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最終回 おれは最後の賭けに出る

 原島義行(はらしまよしゆき)は救急病院のロビーに入り、受付で伯母の君代(きみよ)について病室を問い合わせた。まだ手術中だと教えられた。手術室の前の廊下まで行くと、壁ぎわのソファにいたおふくろが義行に気づいて立ちあがった。


「それで伯母さんの容態はどうなんだ」


「まだ昏睡状態が続いていて、いつどうなるかはわからないって」


 おふくろの顔には、姉の発作による心労が色濃く出ていた。伯母は、脳内にできた血腫をとりのぞく手術を受けているらしい。


「そうか」義行は隣に腰かけた。


 伯母はお茶の時間に施設の談話室で倒れたと、おふくろが経緯を語りはじめた。たまたまそばにいたヘルパーの福田がすぐに救急車を呼び、救急隊員がつくまで彼が応急処置をしてくれたらしい。伯母の家来のような青年だが、ヘルパーとしては有能なのだろう、と義行は感心した。


 義行にすれば、不謹慎ではあるが、伯母が脳出血で搬送されたと聞き、最初に頭に浮かんだのは遺産だった。


 夫に先立たれた伯母に子供はいない。法廷相続人はその妹、つまりおれのおふくろだ。おれのふところに遺産が入るわけではないが、借金を申し込むなら、伯母よりおふくろのほうが頼みやすい。承知してくれる見込みは高いだろう。


 だが、それは伯母が死んでからの話だ。全額を自分の葬儀費用にあてるというバカげた遺書があっても、法定相続分の半分は保障される。少なくともそれで、二回目の不渡りを回避できるくらいの金額はあるはずだ。


 約束手形の支払い期限は、四日後の六月八日だ。


 ひょっとすると、原島プロダクションと伯母の命日は同じ日になるかもしれない。あの嫌なばあさんと心中だなんて、まったくごめんだ――。


 午後九時過ぎになって、手術室から執刀医があらわれた。


「血腫はすべてとりのぞきましたが、患者の意識はまだ回復していません。危険な状態は続いています。意識が戻っても、後遺症がのこる可能性は高いです」


 執刀医がそう説明した。


 おふくろの肩が、がくっと下がった。


 性格的には問題のある伯母だが、いっしょに育てられた姉だけに、おふくろの落胆は想像できた。だが、おれがいつまで病院にいたって、伯母に対してなにかができるわけじゃない。おれが救わなければならないのは原島プロダクションだ。伯母と面会できない以上、長居は無用だ。


 義行はふいに立ち上がった。


「おれはいったん帰るよ。会社のほうで大きな問題を抱えているんだ」


 今夜は病院に泊るというおふくろをのこし、義行は手術室の前をあとにした。


 翌日の六月五日の金曜日――。


 義行は、事務所が入るビルを管理する不動産屋に、自宅から電話をかけた。


「わたしは原島プロ社長の原島義行ですが――」


 義行は伯母が倒れたいきさつを説明した。先方からはオーナーの許可がなければ、事務所は解放できないと断られた。その伯母がいつ目覚めるかはわからないのだ。


 きょうは午後九時半に飛山浩明(とびやまひろあき)と彼の劇団本部で会う約束があった。融資を頼んであった百十万円を、飛山が用意してくれているはずだ。


 義行は飛山に電話を入れた。


「必要な金を集めるのに、一週間もかかって申し訳ない」


 飛山はそんな言い方をした。


「とんでもない。あんたには本当に感謝している。恩にきるよ。それで、あと少しよぶんに都合できないか。――いや、原島プロは大丈夫だ。残りの九十万は会社の底力でなんとかなる。そうか。じゃあ今夜、また会おう」


 義行は通話を終えた。――だめか。


 経理の谷口からは、ひっきりなしに電話がかかっていた。事務所の鍵が閉まったままなので、社長のおれがついに会社を見捨てて逃げたと疑っているらしい。


『だって、いつまで待っても、社長は会社に戻らないじゃないですか』


 電話口で、谷口の涙声がうったえていた。


 会社を見捨てたわけじゃないが、なかに入れないのだからしかたないだろう。ただ岩上乳業とのトラブルは穏便にすみそうだと谷口に伝えておいた。


 あと三日と迫った支払い期限までに金を調達するめどは立たなくなった。そこまで言うのはやめた。通話を終えた義行は、携帯の電源を切った。


 あいつは事務所の閉まったドアの前で、いまだにおれを待ちつづけているのだろうか。悲観のあまり、あの場所で首をくくらなければいいが。本当に地縛霊だ――ぶるっと身震いした。あのビルにはもう立ち寄れなくなった。


 飛山との約束の時間に、義行は、劇団〈トビ猫〉の本部の前で、劇団員が出はからうのを待った。楓が友達と談笑しながら通り過ぎる。義行は胸が痛んだ。


 飛山とは、本部ビル一階の事務室で顔を合わせた。簡単なあいさつを交わし、飛山と差し向かいに座った。机の上に、厚みのある封筒が置かれた。


「百十万円ある。これがおれの用意できる精一杯の額だ。なかを確認してくれ」


「助かったよ。おかげで原島プロは安泰だ」


 義行は封筒を手に取った。なかには一万円の札束と十枚ほどの紙幣が入っていた。それをおざなりに確認するのを、飛山の目は見逃さなかったらしい。


「本当にあんたの事務所は大丈夫なのか。残り九十万が必要なんだろう。それをあんたの会社がまかなえないなら、おれが貸す百十万だって無駄になる」


「その心配はない。あんたに借りた金はちゃんと利子をつけて返す」


 そう言いきった。さらなる融資は頼みづらくなった。


「利子はいいんだが、おれは楓ちゃんのオーディションの行方のほうが気がかりだ。せっかく合格したものの、所属事務所がつぶれたら、彼女だって困るだろう」


「その心配はない。不吉なことを言うなよ」


「日向まどかのニュースは見たよ。原島プロはその責任をとらされるんじゃないか」


「岩上乳業のCMの賠償金だったら、役員が訴訟を起こすつもりはないと言っていた。裁判沙汰にしたら、マスコミを喜ばせるだけだからな」


「そうか。それならいいんだが」


「当事者のおれより心配するな。この金はありがたく運用させてもらう」


 義行は封筒を内ポケットにしまって席を立った。


 ついに万策尽きたか――。


 建物の外に出た義行は、雲間から見えかくれする満月をあおいだ。


 六日の土曜日はマンションの部屋で、ウイスキーのボトルとともに過ごした。扉が閉じられたままの事務所には一度も立ち寄っていない。


 伯母の意識が戻ったという知らせはない。その後は見舞いにも行っていない。従業員からの電話もメールも無視していると、ついに音信は途絶えた。谷口も覚悟を決めたに違いない。


 あさってまでに残り九十万円――。


 この九十万だが、どう考えても現在の会社の状態では不可能な額だ。義行はもはや腹をくくった。資本金こそ、あのばあさんに出してもらったが、そこから独力で起業し、五年間やってきた。谷口や他の従業員には悪いが、六月八日で原島プロは事実上の倒産だ。また一からやり直せばいい。


 夕方になって、携帯電話が鳴った。ディスプレイに目を向けると(かえで)からだ。


「オーディションの実技の日なんだけど、お父さんの都合はどうかと思って」


「実技審査は、いつだったっけ」


「やだ。来週の十日じゃない。原島プロから書類は出してもらったけれど、まだ所属しているわけじゃないでしょ。私のマネージャーがいるわけでもないし」


「わかった。八日を過ぎたら、おれは暇だ。ついて行ってやるよ」


「社長、ありがとうございます」


 ――そのときには、おれはもう社長じゃないけどな。


「君代伯母さん、まだ目覚めないらしいの」


 楓の声のトーンが変わった。


 伯母の発作は、おれのおふくろから聞いたという。楓と伯母は密かに会っていたふしがあるから、伯母の容態が気にかかるのだろう。


 手術は成功している、心配はいらない、と気休めを言って通話を終えた。


 いまは楓のオーディションだ。なんとしても原島プロからデビューさせてやりたいものだ。――だめでもともとだ。ここで飛山に電話をした。


「あと九十万円を用立ててくれないか。この通りだ」


 義行は、原島プロダクションの状況を正直にすべて話した。


「そんなことだろうと思ったよ。あんたに渡したぶんで精一杯なのは本当だよ。あれが限界だ。親としては原島プロから楓ちゃんをデビューさせたいところだろう。このさい割り切ったらどうなの。他の事務所だって、あの娘なら欲しがるよ。あんたはいったん事業を整理してから、また一人で再出発すればいい。貸した百十万円の返済は、いつだってかまわないから。あんたの再起を祈るよ」


 それで通話は終わった。最後の望みはついに絶たれた。


 義行は床に大の字に寝転がった。


「……楓、すまん」


 じわりと目頭が熱くなった。


 六月七日の日曜日――事実上の倒産の前日は午前十一時過ぎに目覚めた。


 昨晩はあれから自宅で飲みつづけた。よほど飲んだらしく、頭が猛烈に痛い。冷蔵庫を開けると、コーヒーを切らしていた。外の自動販売機に買いに出た。


 缶コーヒーを手に部屋に戻ろうとすると、いつもと違う電子音が鳴った。自販機の購入ボタンが光っている。当たりが出たらしい。取り出し口から、もう一本の缶コーヒーを取り出しながら、本当に当たりはあるんだなと意外に思った。


 義行はその場で一本飲みほした。


 運がついてきたかと気分が良くなった。この逆境に、神も捨てたもんじゃない。


 部屋に戻り、テレビをつけてテーブルの前に座る。ファンファーレが鳴り響いた。テレビでは競馬中継がされていた。ちょうど十八頭の競走馬がゲートインしたところだ。いっせいにゲートが開き、レースが始まった。


 ――今日は安田記念じゃないか。


 いまは午前十一時二十五分だ。安田記念は11ラウンドだろう。出走は午後三時半あたりか。昼飯をとってから東京競馬場に向かっても、充分に間に合う。手もとには飛山の百十万円がある。義行は財布の中身を確認した。一万円札が三枚に、小銭がいくらか入っている。軍資金はしめて百十三万円ほどか。


 当ててやるぜ、とギャンブラーの血が燃えあがった。


 電車を乗り継いで、東京競馬場には午後二時前についた。安田記念の出走は三時四十分だった。それまでに二レースあったが、義行はG1に全財産を突っ込むつもりだ。競馬新聞の予想をにらみながら作戦をねる。


 本命の15番と二番人気の8番は堅そうだ。15―8から流して3連単を狙いたいところだが、ここは高いオッズは必要ない。三着以内に入る馬を当てる複勝を選んだ。本命馬に賭けた場合のオッズは1・4倍から1・7倍だ。


 義行は、ケータイの電卓で計算した。これはだめだ。百十三万円をつっこんだところで、最高の1・7倍でも二百万円には足りない。では二番人気ではどうか。オッズは1・7から2・3だ。少なくとも百八十円つけば、二百三万四千円――これだ。義行は携帯電話を握りしめた。


 馬券売り場が混雑する前に勝馬投票券を購入し、義行はフジビュースタンドに出た。ちょうど第十レースが終わったところで、観覧席には歓喜と落胆が入り混じっていた。安田記念の行なわれる日だけあって、スタンドは大変な混みようだ。


 義行は、ターフビジョンにできるだけ近い位置に場所を見つけてもぐりこんだ。百十三万円の投票券に目を落とす。


 8番リトルナーバスの複勝だ。


 原島プロダクションの全財産は、いまやたった一枚の小さな馬券に変わった。あとは、二百万円以上の払い戻しがあるのを願うばかりだ。――頼むぞ。


 ついに安田記念レースの開催時間になった。最高格付された十八頭のサラブレットがゲートインする。あふれる熱気と興奮が、張りつめた空気に変わる。


 義行は身体の震えを抑えるのがやっとだ。会社が傾く前はよく競馬をやった。東京競馬場には、何度、足を運んだだろう。いまほど緊張した覚えはない。この馬券には会社の運命がかかっているのだ。


 がしゃんとゲートが開き、義行の心臓は跳ね上がった。


 バックストレッチでは予想どおりのレース展開となった。本命の15番が先行し、そのあとにつづく馬群の中ほどに、差し馬であるリトルナーバスがついている。五百四十二メートルの長い下りを、ぐんぐん速いペースで進む。


 第三コーナーをまわったところで、リトルナーバスが馬群から抜けた。先行する二頭に四馬身まで近づく。まくるタイミングが早くないか、と義行は不安を覚えた。リトルナーバスはそれほど体力のある馬ではない。最後の直線で差し切れるか――。義行は身を乗り出した。


 第四コーナーをまわると、15番、3番、そしてリトルナーバスの三頭の争いとなった。頼む。そのまま三着以内に入ってくれ。ホームストレッチに入ってすぐの登りで、リトルナーバスが遅れだした。やはり、スタミナ切れか――。


「まくれ、まくれ」義行は思わず立ち上がっていた。


 後続の馬がリトルナーバスに追いついてくる。三着を四頭の馬で争いはじめた。先頭を走る二頭がスタンドの前にかかり、歓声が高まった。後続馬には四馬身の差をつけている。


 15―3は、ほぼ間違いなさそうだ。あとは8番リトルナーバスの着順だ。


 ゴールポストを15番と3番の馬が通過し、スタンドの興奮は最高潮に達した。


 義行は声も出せず、身じろぎひとつできなかった。レースの行方を見つめる視界のなかで、ゴール直前でリトルナーバスが、差された。


 四着――。義行はベンチにへたりこんだ。


 この瞬間、全財産をつっこんだ馬券が一瞬にして紙くずになった。原島プロダクションの命運は、約束手形の支払期限の明日を待たず、ついに尽きた。


 義行は最終レースが始まる前に競馬場をあとにした。


 軍資金をすっかりなくしたぶん、すっきりした気分だ。ICカードをチャージしていなかったら、帰りの電車賃に困っていた。やけ酒を飲みに行く金もない。部屋にはまだウイスキーが残っていたはずだ。まっすぐ帰って、一人で残念会でもしよう。


 駅のホームのゴミ箱に、はずれ馬券を破って捨てた。


 六月八日の朝――。


 義行は携帯電話の着信で起こされた。相手は谷口だった。原島プロは本日をもって業務を終える、他のみんなにそう伝えてくれ、と頼んだ。


「社長、話が違います……」谷口の泣きごとは聞かずに電話を切った。


 あいつに自宅まで来られたら面倒だ。ありあわせの食材で朝食を終え、早々にマンションを出た。

 

 ファミリーレストランでドリンクバーを頼み、長居をしていると、おふくろから電話がかかってきた。――とうとう伯母は亡くなったか。本当に原島プロダクションと命日が重なったんじゃないだろうな。


 そんな推測をしながら電話に出た。


「――伯母の意識が、戻った。おれを呼んでいるって」


 おふくろによると、伯母は左半身に麻痺が残るものの、命に別状はないという。言葉もしっかりしていて、義行に話があるらしい。


 ――まだ賃貸料に未練があるか。払う金はない。いまはすっからかんだ。ざまあみろ。


 原島君代の入院する病院には昼前に着いた。


 君代は、意識が回復して個室に移ったと看護師から聞いていた。どんな態度で伯母と顔を合わせようかと迷いながら、義行は病室のドアを開けた。


 ベッドから半身を起こした君代の不機嫌そうな顔が、義行の視界に飛び込んできた。義行は入り口で足を止めた。伯母のそばに、おふくろと楓が並んでいる。おや、といぶかった。義行の視線に気づいた楓が、わけあり顔で頭を下げた。


「そんなところに突っ立ってねえで、とっとと入ってこい」


 君代の活舌はよく、言語障害はなさそうだ。


「伯母さん、意識が戻ってよかったよ。ところで原島プロダクションなんだが……」


 楓の存在が気になり、義行は言葉を止めた。


「今日、おまえの会社は二回目の不渡りを出すんだろ。楓から聞いた」


 君代に言われ、えっ、と義行は娘に目を転じた。


 飛山が楓に会社の状況をばらしたのだろう。楓と伯母はやはり通じ合っていたんだ。おれに関する情報はすべて、楓から伯母に伝わっていたらしい。


「お父さんの事務所に入るように勧めたのは、実は大伯母さんなの」


 楓がそう打ち明けた。


「だったらなぜ、伯母さんは差し押さえや立ち退きの嫌がらせをしたんだ」


 義行は君代に問いただした。


「あんたの会社を倒産に追い込むつもりはなかった。だらしないおまえに発破をかけたんだ。まさか、おれが倒れるとは予想しなかったけどな。万が一のときには、ヘルパーの福田にあらかじめ指示を出しておいた」


「君代さん、お待たせしました」


 その福田が汗をぬぐいながら入ってきた。手にしたセカンドバッグがふくらんでいる。バッグから札束を取り出し、ベッドのサイドテーブルに並べはじめた。


「五百万円を用意した。それで原島プロダクションを再建しろ」


「だが、これは伯母さんの葬儀費用じゃないのか」


「おれを殺すんじゃねえ。まだ死なねえぞ。この金は事務所の賃貸料から、毎月、銀行に積み立てておいたものだ。いつかはこんな日が来るだろうと予想していた」


 それで、あこぎに賃貸料を催促していたのか――。


 義行は膝の力が抜けた。深く頭を垂れる。身体の内側が、かーっと熱くなる。伯母さん、ありがとう――その言葉が頭のなかに響いた。


 礼を言おうと顔を向けた義行に、


「おれは小さいころのおまえを育てた。金にだらしないのは承知のうえだ。おまえから芸能プロダクションを起こすと聞いたとき、それに賭けてみる気になった。おれはギャンブルを好まねえ。だから一生に一度の大勝負だよ」


「伯母さん、ありがとう。おれは誤解していた」


「いいから、とっとと銀行に持っていけ。その五百万を無駄にするんじゃねえぞ」


 福田が札束をセカンドバッグに戻し、それを義行に渡してくれた。あらためて伯母にお礼の頭を下げた。戸口で思いついて娘を振り返る。


「お母さんには、楓が女優を目指せるよう説得するから」


「はい。社長、お願いします」


 楓のはずんだ声を背中で聞きながら、義行は病室を出た。心もはずむ。


 ――本当に嫌なばあさんだ。



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