弐章 水踏房の未利
吹き抜ける風には、湿気が含まれており、梅雨の時期なのだと改めさせられる。
窓から眺めるは、夕日でオレンジ色に染まった校庭。
今日は月に2度程設けられている、休活日である為、全部活は休みだ。なので、常時は部活動に励んでいる、野球部やサッカー部や陸上部、その生徒達の姿のない、静かで淋しいグラウンドだった。
「………八雲くん」
声を掛けられ、快は夢から醒めた思いだ。
「八雲くん?」
声の主は、快の横に並んで、彼の顔を覗き込む様にして見、もう一度呼ぶ。
快はちらりと、その者を見た。
その者は、隣りのクラスの生徒であり、名を瑞江茉希という。快とは1年の時に同じクラスになってからの仲だ。
「まだ帰らないの?」
茉希は訊いた。
「ナンだかな、この風景を見ていたくてな」
快は窓枠に肘を着け、頬杖を付きながら、そう返した。
「あら? 八雲くんって、そんなにロマンチシストだったっけ?」
茉希は意外そうに彼を見る。
「ナニよ、知らなかったか」
快はそう云って、彼女に笑顔を見せた。
「知らないよ、そこまで八雲くんに興味持ってないもの」
「ツレないな」
快は苦笑する。
彼のその一言に、茉希も笑った。
「何だか、北方くんみたい」
「あぁ、そうな。3年間同クラだと、似て来んのかもな」
快はそう云うと、伸びをする。
「帰る?」
「一緒に帰るか?」
「イヤよ、変な噂が立つもの。八雲くんはモテるから、イジメられちゃう」
笑いながら茉希は返す。
「イジメられたら云えよ、俺が庇ってやるから」
「ふふ…、女子は、八雲くんが思っている以上に恐いのよ」
そう云って茉希は、先に教室を出て行った。
その後ろ姿を見送り、また快は、窓から校庭を見下ろす。
校庭には、独りの男子生徒。
どこのクラスの奴だろう?
彼はふと、そんな事を思った。
男子生徒は、見られている事に気付いたのか、快の居る窓を見上げた。
あぁ、ナンだ、ソチじゃん。
「!」
男子生徒の正体を知った途端、躰がふわりと宙に浮いた様に、快は感じた………………
「………夕羽!」
ナンだ? 俺はユハじゃねぇぞ。
「夕羽! 起きなさい!!」
「ッ!」
快は夢から醒め、飛び起きた。
広くて薄暗い空間。
まだ幼さが残る女官達が、慌ただしく動いている。
「ちょっと夕羽! 早く支度しな! また李膳司様から叱責されるよ!?」
女官のひとり、同じ御膳房の好翠が苛々と追い立てる。
快は、眠い目をこすりながら、蒲団を片付け、帯を整えた。
快が夕羽の躰に入り、夕羽として生活をする事数日。
その間に知った事は、宦官女官は共に「奴婢」と称されるが、一般民の云う賤民とは違うという事と、奴婢と称されるが故に、彼らの一人称が「僕」である事。そして、彼らの多くが十歳前後に宮中へ入り、本人の意思とは関係なく、後宮十二司のいずれかへ配属される。
休日は略、ない。
その事を知った時、当然快は衝撃を受け、ストライキを起こしてやろうかと、本気で考え、楚智に一笑に付された。
それを見ても、これが、何の疑いもなく働く彼らの日常であり、不満を抱く事の方が非常識なのだと、痛感せざるを得ない。
腑に落ちん。
詰まる所は、そこである。
と、そこへ罵声が飛んで来て、快は完全に目を醒ました。
「また、水踏房だ」
好翠が顔を顰めながらに云う。
水踏房とは、水汲みや洗濯を担っている部署で、十二司の内でも一番過酷だとされている。
罵声はひとりに向けられており、快は苛々とした。
この過酷な日常の中、いつの時代もストレスの捌け口にされるのは、一番力の弱い者である。
快は舌打ちにした。
人間てのは、成長しねぇなぁ。
しかし、そう考えると、妙に可笑しくなり、親近感さえ抱く。
「なぁ、水踏房のネェサン方、その辺にしといた方がイイすよ」
だから快は、水踏房の女官達へ、笑いながらに窘めた。
その一言、部屋内はざわりとし、この場に居合わせた全員が、快へ視線を向ける。
同じ御膳房の女官達は、快(夕羽)を心配した。
水踏房やその他の女官達も、奇異なモノを見る様な眼で、快へ視線を向ける。
あ、ヤベッ。
快は心内、口に出してしまった自身の言葉に後悔し、ついでに反省もして、注目する女官達へ微苦笑を向けた。
「あー、ほらほら、持ち場へ就きましょう!」
諂う様に笑いながら、快はそう云って女官達を促した。
そんな快の後ろ姿を、水踏房内でどやされていた女官、未利は、涙を拭いながら見送っていた。
就労中。
御膳房近くの井戸で、快は楚智と共に鍋等の調理器具を洗っていると、不意に声を掛けられた。
ふたり同時に振り向く。
声を掛けて来たのは未利であり、オドオドとした表情で快を見ている。
「何か用?」
楚智が立ち上がり、怪訝そうに訊いた。
一方快は、未利の顔を見て軽く驚き、手にしている鍋を思わず落としそうになる。
その理由、彼女が同級生の瑞江茉希に似ていたからだ。
「………茉希」
口の中で呟き、快は頭を振る。
そんな筈はない。と、考えを打ち消す。
この国が、世界の何処に在り、何時の時代なのかも知らないのだから、似ているだけで、それ以上も以下もない。
世界には自分にそっくりな人間が3人居るって云うしな。
現に、夕羽だって、快の下級生の山村花梨と似ているのだから。
快も立ち上がり、改めて未利を見た。
「あ、あの、先刻は、失礼致しました」
彼女はそう云って、ぺこりと頭を下げる。
「あ、あー、気にするなよ」
「どうかしたの?」
妙な顔付きで楚智は快に訊いた。
「今朝ちょっとな………」
「未利!」
快が説明し掛けた時、彼女を呼ぶ声が飛んで来た。
その声に未利はビクリと躰を震わせ、快と楚智に頭を下げると、声のした方へ走り去って行った。
「水踏房の女官か」
彼女の後ろ姿を見送りながら、楚智はポツリと独り言。
「………………」
この日を境に、快は未利を気に掛ける様になった。
これ迄彼は、瑞江茉希に特別な想いを抱いた事はなかったが、知らない世界で、知らない人達と共同生活をし、僅か数日とはいえ、15歳(夕羽ならば13歳)の年齢で心細くない訳がなかった。
その様な状況下で、赤の他人とはいえ、見知った顔の人物が目の前に現れれば、それは当然、特別視してしまうだろう。
その日も快は未利の姿を見付けては声を掛け、一言二言言葉を交わした。
そんなふたりの様子に気付いた楚智は、ふたりが別れてから、快に歩み寄る。
「本当に、陽気になったよね」
「あぁ、良く笑う様になったよね」
「夕羽もだよ」
のほほんとする快に苦笑をし、楚智は云う。
「え? ボク?」
快はギクリとする。
「以前なら、絶対自分からは話し掛けなかったのに、今は積極的じゃないか。まぁ、良い傾向だよ」
「お、おう、そう?」
歯切れも悪くそう云い、快は微笑した。
そんな快を楚智は訝しむが、軈て、再度口を開いた。
「それよりも、皇太子殿下の御誕辰の儀が、間近に迫っているね」
「ゴタンシン?」
「御生誕日だよ」
近頃では、快が聞き返す事にも馴れ、楚智としても、それが日常と化している。
「それで、未だに、東宮殿の御膳房の宦官と女官が足りないそうだよ」
「東宮殿」が皇太子の御座す所だという事は、快は最近知った。
「そんなに人手が要るのか?」
「矢張り、覚えていないのだね」
「ん? ナニを?」
「東宮殿の宦官女官が多く、御手打ちになった事だよ」
声を潜め、楚智は告げる。
「は? ナンで?」
流石の快も、それには衝撃を受けた様だ。
「詳しくは知らないけど、噂だと、徐貴妃殿下が関係しているらしい」
「ジョキヒ?」
「楊貴妃」なら知っているが……そう思いながら、快は訊く。
「徐将軍閣下の姫君で、燦皇子殿下の母君だよ」
楚智は真剣な面持ちで教えた。
よく分からないが、とんでもなく偉い人なのだろう事は、快にも伝わった様だ。
「そんな曰くあり気な所、行きたくないな」
それ故、快は苦虫を噛み潰した様な顔で、正直な気持ちを口にする。
「どの道、無品の僕達には、無関係な話だけどね」
笑いながら楚智はそう返した。