0077無人島の攻防事件07☆
「うん、頼むよ」
月明かりの下、俺は健闘し、善戦した。だが最終的な勝利を勝ち得なかったのは、やはり右足が痛むのと、波が次第に高くなってきたからだ。高波が舷で砕け散り、しぶきとなって四散する。それを立て続けに食らうと、舟の進行方向を維持するのさえ厳しくなるのだった。
サラが声にならない悲鳴を上げ、純架の腕にしがみつく。純架は彼女を守りながら、前後左右上下に揺さぶられる舟に全力で掴まった。俺も海水のシャワーを連続で浴びながら、オールを握り締めて窮地を耐える。
だが一連の冒険で極端に疲労していた俺たちは、どんどんその力を削られる一方だった。手足の感覚が麻痺し、舟の揺動に食らいつくので手一杯になる。思考力が低下して目の前がかすみさえした。
純架が苦しげにうめく。己の判断を悔いているようだった。
「すまない、楼路君。やはり君とサラ君を置いて、僕一人で助けを呼びに行くべきだった」
俺は心から憤慨した。純架の後悔を蹴り飛ばす。
「馬鹿野郎、お前一人を大荒れの海に送り出すなんてできるか。今となっては言うべきじゃないかもしれないけど、3人で島にとどまるべきだったんだ。もう――手遅れだけどな」
「楼路君……」
波高はいよいよ増し、舟が転覆しないのが不思議なほどだった。もう限界はとっくに超えている。俺たちは海の藻屑となるその一歩手前まで来た。波の乱打を受け、暴れ馬のように躍り狂うボート。それに翻弄されながら、純架がとうとう諦めを口にした。
「ここまでか……!」
大自然は非情だ。理がある者だけを守ってくれるわけではない。俺はその凄まじい力に抵抗を封じられ、打つ手をなくして絶望に捉われた。
水飛沫が間断なく舞い、ボートは水平を保つことなく揺動する。その角度が耐え難いレベルまで上昇し、俺たちは転覆寸前でどうすることも出来ずにいた……
そのときだった。
「光だ!」
純架が叫ぶ。遠くの方で白光が瞬いているのが識別された。漁船か?
白い船体がエンジンの爆音を伴って夜闇を切り裂いてくる。それは急速にこちらへ近づいて、遂にはまばゆいライトで俺たちを照らし上げた。
『純架、楼路! 無事だったか!』
拡声器で増幅された声には聞き覚えがあった。奴も生きていたのか。
「英二!」
これで助かる。俺はあまりの歓喜に、片足で立ち上がって手を振った。
「馬鹿、楼路君!」
ひときわ大きな波がボートを襲った。俺はあっけなくバランスを崩し、海中に転落した。
俺は死んだのだろうか。
右足に酷い怪我を負っていたから、立ち泳ぎもできなかった。
海水を飲み込み、真っ暗闇を真っ逆さまに落ちていく。
純架は助けに来ないだろう。
サラを置いて救出に飛び込む桐木純架ではない。
つまり俺は、助からない。
たった16年の人生だったが、それなりに楽しかった。
最後はこんなことになったが、これもまた乙な終わり方だ。
飯田さん。
いや、奈緒。
せめて彼女にひと目会いたかった。
なんか鎖挽島に打ち上げられる前にも同じことを思ってたな。
つくづく進歩のない俺……
「朱雀君!」
目の前に白い手が差し伸べられている。
それは漆黒の空間にひときわ映えて、まるで水鳥の羽のようだった。
「朱雀君!」
俺はその声が奈緒のものであることに気付いた。
とすると、この手も彼女のものか。
柔らかそうで、夢のようだ。
俺は上手く動かない手を必死に伸ばし、彼女のそれを掴んだ。
力強く引っ張り上げられる。
俺は暗黒の中を急速に上昇し――
「朱雀君!」
俺は目を見開いた。
と同時に、口からポンプのように水を吐き出す。圧倒的な痛みに七転八倒した。
「うえぇっ」
出しても出しても終わりがない。気持ち悪くて地獄にいるような気分だった。
意識が徐々に戻ってくる。あれ、俺は死んだんじゃなかったのか? 海中に落ちて、溺死したんじゃ?
俺の目の前に、見知った顔が並んでいる。背中に伝わるのは硬質な床の感触だ。どうやら俺は仰向けに寝ているようだった。揺れているから船上だろう。頭を振って更に海水を吐き出し、俺はどうにか目の前の面々を識別した。
「飯田さん……!」
奈緒の顔がくしゃくしゃに歪む。零れ落ちる涙が俺の頬を叩いた。
「朱雀君、良かった。奇跡だわ。生き返った……!」
彼女はそう呟いて微笑む。船の甲板で、盛大な歓声が湧き起こった。
その後、彼女から前後を聞かされた。
純架は俺が海に落ちた際、サラを投げ出さん勢いで、狂気のように救助を求めたという。それを受け、英二は借り受けた船からダイバーを送り出し、海中をさ迷う俺を捜索させた。そして俺は彼らの手で見事船上に上げられたのだが、既に心臓が停止していたらしい。
「そこで私が朱雀君に心臓マッサージを施したのよ」
奈緒は舌を出した。
「これでも将来は看護職につこうと思ってるんだ」
そして俺は心臓の鼓動を取り戻し、海水を吐いてあの世から生還したというわけだ。
「どこか痛いところや自由の利かないところはある?」
俺は上半身を起こし、両手を握ったり開いたりした。
「大丈夫だ。ありがとう、飯田さん。君は命の恩人だ」
純架が俺の傍らに片膝をついた。
「良かった。本当に良かった……」
なんと純架が泣いている。俺の手を取り、固く握り締めた。
「こんなことなら楼路君を生命保険に――僕を受け取り人として――入れておけば良かったと、そればかり悔やんでいたよ」
相変わらずの純架の奇行だったが、それを目の当たりに出来る幸せを、このとき俺は噛み締めていた。
サラも無事に救助され、今は日向の保護のもと、俺を心配そうに覗き込んでいる。俺は笑顔を返した。
「心配かけたな」
英二は結城と共に俺の右足に着目した。誰が見ても分かる銃創である。
「何かあったな。話せ」
純架は最初のボートから転げ落ちた一件から、その後の俺たちの苦闘を語り、最後に誘拐事件の全てを説明した。その間結城が俺の傷を本格的に手当てする。
「以上がこの事件の全貌だよ、英二君」
胸に手を当て、純架は話を締めくくった。今度は逆に問い直す。
「君も海に落ちたけど、あの後どうなったんだい」
「俺の遠泳能力はお前らとは桁が違う。俺は荒波を突っ切って海岸に戻り、結城と黒服にお前らの捜索をさせたんだ。近隣の漁船も駆り出してな。そしてつい先ほど、お前らの乗るボートを発見した、というわけだ」
「そうだったんだ。ありがとう、英二君。恩に着るよ」
俺たちが話している間も、船は帰港の途上にあった。純架はそのとき思い出したとばかり、
「そうだ、身代金! 英二君、電話は通じるかね?」
「ああ、大丈夫だ」
「警察に大至急連絡だ。サラ君は無事だとね」
その後、誘拐グループの佐々木は身代金受け取りに来たところを警察に逮捕された。鎖挽島の洞窟に放置されていた嶋尻と高山も御用となった。リーダー格の小坂井は計画の失敗を知り自ら出頭。こうして誘拐グループは全て捕らえられたのである。
一方、俺は病院に担ぎ込まれ、ふくらはぎの弾丸摘出手術を受けた。幸い弾は急所を外れていたが、骨にひびが入っており、全治一ヶ月から二ヶ月と診断された。
後日、病院で暇を持て余していた俺は、純架たち『探偵部』のお見舞いを受けた。
大量のアボカドが詰まったビニール袋――差し入れにしては数が多過ぎだろ――を脇に置き、純架は壁に向かって「テッポウ」を開始した。英二の延髄切りで我に返る。
「今日は僕らだけじゃないんだ。――入ってきてください」
扉が開く。現れたのはサラと外国人らしい大人の男女だった。白皙の顔に年相応の皺をたたえた、人好きしそうな彼ら。純架が自分の後頭部を撫でて紹介する。
「サラ君と、そのご両親だよ」
娘を四人組に誘拐され、さぞかし肝を冷やしたであろう2人も、最高の結末を得てすこぶる元気そうだった。夫のリチャード・タウンゼントは差し入れの食品袋を棚の上に置くと、英語で話しかけてきた。結城がワンテンポ遅れて通訳する。……てか、結城はそんな荒業もマスターしていたのか。
「『この度は娘のサラを救出していただき、本当にありがとうございます。負傷された朱雀様の一刻も早い回復を願っています』だそうです」
その後、俺たちは楽しく会話した。純架が奇行を発するのではないかと冷や冷やしたが、さすがに日本の恥となる行為は控えたらしい。
「『それでは、あまり長居していられない身なので……。この辺りで失礼します』とのことです」
俺は頭を下げた。ふとサラと目が合う。彼女の瞳が輝き、唇がかすかに動いた。たどたどしい言葉が紡ぎ出される。
「……サンキュー」
その場にいた全員が驚いた。喋った? サラが?
「オオ……!」
タウンゼント夫妻が頭を抱え、ついで両手を広げた。真っ赤な顔でサラを抱き締める。超越者の名を唱えた。
「『サラが喋った! 信じられない。神よ……!』」
体を張ってサラを守った俺に対し、どうしても声をかけたい。そんな力強い願いが、奇跡を起こしたらしかった。タウンゼント夫妻が涙を流している。
「『もう一度言ってごらん、僕らのサラ……!』」
「サンキュー……」
彼らは抱き合い、ささやかだが生涯忘れられないであろう出来事に大喜びだ。それを見ていた純架が呟いた。
「やれやれ、大小含めて、今回は奇跡だらけだね」
タウンゼント夫妻がサラを持ち上げ、スキップを踏んでいる。そうせずにはいられない、といったはしゃぎぶりだった。俺はその微笑ましい光景を眺めながら、純架に呟き返す。
「起きるから奇跡って言うのさ」
「うん、そうだね」
歓喜の輪はしばらく発現して、冷房の効いた室内は一転、暖まるものとなった。




