12話 不穏な街と不条理なタクシー
「朝来君はぁ、何してるんだろ~?」
ぼんやりと赫夜に見惚れていた俺に、遅れて合流した夕鶴が腰に手を当てて低い声で圧をかけてくる。
「……別に、何もしてない」
バレてはいるだろうが、指摘されたばかりなのに「懲りずにまた顔をじっと見ていました」とも、この場では素直に言い難い。
必然と、視線だけが逃げるように泳いでいく。
「何もしてないのかよ」
「なんでだよ……」
「まーたガン見してただけってことでしょ? 駄目な奴だな」
呆れた眼差しとともに吐き捨てられる。理不尽だ。
逆に、こんな衆人環視の中で俺に何をしろというのか。
顔を見てただけでそうやって圧を掛けてくる癖に……という気持ちを込めて軽く睨み返してみれば、なんとそれが伝わったのか、夕鶴がぼそりと呟いた。
「連絡先」
「……ぁ」
「だろーが」
倍以上の眼力で睨み返される。
……そうでした。
「二人が仲良くしてくれてよかった」
俺と夕鶴のやり取りを一歩引いたところから笑顔で眺めている赫夜は、子供の喧騒を見守る保護者に似た穏やかな雰囲気を醸している。
「まぁ、最初よりはね」
夕鶴は体の前で腕を組んで、けれど、ふいと顔だけ背けるようにして言った。
赫夜はそんな夕鶴の様子を見て、微笑ましいといったふうに笑みを深める。
「朝来は、話したいこと話せた?」
母親が幼い子供に確認をする時のような優しい声色で、赫夜は俺に問いかけた。
やっぱり赫夜は、俺達に話をさせるつもりでこの街に置いて行ったらしい。
「うん。話せたよ、ありがとう」
「良かった」
赫夜はほっとしたような、嬉しそうな笑みを浮かべた。
赫夜がどういうつもりで、夕鶴と俺を今更引き合わせたのかはわからない。
けれど、今日の邂逅については、仲良くしてくれて嬉しいという赫夜の言葉通りの思いから来ているものだと思えた。
「あと、そうだ……赫夜、あのさ」
「なぁに?」
「えーと……」
蜜色の瞳が、不思議そうに俺を見ている。
「その、コーヒー飲ませてもらった。ありがとう……」
「うん? そうなんだ。どういたしまして?」
軽く頭を下げると、赫夜は小さく首を傾げながら礼を受け取る。
「結局言わないのかよ」と言いたげな夕鶴の冷たい視線がざくざくと俺に突き刺さっていた。
「この後なんだけどね」
赫夜が控えめに、俺と夕鶴とに切り出す。
「何? ご飯食べて帰るでしょ? ここまで来たんだし」
割って入った夕鶴に対して赫夜は否と首を振り、話を続ける。
「えっとね、夕鶴の言ったみたいに最初はこの後は皆で食事でもしてから帰ろうと思ってたんだけど……少し前からこのあたりに嫌な感じがし始めてるんだよね」
「嫌な感じ……?」
「そう、朝来は先週コンビニエンスストアの裏で見たでしょう? そういう感じ。だから、大っぴらに何かが起こる前に今日は解散かなぁって」
静かに告げられたのは、あまりにも剣呑な予測だった。
「あの時と同じ蟲ってのが、この街に居るってこと?」
「そうだね」
問えば、赫夜ははっきりとそれを肯定した。
「何それ……気持ち悪い」
夕鶴が怯えるようにして、赫夜のコートの袖を握る。
「起こると決まっているわけでもないし、起こったところで私達が巻き込まれる可能性の方が低い。戦いになったところで私からすれば別段恐れるべき相手でもない。ただ、不測の事態というのは起こり得るし、夕鶴を戦いの場に連れて行くことはしたくない。……駄目かな?」
赫夜は俺の目を真っ直ぐ見ながら、はっきりとした口調で現状の見立てと行動方針と言えるものを伝えてくる。が、何故か最後には伺いを立てるような言葉を付け加えた。
「駄目かなんて、俺に聞くことないよ? 俺は街が危なそうとか、そんな感覚すらわからなかったから……赫夜が今日は帰った方が良いと考えるんなら、俺はそれが良いと思うんだけど」
「そうかな? 今日は私もそうしてくれると助かるけれど、お前は私の契約者だから、契約中はできる限りお前の意向に添いたいと思っている」
「いや、でも俺はこういうの本当に素人だから。むしろ戦いに関しては赫夜に判断を任せたいかなって……」
善戦したはずの先週の出来事についてすら未だに誤ったと思う部分があるくらいなので、こんなに急に命に関わりそうな判断を仰がれても困るしかできない。
赫夜は口元に手を添えて、深く考え込むようにしている。
「わかったよ。確かに元々戦いやそれらに必要な知識は私が色々教えるつもりでいたし、お前がそれなりに一人でも戦えるようになるまで、戦いに関連する事柄については私の判断で進めさせてもらうね」
「うん。悪いけど、そうしてくれると嬉しいかな」
俺と赫夜は、お互いの合意を確認するように頷き合った。
会話の終わりを待っていたらしく、まだ少しびくついた様子の夕鶴が話し掛けてくる。
「ねぇ、赫夜……帰る?」
「うん、もう帰ろうね」
赫夜はこれまでより一段甘い声色で、自分のコートの裾を握る夕鶴の手を取って落ち着かせるように返事をした。
しばらくして夕鶴が落ち着きを見せるようになると、赫夜は俺に向き直って言う。
「朝来、折角一緒に来てもらったのにごめんね」
「安全第一だからさ。俺だってあれが居るって聞いたら気が気じゃないし、食事くらい本当に気にしないでよ」
「食事の埋め合わせは、また日を改めてさせてもらうから」
赫夜は、すまなそうに顔の下で手を合わせている。
「大丈夫だって! それじゃあ、俺はここからだと電車だから」
沿線の改札口方面を指さして、二人に帰宅することを告げる。
軽く手を上げてその場を後にしようとすると、赫夜が制止の声を掛けてきた。
「ちょっと待って。朝来のことは、ちゃんと家まで送るから」
「一人でも平気だよ」
「それくらいさせてよ。少し心配だし」
赫夜の言い方は柔らかく聞こえるが、譲る気もなさそうだった。
またタクシーでも呼ぶ気なのだろうかと考えると、学生の金銭感覚的に流石に申し訳なさが強い。
赫夜は軽く周囲の様子を確認するように首を動かすと、俺の前に右手を差し出した。
「もうだいぶ暗いし、これだけ人が居るなら多分周りも気づかないでしょ。心の準備ができたら手をだして」
赫夜の言葉は何やら意味深だけど、意味深すぎて謎だ。
とりあえず、手を出してと言うからには、この手を握れ……ということなのだろう。
恐る恐る、差し出されている赫夜の右手の上に自分の右手を重ねる。
軽くその手を握るようにすると、赫夜もまた同じように俺の手を握り返した。
「また、ね」
その言葉を最後に、俺の視界はぐにゃりと歪んだ。
目眩に似た感覚と、奇妙な浮遊感に襲われる。
周囲の景色が段々と暗く、遠ざかっていく。
次の瞬間、俺は自分が、自分の家の玄関前に佇んでいることに気が付いた。
「は……?」
自分の身に起きたことが理解できない。
今の今まで、俺は市街地の駅前広場で赫夜と夕鶴と一緒に居たはずだ。
けれど、今目の前にある玄関灯に照らされたその扉は、間違いなく見慣れた我が家のものだ。
「俺の家……だよな……?」
言葉に出して確認してみても、にわかには受け入れがたい。
「嘘だろ……」
差し出された赫夜の手、意味深な言葉……
そして、今日も先週も俺の目の前でこつ然と消えてみせた赫夜。
これまでの日常にはありえない、あまりにも受け入れがたくて、あまりにも信じがたい現象だけど……
あぁ、でもきっと、そういうことなのだ。
ふわりと、答え合わせのように俺の目の前に金色の羽が一枚舞い落ちる。
そしてそれは、地面に触れる前に溶けるように消えていった。