0007血の涙事件03☆
「今は肖像画と雑巾は?」
「音楽準備室に隠してあるわ」
畑中先生は全て話し終えて、少し肩の荷が下りたようだった。その彼女に、純架はこともなげに言う。
「じゃ、現場と品物を見に行きましょう」
「ええっ?」
ただでさえ白かった畑中先生の顔が青ざめた。たぶん俺も同じ表情だったろう。純架は平然として立ち上がった。
「何、プーランクはショパンを尊敬していたんですよ。きっと先生の巧みなプーランクを聞いて、ショパンも感動の涙を流したんです。そう思えば怖くないでしょう?」
いや、怖いだろ。
そして俺たちはおっかなびっくり、音楽準備室前へと移動した。蛍光灯の白光が廊下を照らし出し、対照的に室内をより暗く見せている。寒さもあって俺は身震いした。純架がうながす。
「早速見せてください、先生」
畑中先生は怖気づいて、胸を押さえて深呼吸した。
「あんまり近づきたくないけど……でもそうね。いつまでも避けていられないし。仕方ないわ」
自分を奮い立たせるように、鍵をドアの穴へと差し込んだ。不気味な金属音が鳴り響く。
俺と純架は畑中先生の後に続いて準備室に踏み込んだ。壁沿いの棚には黒い楽器ケースが並び、本棚にはファイルやノートがぎっしり詰まっている。窓際に教卓が据えつけられ、車輪付きの柔らかそうな椅子が寄り添っていた。あんまり窮屈なため、音楽室への出入り口は半ば塞がれている。
そして机の上に、問題のショパンの肖像画が置かれていた。赤い涙の跡のあるショパンはこちらを凝視して、まるで呪いをかけてきそうだ。俺は正視できず目を背け、そんな情けない自分を心中必死で擁護した。それとは別に、不快感をもよおす嫌な臭いが嗅覚を襲い、俺はうめく。
「こりゃ何の臭いだ」
畑中先生は純架の背に隠れるようにしていた。純架は気にせず肖像画を無造作に検める。何か納得できることでもあったのか、しきりに首肯していた。
「目の下に何か破片のようなものがこびりついているな。これは何だろう?」
しばらくの間指でなぞる。不意にその両目がいたずらっぽく輝いた。
「……犯人は当たったかな、ハラヘライスト」
その後、赤い軌跡を精密に調査した。虫眼鏡まで使う念の入れようだ。
「それからこの血。確かに目から流れ落ちた跡がある。ひどい臭いだ。人間のものじゃないな――そう、豚か何かだ。ふむふむ、なるほど」
急に肖像画への興味を失ったように、かたわらの雑巾に着目する。畑中先生が、床に落ちた血の涙を拭くときに使ったものだ。
「何かの粕がこびり付いているようだけど……。こっちは駄目だ、別の汚れが多すぎる。……さて、後は脚立か」
純架に目線を向けられると、畑中先生はすまなそうに首を振った。
「脚立はもう用務員さんに返してしまってここにはないわ。必要なの?」
「いや、必要ありません。ただ、脚立でも使わないとあの高さの肖像画は付け替えできませんね。それか……」
純架は一人沈思する。俺は我慢できずに口を開いた。
「さっきから何一人で楽しんでるんだよ、桐木。分かったことがあるなら教えろよな」
「全ては仮定さ。まだ吹聴して回るほどの成果はないよ。それに、教えてほしいなら『探偵同好会』に入会してくれないとね。……ところで先生、明日の朝もピアノ練習をやるんですよね?」
畑中先生はうろたえた。まるで小動物のようだ。
「毎朝の日課だし、そうしたいけど……。でもこんな状況じゃ怖くて音楽室に一人でいられないし……」
「僕らが付き合います」
僕「ら」? 俺は眉間に皺を寄せた。相変わらず人の迷惑を考えない奇人に対し、ドスの利いた声を放つ。
「何勝手に決めてんだコラ。俺は朝が弱いんだよ! そうでなくても誰がこんな薄気味悪い話、首を突っ込むものか」
「もう突っ込んでるじゃないか。毒を食らわば皿までだよ、楼路君」
お前がつき合わせたんだろうが。一方畑中先生は、気の毒になるぐらい俺に哀願してきた。
「私からもお願い、朱雀君。一人でも多いほうが心強いわ」
俺は長く息を吐いて、反発する感情を抑えつけた。先生の切実な頼みを断ることは男がすたる。くそ、こうなりゃやけだ。
「分かったよ。分かりました。起きられるかどうか分からないけど、じゃあ俺も登校するよ、朝っぱらからね」
翌日は天を覆っていた雲も消え去り、見事なまでの快晴だった。俺は純架に言われた時刻――午前5時半にはもう登校準備を終えていた。前の晩に早く眠っておいたのが効果てき面だったらしく、目は冴えていた。俺は玄関の前で純架が出てくるのを待っていたが、いっこう現れない。
仕方なく純架の家のインタフォンを鳴らした。ややあって聞き慣れた声が応対する。眠そうな、しょぼくれた口調だった。
『はい、ドナルド・トランプです』
だまされるものか。
「お前が誘っておいて何ふざけたこと抜かしてるんだ。さっさと行くぞ」
『あれ、楼路君か。やあ、そうだったね、畑中先生と約束したんだっけ。ちょっと待ってて』
5分後、ようやく制服姿の純架が出てきた。
「お待たせ。早速ポケモンマスターを目指しに行こうか」
スマホのゲームじゃねえよ。
まだ昨日の雪があちこちに残る中、俺たちは学校へ向かった。純架は遠い目で、「そういえば僕が死んだふりして楼路君を騙してから、早いものでもう24時間近く経つんだねえ……」と口にする。
懐かしがるほど昔のことか?
畑中先生とは職員室で落ち合った。彼女は音楽室に一人でいるのはやはり心細いという。まあ当然だわな。
「では行きましょう」
純架の先導のもと、俺たちは昨日同様、恐怖の現場へと足を向けた。ピアノコンクールを前にして、大切な練習を中断するのは明らかにまずい。さっさと事件を解決する必要があった。
純架は畑中先生に尋ねる。
「誰かに恨まれているような覚えはありますか?」
彼女にはこの質問が意外だったらしい。驚いて小さく手を振った。
「いえ、そんなことは……。私は同僚や生徒との関係を大事にして、誰にも分け隔てなく接してきたつもりよ。悪口だって控えてきたし。私を恨む人間なんているはずがないわ……」
純架は立てた人差し指を唇に当て、「しーっ」と息を吹き出した。静かにしろ、ということか。俺たちは立ち止まって耳を澄ませた。
どこからともなくトランペットの音が聞こえてくる。それに、別の楽器の音も。結構な音量だ。
「先生、この音は?」
「私が顧問を務める吹奏楽部の生徒よ。自宅に楽器を持ち帰って、次の日の朝早くから登校して練習しているのよ。吹奏楽部は朝練をやらないから、自主的に、ね。今日に限らず、いつものことだわ」
「昨日の放課後は音楽室ががらんとしてました。吹奏楽部の活動はなかったようですが……」
「私はショパンの肖像画のこともあって、昨日の午後練を中止させたの。表向きには練習尽くめの生徒たちを休ませる、と言って……」
畑中先生は両手を揉み絞った。
「さすがに二日連続同じ理由での中止は無理だわ。桐木君、何とか今日の放課後までに真相を突き止めてくれないかしら……」
切実な願いだ。しかし純架はさっきから続く何者かの演奏に耳を傾け、何なら窓にへばりついてさえいた。その眼差しは真剣そのものだ。
「彼らだ」
俺はその一言に込められた怒りを聞きとがめた。
「何が『彼らだ』なんだ?」
「先生」
純架は俺を無視し、畑中先生に正対する。毅然とした態度だった。朝日を浴びる彼は神話の世界の住人に見える。
「先に音楽室に行って待っていてください。――ああ、ご心配なく。もう血の涙を流す肖像画は現れませんし、ショパンも二度と泣くことはないでしょう。ちょっと楼路君と野暮用を済ませてきます。では」
彼女を置き去りに、純架は俺の腕を引っ張って歩き出した。肩越しに振り返ると、畑中先生はわけが分からないとばかりに立ち尽くしている。俺は意外に強い純架の握力に翻弄されるばかりだ。
「おいおい、どこ行くんだよ?」
「この音の発生源さ」
純架は珍しく真面目だった。美男子にしか出来ない格調高い憤り方である。
「いたずらが過ぎたんだよ、まったく」
音楽室のある3階には行かず、少し離れた旧校舎の2階空き教室へ向かっていく。トランペットと別の楽器の演奏が次第に大きくなってきた。純架は無遠慮に発生源の部屋の引き戸を開ける。
椅子に座って楽器を鳴らしていた女生徒2人が、突然の乱入者に驚いて息を止めた。静かになった教室に純架の声が響く。
「『彼ら』じゃなくて『彼女ら』か。2年生の方ですね?」
女2名はお互いを見合った。青いリボンが上級生であることを示している。三つ編みの平凡極まりない容姿の少女が、俺と純架のいる正面に向き直って答えた。
「そうよ」
「じゃあ敬語で話します。……あなた方が、ショパンに血の涙を流させた犯人ですね?」
2人は石で殴られたかのように仰天した。俺もいきなりの展開に面食らう。きつい目の方が椅子から倒れそうになって慌ててバランスを戻した。三つ編みが口を押さえて叫ぶ。
「なんで分かったの?」
「馬鹿!」
きつい目をした女子の方が、三つ編みの先輩を強くなじった。最初の驚愕が過ぎ去ると、冷静さを取り戻したのか、きつい目は椅子に座り直して傲然とした。少し太り気味のきらいがある。
「何のことだか分からないね。ていうか、お前ら誰だよ?」