでまた気になって眠れなくなったらどうするんだと、心の中で文句を言いながら鏡の自分と額を合わせた。