0079割れた壺事件01☆
(一)割れた壷事件
「だから起こしてくれって言ったのに……!」
純架が息を切らしながら文句を吐き掛けてきた。俺は走る勢いを弱めることなく愚痴を炸裂させる。
「馬鹿野郎、目覚まし時計が電池切れなんて普通予測がつくかよ!」
薄曇りの朝だった。夜半に降ったという雨は上がっているが、その名残りが大小の水溜りに変貌して通行者を威嚇している。靴裏は地面に塗りたくられた透明の絵の具を跳ね、こころよい水音を立てた。
平日の朝だった。通行する学生は他にいない。それもそのはず、朝のホームルームが始まるまであと5分しか猶予がないのだ。折り目正しく登校した連中は、今頃とっくに教室の椅子に納まっていることだろう。
いつもは俺が目覚ましの騒音で鼓膜を殴られて起きていた。そして歯磨きと身支度と朝食をてきぱきこなし、隣家の純架を起こしに行っている。純架は朝を食べず、歯磨きも前日の夜に済ませているため、必要なのは顔を洗って制服に袖を通す程度。そうして二人連れ立って、駅へ向かって歩き出していたのだ。つい昨日までは……
今朝は鳴るべき目覚まし時計が鳴らず、お袋はまだ夢の中ということで、必然俺は遅れて起床した。時刻は無情にも8時を回っている。何たる失態……!
だが、道中を全力疾走すればまだ間に合うはずだ。俺は純架を迎えると、ボタンを掛け違えたままの彼を無理矢理道連れとした。ダッシュ! そうして電車に飛び乗ると、車内で呼吸を整え、渋山台駅で転がるように飛び降りた。後はもう、再び疾走するだけだ。
『無人島の攻防事件』で右足を撃たれて重傷を負った俺だったが、幽霊であるまどかの治癒能力のおかげですっかり治ってしまった。痛みすらもう感じなかった。医者は俺の完治した傷跡を見て仰天し、今後の研究に協力してほしいと懇願してきたが、俺はすげなく断った。モルモットになる時間もプライドも惜しかったからだ。そんなわけで、今は松葉杖どころか普通の歩行補助具さえいらず、全速力で走っても何ら問題なかったのである。
俺は腕時計を見た。あと5分。何とか間に合うか。
そう安堵したときだった。
「おや、大変だ」
純架が急停止し、歩道脇の階段を見やった。その先、中段の踊り場辺りで老婆がうずくまっている。上品な洋風の装いで清潔感があった。俺は反転して純架の元に引き返す。彼はぜえぜえ言いながら、よろめく足でステップを上った。
「大丈夫ですか、お婆さん」
純架は汗みどろで彼女に話しかけた。お前こそ大丈夫かよ、と俺は肺を酷使しながら息を整える。老婆はゼンマイ仕掛けの人形よろしく、ぎこちなく純架に顔を向けた。精一杯の強がりで笑う。
「いえ何、ちょっと膝が痛んだもので。大丈夫ですよ。お急ぎのようだし、どうぞ構わず行ってください」
壁に手をついて立ち上がろうとする。だが「あいたたた」とうめくと、再び腰を落とした。
純架はすぐそばに腰を下ろし、老婆に背中をさらした。
「覆いかぶさってください。天辺までお連れします」
俺は腕時計を見て焦燥に身を焼かれた。
「純架! 間に合わなくなるぞ!」
「君は先に行きたまえ」
純架は落ち着いた声でそう言った。逡巡する老婆に肩越しの笑顔を露わにする。
「さ、お婆さん。ご遠慮なさらず」
老婆は痛む膝を押さえ、ため息をついた。決心するように面を上げる。
「ではすみませんが……」
「はい、どうぞ」
老婆が純架におんぶされた。純架は腰を上げると、階段の頂上目指して上り始める。
俺は地団駄を踏みそうになる心を抑え、一つ深呼吸すると、階段に足をかけた。
「しょうがねえな、まったく」
純架に付き合うことにして、俺は老婆を背負った彼の後ろについていった。階段は果てしなく続くようでもあり、あっという間に終わりそうでもあった。純架の体は俺より貧弱だが、老婆が見た目より軽いのだろう、それほど苦にしているようには感じられない。
朝のホームルームに完全に間に合わなくなり、遅刻の烙印を胸に押される。ああ、もうどうにでもなれだ。純架は階段を上り切ると、壊れ物のように老婆をそっと下ろした。
「ありがとうございます、ありがとうございます」
老婆は手を合わせて、この心優しい学生に感謝した。純架は謙遜した。
「とんでもない、当然のことをしたまでです」
老婆がお辞儀して去ると、純架は突然片膝をついて険しい顔になった。
「今度は僕の膝が……! 楼路君、僕を背負って階段を下りてくれたまえ」
嘘つけ。
「ルールは守らないとな。桐木、朱雀」
ホームルームの終わり頃になって、俺と純架はようやく1年3組に辿り着く。そこで教壇に立つ宮古先生からきついお叱りを受けた。
純架は老婆を助けて遅れたことを漏らさなかった。俺の方はただ純架に付き合っただけで、別に人助けをしたわけではない。遅刻の罪は甘んじて受けた。
教室中の生徒が興味津々と、俺たちのやり取りに注目している。俺は羞恥心をかき立てられ、軽い屈辱にむせてしまいそうだった。
宮古先生がボールペンでクラス名簿に何やら書き込んでいる。俺たちの到着時刻を記載しようというのだろう。
「惜しかったな二人とも。せっかく今まで無遅刻を守ってきたのに……。破れかぶれになって遅刻の常習犯にならないようにしろよ」
「すいませんでした」
俺は純架と共に頭を下げた。納得できない感情を喉の奥に隠して……
先生が去ると、教室は無秩序な会話でざわめいた。友達の岩井や長山が俺をからかう――もちろん冗談半分で、だ。それを苦笑いと「足の怪我がうずいたせい」という嘘で誤魔化し、俺は純架に尋ねた。
「何で人助けの善行を積んだってのに、そのこと言わなかったんだ?」
純架は首を振った。ついでに腰も振った。彼にしか見えないフラフープを回している。
「言ったところで僕たちが遅刻したことには変わりない――ただそれだけのことさ」
昼休みになった。俺は購買へパンを買いに歩き出し、追随してくる者にびっくりした。
「何だ純架、お前は弁当じゃなかったっけ?」
俺を驚かせた純架は、別段そのことを勝ち誇るでもなく肩をすくめた。
「今朝は母さんが風邪で寝込んでいてね、弁当を作ってもらえなかったんだ」
「あのサバゲーの人か。お大事にって伝えといてくれ」
「そういうわけだから、人生初購買さ。よろしく頼むよ」
そのまま1階へ下りて店に向かう。購買には男女それぞれの生徒たちが大量に群がって、お目当てのパンの争奪戦に死力を尽くしていた。受け付けるおばちゃん店員が絶妙な手捌きで商品とお金を交換する。まるで千手観音だ。
純架は怖気づき、不安そうに俺を見上げた。
「何だいあれ、まるで戦争じゃないか。楼路君はいつもあんなのに飛び込んでいたのかい?」
「おう、歴戦の勇者って奴だ。純架、お前はここで待ってろ。俺がお前の分も買ってきてやる。何か欲しい物あるか?」
「じゃあアボカドパンで」
ねえよ。
「適当に見繕ってやるよ」
俺は狂気に囚われたとしか思えない群集の中へ、この身を躍らせた――
「大漁、大漁」
俺はカツサンドとアンパン、クリームパン、コロッケパンを抱えて帰路についていた。一方純架は焼きそばパン、ピザパン、メロンパンを落とさないようについてくる。
「見直したよ楼路君。君にこんな特技があったとはね」
「だから言っただろう、歴戦の勇者だってな。にしてもそれで腹は足りるのか? 予算内に収めたとはいえ……」
「何、僕はそれほど胃袋が大きい方じゃないからね。これで十分さ」
腹が鳴った。ひもじい思いをさせてすまんと、自分の胃袋に謝罪しながら、俺たちは意気揚々と3階の1年3組に急ぐ。
と、その途中、突如背後から低い声で呼び止められた。
「待ちたまえ。君は桐木純架君だね?」
振り返ると、でっぷり肥えて腹が戦車のように丸く膨らんでいる老人がたたずんでいた。この渋山台高校の最高権力者――校長の前谷翔一郎先生だ。
前谷校長はいつもの朝会で披露している愛用の薄黄緑のスーツを着込んでいる。頭髪は耳の周囲に白髪が残る程度。小さな目、太い鼻、割れた顎が特徴だった。『探偵部』部員、辰野日向が掛け持ちで属している新聞部は、その機関紙『渋山台高校生徒新聞』で毎号彼の写真を掲載している。この前の生徒連続突き落とし事件では、マスコミや保護者へ誠実な対応をして、逆に株を上げていた。
純架はこの有名人に当然の疑問を投じた。
「よく僕が桐木純架だとお気づきになられましたね」
校長は笑い、その余波で腹を揺する。それはあたかもダルマのようで、転がっても元の体勢に戻りそうだ、などと不謹慎なことを俺は考えた。
「君の活躍は新聞で読んだからね。そのときの写真そのままの横顔で、これは間違いないと踏んだのだ。実は内密な話があるのだが、ちょうどいい、3階へ行く手間が省けた。校長室に来てくれないか」
校長室? 一体何のためだろう。俺はぴんと来た。
「まさか今朝の遅刻を咎めるって訳ではないでしょうね」
校長は一瞬不思議そうにまばたきした。
「遅刻? いや、それとは関係ないよ。君は『探偵部』の一員かね?」
彼に問いかけられ、俺は何となく背筋を伸ばす。緊張していないといったら嘘になるだろう。
「はい、1年3組の朱雀楼路と申します」
校長はにっこり笑った。皺がほうれい線に深い。
「なら君も一緒に来なさい。今、わしは君たちの力が必要なんだ。校長室へ行こう」




