妊婦と死神
女が席に帰ってみると、自分を殺しに来たと言うその男は、昼食を半分以上もたいらげていた。
「どう? ここのリゾット?」
女はそう聞きながら椅子を引いて再び席に着く。
「いや――素晴らしいですね。さすが雑誌に紹介されただけのことはありますよ。
スモークサーモンとパルミジャーノ・レッジャーノの相性が最高だ……」
男はやや早口にそう言った。特徴ある黒縁の眼鏡が少し反射して光った。
「そう。それは良かったわ」
私はたった今それと同じような物をトイレの洗面所に吐き出してきたけれど……女は心の中で静かにそう呟き、目の前に置いてあるサラダに目をやった。男の皿とは対照的に、運び込まれた時の姿をそのまま留めている。
二日前から続く悪阻と呼ばれるであろう、船酔いのような胸部の不快感は、起床直後の三分間を除いて、二十四時間体制で休むことなく女を苦しめている。
女は食事に手をつける事をあきらめて、背もたれに体を預け、煙草に火をつけた。
「よろしいのですか? 胎児に差し障るのでは」
男が眉をひそめた。
「まだ決まりじゃないわ。確定したら止めるの」
女は唇を薄く開け煙を吐き出した。メンソールの香りが心地よい。
まだ中身が半分以上も残っているショートホープの箱を女はテーブルに置いた。このまま置いていくつもりである。
女には自分が妊娠しているという確信があった。女の第六感などでは無く、体の火照りや時期的なものはもちろん、何より99%の精度をうたう妊娠検査薬の物証があった。しかしその事は女以外に知る者はいない。……はずであった。今朝、目の前にいる男に話掛けられるまで。
「ああ! すみません。あなた妊娠されてませんか?」
女は車のドアにかけた手を止めた。紺のスーツに眼鏡をかけた、いかにも公務員のような若い初対面の男が、何故自分の秘密を知っているのか。女は夫にさえ、妊娠しているかもしれない事は話していなかった。
この世にそれを知り得るのは女だけのはずなのに何故。答えは簡単だった。
「私こういう者でして――あの世の方から参りました」
この世の者では無かったからである。
まさに産婦人科に行こうと思った時にそんなことを言われ、女は柄にも無くうろたえてしまった。
妊娠検査薬を買う姿を見られたのかと思い、このストーカーを警察に突き出すことも考えたが、あいにく女は警察に頼れるような身の上ではなかった。ばれていない自信はあったが、これまでに女がしてきた事は、大雑把な女自身がざっと見積もっても、有罪か無罪かと問われれば、有罪という見解だった。
その上、男は申し訳無さそうにこう囁いた。
「その――妊娠の件に関してなんですがね。ちょっとこちらの把握が遅れておりまして……。あなた様はいろいろと公に出来ない過去もお持ちですし、私の方が直接聴取をさせて頂きたいと思いまして。あの――今お時間大丈夫ですか?」
女は驚愕した。最近話題の個人情報の流出とは、ここまでなのかと怖くなった。女はとりあえず助手席に男を乗せることにした。
女は殺気立っていた。世の中の妊婦が、いずれ産まれてくる我が子を思い、ふんわりとしたマリア様のような母性愛に包まれていると思ったら大間違いだ。悪阻による体調不良と、自分の下腹部を守ろうという無意識の防衛本能により、隣に座る男の一人や二人最終的には何とでもしてやろうという気分になっていた。
ところがそんな女の気持ちとは裏腹に、男は女の愛車であるRX-7に乗車できる事に心底興奮していた。車が走り出してからもそれは治まる事はなく、先週取り付けた自慢のタコメーターに話が及ぶと、女の方も嬉しくなってしまい、ついつい夫には通じない自分なりの愛車へのこだわりを語ってしまった。
そんな事だから、二人の会話は車の中ではまったく確信に触れることはできず、病院に行くにも行けず、しかたなく男が鞄から取り出した「下界ウォーカー」なるものに掲載されていたイタリア料理店に「そこなら知ってるわ」と車を走らせた。
「ねえ、あなた死神なんでしょ? 私を殺しにきたの?」
サラダと引き換えにテーブルに置かれたコーヒーカップに手をつけ、女が言った。
「とんでもない! 死神と呼ばれる事があるのは事実ですがね、それは大きな誤解です。私の様な一職員が人間の命を奪えるはずがない! それに今回は……」
男は上半身を乗り出して憤慨した後、咳払いを一つして、事務的な口調で話し始めた。
女が妊娠するのはあの世でも想定外だったという。
女は今までに間接的とはいえ二人の人間を死に追いやっている。女が認識していたのは一人だったが、どうやら女が消えたすぐ後に自殺した男がもう一人いたらしいと知った。よって女はその罰として近々死ぬはずだったのだ。ところが思いがけず妊娠してしまい、あの世は大いに慌てた。女なのだから、それぐらいの可能性は想定してもくれてもいいのにと女は思ったが、実際のところ他の処理に追われていて、想定される事例自体立てていなかったというのが事実らしい。何ともお役所仕事である。
妊娠したことで新しい命が一つ産まれる為、女が死に追いやった二つの命の内一つはチャラになるという。だが、残る一つ命を死に追いやった分の罰を受けなければならない。しかし妊娠している女に罰を与える訳にもいかず、その分は身内に降りかかるという。さすがに人の罰を他の人間に振り分けるのだから、そこは慎重にということで、あの世の職員自ら妊娠の事実を確認しに来たらしい。。
「むちゃくちゃね」
女は呆れた。まず妊娠したら自分が殺した分の命が一つ分チャラになるというのがおかしい。それが本当なら子沢山の大量殺人鬼は無罪になる。
「そういうご意見は度々頂いておるんですが……こちらも膨大な情報を管理しておりまして、このような希少ケースには対応策が遅れているのが現状でございます」
どうやらあの世のシステムとは、下界で言う役所と一緒で、全てが形式ばって正しいように錯覚する反面、実際は適当な部分も多いのだと女は認識した。
現に自分の様な悪人が生き残っていて、生きているべき善人が二人も死んでいるではないか。
「ねえ。でも身内に私の罰が降りかかるなんて困るわ。勝手なのは分かってるけど。何とかならないの?」
女の頭には、もう何年も会っていない年老いた両親と、眼鏡をかけた優しい一重の男が浮かんだ。
その誰が見ても優しそうな男は、現在の女の夫であり、かつての獲物でもあった。
女は台所でシーフードパエリアを作っていた。これは女の一番の得意料理で、最後の夜はいつもこれと決めている。
しかし先ほどから、慣れているはずの料理がうまく進まない。居間で彼が座っているソファーの前のローテーブルに、不覚にもクライアント用の携帯を置き忘れている事に気がついたからだ。更に運悪く、その携帯は彼の目の前で、別の男の名前をピカピカと表示して着信してしまった。
「携帯鳴ってるよ」
ニコリと笑って台所に届けてくれる彼を見て、女は青ざめた。
しかし何も気付いていない可能性もあると女は考えなおした。なにしろ彼は、人に不信を抱くという事をまったく知らないからだ。付き合い始めて五ヶ月。予想以上のスピードで彼の免許書や印鑑・クレジットカードまでもを女は手にしていた。キスさえせずに、ここまで順調に行ったのは初めてで、いつもこんな獲物ならいいと思っていた。
そんな事を考えていたら料理はいつのまにか出来上がり、携帯の着信など大した事ではないかのように感じられていた。
「いただきま――す」
女は最後の晩餐を楽しむかのように手を合わせてから、パエリアを食べた。
一口食べて手が止まった。集中していなかったせいか、調味料の分量を間違えた。サフランか塩か……とにかく苦い上に塩辛く、いくら白ワインと一緒だと言っても、酒のつまみにもならない味だ。
やり直しだ。次回もう一度ちゃんとしたパエリアを作ろう。せっかく荷造りしたのに無駄になったと女は寝室に用意していたスーツケースを思った。
そんな事を考えている間に、彼が一口目のパエリアを口に運んでしまった。
女が何か言おうと口を開いた瞬間、彼は言った。
「うん。おいしいね」
女はスプーンを置いた。女は空気が薄くなるのを感じる。
死神のようだと噂されるほど今まで沢山の人間を冷酷に地獄に陥れてきた女が、こんな些細な事で相手を裏切れなくなってしまう。女は自分のもろさを実感した。
だまされていたのは自分だったと気付く。いや、だまされていたのではなく、裏切ることを知っていて気付かない振りをしていてくれたのだと。夢を見させてもらっていたのは自分の方だったと。
しばらく宙を見つめていた女は「ごめんなさい」と呟いて、彼と自分の分の皿を台所に下げた。
台所でパエリアを皿ごとゴミ箱に捨てた。
そして居間に帰って、驚く彼に抱きついてキスをして言った。
「ずっと私の傍にいて。一生離れたくないの」
診察室から帰ってくると、待合室では例の男が、お腹の大きな妊婦と雑誌を見ながら雑談していた。
「いや――最近の子育てグッズの進化には驚きました! それに男性用などもあって、父親が子育てに参加する時代なのですね――」などと話している。
窓口に診察券を取りに行くと、先ほど旦那様にお渡し致しましたと、受付の看護士が男の方に手を差し伸べた。
ため息をついて男のもとへ行くと、男は丁寧に隣の妊婦に頭を下げてから女に診察券を返した。
「どうでした?」
「うん。妊娠していたわ」
「そうですか――おめでとうございます!」
男は心から喜んでくれているようであった。
「先ほどの話ですけどね。やはり赤ちゃんが生まれるのにあなたが死んでしまっては――」
隣の妊婦の顔が曇る。産婦人科の待合室に死神がいるとは……女は呆れながら男を外へ連れ出した。
「本当によろしいのですか? 赤ちゃんが産まれてくるのにあなたが死んでしまっては子育ては誰がするのです?」
「あんたもさっき雑誌見たでしょ? もう男が子育て出来る時代なの! 私の旦那は私よりずっと子育てがうまいはずよ。男でも育児休業だってとれるんだから」
車の鍵を開けながら答えた。
女は死神をうまく説得し、自分が出産したあと罪をつぐなって死ぬ代わり、身内へ自分の罰が降りかかる事を止めるよう約束させた。死神は昼食をおごってもらった事もあり、微力ながら頑張らせて頂きますと折れた。人間が想定外に一人増えるという事だけでも、かなりの事務仕事が増えるのですが、と死神はぼやいた。
「産まれた赤ちゃんの顔が見れないままって事もあるかもしれませんが……よろしいですか?」
女は穏やかに笑って答えた。
「もちろん」
帰りに女は男を駅まで送った。
「あの世へは電車で帰るわけ?」
女はロータリーに車を止めた。
「決められた経路じゃないと経費が落ちないものですから……」と男は苦笑した。
女も苦笑してから男の目をじっと見た。
「いつまでもそんな役所みたいな所に勤めてたら、使うだけこき使われて、不祥事全部背負わされてくびになっちゃうんだから」
女は悪戯っぽく言った。
「そうですね。私も生まれ変わってこういう車に乗るかな――」
そういって、男は流線型の白いボンネットを眺めた。
死神を見送ってから、女はすぐに夫に妊娠を報告するメールを打った。
五分もしないうちに夫から着信があり、喜ぶ彼の声に女も表情がゆるんだ。
彼は帰りにお祝いのケーキを買って帰ると言った。悪阻で女が気持ち悪いと断っても、あの店のチーズケーキならさっぱりしていて食べれるだろうと聞かなかった。女は嬉しくてしかたがなかった。残された時間を彼と過ごせることを、あの世で事務仕事に追われているであろう神とやらに感謝した。
女は帰りにスーパーへ寄って買い物をした。
気がつけばずいぶんと日は傾いていた。
女は愛車のドアを閉めた後、夕日に見とれてその場に立ちすくんだ。こんなに透き通った夕日は初めてだと思った。女の心は驚くほど穏やかだった。
スーパーの袋に入ったパエリアの材料がずっしりと重たかった。
「はい。力抜いてくださいね――」
優しい女医の声に女は浅く深呼吸をした。
下腹部から下はカーテンで隠れているものの、やはり産婦人科の診察台は緊張する。
「あら」というカーテン越しの緊迫した声に、嫌な想像が一瞬頭をよぎる。
「ま――おめでとう! ツインズちゃんですね――」
女は驚いた。
「双子ちゃんはお母さん大変だけど、生まれた時の喜びも二倍ですからね。がんばりましょうね」
そう言って、カーテンから初老の女が顔を覗かせた。
ブラインド越しに、RX-7を見つめて何かぼやいている、眼鏡をかけたスーツ姿の男が見えた。
読んで頂きありがとうございます。
連載執筆中でしたが、浮気して短編に手を出してしまいました。息抜きになるどころか、逆に疲れましたが。どうだったでしょうか?
しばらくは平日毎日更新を掲げて頑張ります。