少女は「放ってはおけません」と言った。
ここは、戦場だ。
身も、心も、そして、命すらも、捧げ合い、殺し合う。
相対すれば、大義など二の次、敵を討ち果たし、生き残りたいと、各々が願う。
誰しもが、自分のことを一番に考えてしまう場所でもあった。
その戦場で、ライデンの叫びを聞いたのは、わずかに三人。
それでも、この場にいる全員。
一人目。
ゴブリン達の群れの中、炎の壁を周囲に張って、円状のわずかな安全地帯を創りだしているのは、ライデンと幼なじみのセレナだ。
片手で握った細い杖に、空いた手をかざし、彼女は、魔力を注いでいた。唇をキュッと結んで、真剣な面持ち。そんな彼女の口は、ライデンが叫んだあと、聞き取れない声で、二文字の言葉をつぶやいた。そして、一瞬だけ、頬を緩ませたようだった。
二人目は、ライデンのもう一人の幼なじみ、小太りラクスだ。彼も、剣を両手で握り、周囲の警戒に余念がない。あのライデンの叫びを聞いたときは、剣から片手を外し、誇らしそうに鼻をこすった。
そして、三人目の少女。
彼女は、ライデンの叫びを、彼に背を向けて、聞いていた。
身を包むローブは、戦いで破れてボロボロ。そこから覗く、肌は傷つき、血だらけだった。その上、臭いゴブリンの体液でずぶ濡れといった状態。
それでも、可憐で美しい姿を完全に隠しきれない。
水たまりに落ちて、泥をかぶってしまったお人形のようだ。
そんな少女が、一度は背を向けたライデンの方へ振り返った。
「もしかして、主人は、馬鹿ですか」
下手な朗読のように抑揚のない声。しかし、その声量は、大き過ぎず、小さ過ぎず、とても聞き取りやすい。だから、この場にいる者たち、三人の耳に、すぅーっと入ってきた。
彼らは、少女を見た。栗毛のセレナと小太りのラクスは横目で、少女を召喚したライデンは、真正面で相対をした。
少女以外の三人の時が止まる。
彼らにとって、一瞬が、切り取られたように感じる瞬間だった。
それは、ライデン達が、目の前に広がった少女を中心とする光景を、脳裏に焼き付けた瞬間でもある。
炎の壁を背に、振り返った少女。
高熱の炎が、彼女の背後で、幻想的に揺らめいていた。
表情は、無表情。
なのに、少女の青い瞳が、熱い炎を反射して、宝石のようにキラキラと輝く。それは、炎の光を反射しただけの物理現象にすぎない。
その物理現象に、三人は魅入られた。
それは、ほんの一瞬、置き時計の秒針が止まっている時間より短い刹那だ。
少女が、首を傾げた。
「主人は、馬鹿ですか?」
その声は、さっきより大きい。小さな可愛らしい口も、大きく開いていた。
「そうバカよ」
わざと聞こえるようにしてセレナがつぶやく。そして、気合を入れ直すようにして頬を膨らませると、自らの杖へ意識を集中させた。
「そうそう」
とラクスも同意。セレナと違って、彼の肩の力は抜けている。
間近で、少女と見つめ合うライデンは、別のことを考えていた。
召喚時の「らいでん」から「主人」と少女は、ライデンの呼び方を変えていた。これは、戦闘と同時並行して言語習得をしていた結果に過ぎない。
ただ、その変化でライデンは、自分の立場を思い出す。
少女を召喚したのは、ライデンで、つまりは、彼が、少女の主人であるという立場を思い出したのだ。
「命令だ」
ライデンが胸を張って言い放つのを、少女がさえぎる。
「誰にですか?」
少女は、きょとんとしていた。
ライデンは、ぐぬぬとなってしまう。彼は、彼女の名を知らない。これは、召喚術にとっては大問題であった。そもそも、名も知らないものへの命令が出来ないというのは、召喚術の基礎の基礎だ。
もうっといった雰囲気で助け舟を出したのは、セレナ。
杖への意識が途切れないように声を出すのは、中々に大変。それをこなす技量を彼女は、持っていた。
「ねぇ、あなたの名前を教えて」
少女に悪気がある訳ではないが、その返答は、少し意地悪。
「あなたって、誰ですか?」
セレナの肩の力が、ぐわっと抜けてしましまう。彼女たちを取り囲む炎が、呼応するように大きく揺らめいだ。それを、巧みに立て直してみせると、彼女は、再び、彼女に再び問う。
「もうっ! あなたって、あなたよ! 大怪我をしている女の子の名前を聞きたいのっ!」
セレナは、杖へと込める魔力の量を誤り、炎の壁は、高く燃え上がった。
少女は「大怪我した女の子」とキョロキョロした。
そして「名前はローズマリーです」とあっさり告げる。
セレナがぎゅっとライデンを見つめる。これは、彼女にとって「後は、任せたわ」という意味で、他意はない。魔力の流れをコントロールするのに、あわあわしているせいで、どうしても、表情がキツくなってしまう。
なのに、ライデンがビクッとするものだから、セレナも動揺してしまい、炎の壁が踊り出す。
「ローズマリーへ命令をする」
ローズマリーは、ライデンを直視した。
彼の次の言葉が遅い。
「もうっ、早く言いなさいよ!」
これは、セレナの悲鳴。
「ローズマリーへ命令をする。もう戦うな、あとは、俺たちに任せろ」
ローズマリーは、ライデンをジッと見つめ、ラクスとセレナを見渡す。
「その命令は、拒否します」
表情も、声色も、今までと変わらない。無表情、そして棒読み。
ライデンも譲らない。
「この命令は、絶対だ。主人として、拒否は認めない」
主人の絶対命令。
その命令は、ローズマリーの判断では、最悪手であった。合理的な理由があれば、命令に対しての拒否は可能だった。それも、主人の許可が有ればのこと……。
ここで、初めてローズマリーの表情筋が動く。
お人形のような少女が、怒ったように顔を歪めた。
「主人は、馬鹿です」
声色も違う、丁寧な口調ても語気が荒く聞こえる。
「馬鹿でもいい。もう、戦うな、ボロボロじゃないか」
ローズマリーの厳しい表情は変わらない。
だから、少女が目上の者を諭しているようにも見えた。
「もう一度、馬鹿な主人でも理解できるように伝えます」
この時の彼女は、片手を腰に当てながら、人差し指をライデンの方へ向けて、何度も振っているかのように、誰しもが感じられた。
実際の彼女は、直立不動なのだが……。
彼女の言葉は続く。
「弱い主人たちを放ってはおけません」
と言い切った。
ライデンは、少女の頭にポンと手を置いた。
「俺たちは、弱くないさ」
「そうだな、馬鹿なライデン以外は、そこそこ強いぞ」
ラクスが続く。
うんうんと栗毛を揺らしてうなずくのは、炎の壁を懸命に維持しているセレナだった。
「主人は、馬鹿な上に嘘つき」
直立不動の少女を諭すように、ライデンは言う。
「嘘つきじゃないさ」
「敵に囲まれている、この状況を、弱い主人たちでは対処できません」
ライデンは、ローズマリーの銀髪をぐしゃぐしゃと撫でる。
その行為への拒否を、ローズマリーは表情で見せた。
頬を膨らませライデンへの反抗の意志を示す。
「囲まれてるからこそさ。君のおかげだ」
ライデンは、ローズマリーから離れる。
「さあ、一気にいくぞ!」
彼は、自身に満ちていた。