0075無人島の攻防事件05☆
「役に立つのか、その経験」
俺は足を引きずりながら、純架の支えでどうにかこうにか森を前進した。いつしか空は晴れて、傾き出した太陽が王者の貫禄を見せる。この森で夜を迎えるなんて想像もしたくない。俺は心配そうにこちらをうかがうサラの頭を撫で、逃避行を続けた。彼女には申し訳ないが、もう少しその小さな足で、この険しい森を歩いてもらうしかない。
気になることがあった。足跡だ。日光を浴びて再び乾き始めた地面に、俺たちの足跡はくっきり残ってしまっている。今度は俺と純架、サラの三人分だ。追跡者にとってこれは絶妙の道しるべとなるだろう。俺が足手まといになっているうちに、静かに距離を詰められているかもしれない。
「純架、俺は邪魔だ。俺を置いていけ」
……などと言い渡せれば理想的なのだろうが、現実の俺は口をつぐむばかりだ。
死にたくない。殺されたくない。それは人生初の大怪我を負ってしまった今の俺の本音だった。重傷にうずく右足は、俺の命を確認する大切な指標だ。自分が生きてると教えてくれる、この苦痛。それがどんなに辛くとも、手放す気は毛頭なかった。
純架が小さく歓声を上げた。
「草地だ。足跡を残さずに済む」
ぬかるむ泥濘を抜け、下生えの豊富な地帯に到達する。両足に絡みついた泥という名の呪縛がなくなると、思っていたよりスムーズに足が運べた。足跡も注意深く見なければ分からないだろう……と思いきや。
「血が……」
酷使された俺の足からは、また出血が起きていた。赤い雫が草に染み渡る。畜生、これでは連中に丸分かりだ。
おまけに純架も俺も、サラさえも、疲労困憊の極みにあった。純架は俺を支えたため、俺は出血のため、サラはその虚弱な体のため、それぞれ歩行が鈍くなってきていた。
このままでは……。そう思っていると、純架のリュックから声がした。
「トランシーバーだ」
思ったよりクリアな、しかし持ち主の知性を疑うようなダミ声が流れてきている。
『サラ返せよ、オラっ! 逃げ切れると思うなよ、この糞ガキどもが!』
たったこれだけで、さっきの男が別の男に助けられ、情報を交換し合ったことが分かる。今頃全速力でこちらを追ってきていることも。
返信の理由を認めず、純架は先を急いだ。
「あ、あれは何だ?」
目の前に開けてきた絶壁に、高さ3メートル程度のほら穴があった。あれだけの豪雨にもかかわらず内部は乾燥している。
「洞窟だ。奥までかなりありそうだ」
「中に入るのか?」
「まさか。追い詰められて逃げられなくなるだけさ。……でも」
純架の瞳が燃え上がる。不敵な笑みを俺に向けた。
「一計を案じてみようか」
俺は洞窟の入り口から3メートルぐらい奥の場所に腰を下ろしていた。右足のふくらはぎが激痛を発しているため、両足をだらしなく伸ばして気をそらす。痛みは一向治まる気配がなく、俺の全身からは脂汗がにじみ出ていた。
「ちくしょう、あー痛ぇ……!」
安楽な体勢なため、出血は少しずつだが治まりつつある。
そこで不意に人間の気配があった。入り口から差し込む日光を影が穿つ。それは何ともまがまがしく俺の瞳に映り込んだ。
「いたな、ガキ」
中年男の二人組だ。片方はさっき俺の足を撃ち、純架に拳銃を奪われた胡麻塩頭。もう一方は初めて見る顔だった。痩せマッチョで無精髭を生やしており、目鼻立ちが小振りで中央に寄っている。無精髭が胡麻塩を救い、復讐の紅蓮の炎と化してこの洞窟に雪崩れ込んできたものらしかった。
「さっきはよくもやってくれたな」
胡麻塩頭の男は後頭部をさすりながら、逆襲の機会に目をらんらんと光らせている。
「サラはどうした。もう一人の美形の糞ガキはどこにいる」
俺は暴れまわる心臓をやり過ごす闘牛士の気分だった。努めて冷静さを装う。
「さあな。今頃俺を置いてどこかへ逃亡したんじゃないか」
無精髭が角張った拳銃を取り出した。その銃口を俺の体にピタリと合わせる。
「舐めてるのか?」
三白眼の彼は全身から殺意を発散させていた。俺からすると理不尽極まりなかったが。
「サラはどこか言え。言わないなら殺すまでだ」
冗談の要素は微塵もない、純度100パーセントの最後通牒だった。緊迫し張り詰めた空気が、重苦しく俺の両肩に圧し掛かる。あの引き金が引かれたら、俺は凄まじい激痛と共にあの世行きなのだ。俺は震え上がった……
その直後だった。
「動くな!」
純架が拳銃を手に男たちの背後を取っていた。洞窟の外で隠れ、この危機に参上したのだ。胡麻塩頭から奪った得物は、正確に無精髭に狙いを定めている。
「動いたら殺す」
俺にピストルを向けている無精髭は、しかし一ミリほども動揺しなかった。自らの肩越しに背後の純架を見やる。声調に乱れは微粒子ほども存在していない。
「ガキが大人の真似をするな。武器を捨てて手を挙げろ」
「御免こうむるね。そちらこそ銃を捨てるんだ」
無精髭は嘲笑した。大人の余裕がある。
「お前みたいな青臭いガキに銃が撃てるものか」
その一瞬後、純架は天井目掛けてピストルを発射していた。轟音と共に岩が弾け、砕けた破片が底に散乱する。純架はすぐに照準を無精髭に戻した。
「これで分かったろ? 僕は本気だ」
無精髭はまぶたを全開にして純架を観察した。そして、笑い出した。洞窟に響き渡るその声は、そこらのオペラ歌手顔負けの代物だった。
純架も笑い出す。面白いのではなく、単に意地だ。こちらも澄んだ、音楽的な響きだった。
二人の男は場所も忘れて、しばし屈託なく笑った。
次の刹那、無精髭が俺から純架に銃を構え直した。その引き金が絞られ――ない。それより速く、純架の砲身が火を噴き、無精髭の拳銃を弾き飛ばしていたのだ。
「うげえっ!」
無精髭は凶器とともに数瞬前の余裕を吹き飛ばされた。曲がってはいけない方向に曲がってしまった人差し指を押さえ、その場にうずくまる。
「ほ、本当に撃ちやがった……!」
俺は凝結する男二人をよそに、飛ばされた拳銃を這いつくばって拾った。純架が硝煙を吐き出すピストルを構え直す。
「まさか銃に当たるとは思いもよらなかったけど……。幸運だったね、お互いに」
本当にそうだ。俺は長く息を吐き、心から安堵した。純架は危うく「人殺し」になるところだったのだ。
「さて、僕の本気が分かっただろう? 撃たれたくなかったら下着以外の服を全部脱ぐんだ」
男たちは一も二もなく従った。指を折られた無精髭は、その甚大な激痛ゆえ脱衣に少々手間取ったが、それでも指示通りに終えた。
「楼路君、縛り上げて」
俺は半裸の二人組それぞれの両手両足を、奪い取った靴の紐とベルトで縛った。更に彼らが連絡に使っていたトランシーバーも奪う。
全て終わると、純架は銃口を定めたまま尋問を開始した。
「改めて聞くけど、君たちはサラ君を誘拐してこの島に監禁していた。間違いないね?」
「…………」
「そして恐らく、この島から程近いどこかの港に仲間がいて、今頃被害者家族と交渉しているんだろう。違うかい?」
「…………」
「サラ君を殺さなかったのは、とりあえず身代金が来るまでは生かしておこうと思ったからだね?」
「…………」
純架はいきなり胡麻塩頭を指差し、「あっち向いてホイ!」と叫んで人差し指を上に曲げた。胡麻塩は反応せず、相変わらずの仏頂面をさらに険しく歪めただけだ。純架はがっかりしたようにため息をついた。
「つまらない人だな」
お前もな。
純架は矢継ぎ早に質問した。それはどれも要点をつくものだ。
「それで、君たちは何者だ? 全部で何人いるんだ? ここにはどうやって来たんだ? 身代金の受け渡しをどうやりきるつもりだったんだ?」
無精髭が嘲笑した。下着一丁で腕と足を縛られているのに、まだ不敵さを残している。
「さあな」
純架の眉間に皺が寄った。男たちが俺らをあくまで小僧と見なす、その証拠のような笑いだったからだ。
外は黄昏時の明るさに包まれている。無精髭が身じろぎした。
「それより拘束を解いてくれないか。さっきから用を足したくて仕方ないんだ」
「用? その場ですればいい。僕らは一向構わないよ。ただ君を『お漏らし中年』として撮影し、SNSにその写真を上げるまでさ」
構ってるじゃないか。
「そいつは勘弁だ。つうか、マジで出そうなんだ。それも大きい方が」
純架は無精髭の訴えに、耳を貸すべきか否か迷っているようだった。
「何もしない、と約束できるかい?」
俺は右足の激痛をこらえながら、彼の注意を喚起した。
「やめとけ純架。こいつらは俺たちを殺そうとした。気を許したら命取りだ」
無精髭が必死の形相で喚く。切羽詰った声だった。
「ああ、もう出そうだ。早く! 早く自由にしてくれ! 出ちまう!」
純架は肩をすくめ、拳銃を地面に置いた。しばらくMr.マリックよろしく両手をかざして「浮かべ……浮かべ……」と唱えていたが、銃は全く動かない。
お前にハンドパワーなんかねえよ。
「楼路君、君の持つピストルでこのおじさんに狙いをつけていてくれたまえ」
純架は用心深く無精髭に近づく。そしてその上半身を起こさせ、後ろ手に縛られている拘束を解いた。
「ほら、これで自分のトランクスも脱げるだろう。隅っこでしたまえ」
次の瞬間、無精髭の肘が純架の顎をしたたかに殴りつけていた。轟音が洞窟内に響き渡る。




