0068『114』の鍵事件02☆
「どうだ結城、せっかく来たんだ。泳ぐ姿を見せてみろ。俺より速いバタフライ、久しぶりに見てみたいんだ。今回は海と違って荷物番に徹しなくてもいいんだからな」
結城は英二のふくらはぎを淀みなく揉みしだいている。
「しかし、それでは英二様の護衛が……」
「何、楼路がいる。心配するな。これは命令だ、結城」
結城は心の葛藤に五秒で蹴りをつけた。しなやかに立ち上がる。
「……承知しました。それではしばしお待ちください」
結城が25メートルプールの順番待ちに並ぶ。高校一年とは思えぬほど張り出した胸、くびれた腰は、周囲の好奇の目を惹いてやまなかった。俺は眩しい思いで彼女を眺めた。
「しかし、英二と菅野さんっていつ頃知り合ったんだ?」
英二は目を閉じたまま、逆に質問してきた。
「なぜそんなことを聞く?」
「いや、二人ともあんまり完璧な主従関係の上、阿吽の呼吸だからさ。中学生からか?」
「幼稚園からだ」
「早っ。10年以上前からかよ」
英二はこちらを不思議そうに見た。
「何を驚く必要がある? 菅野家は代々三宮家に仕えてきたんだ。結城の着任はむしろ適切な頃合いだ」
結城が飛び込み台の上に乗った。いよいよか。俺と英二は身を起こすと、プールのそばに陣取った。
「だが楼路、俺たちは別にいつも二人でいるわけじゃない。例えば今年の春は、結城が各高校の状況を観察・検討・報告する義務を負い、俺の元を離れたりした」
「ああ、そういえばそうだったな。英二が遅れて転校してきたんだっけ」
「結城は少し離れていた一時期以外は、俺の影たるをもって任じてきた。光あるところに影あり。俺たちは二人で一人なんだ」
俺はその言いぐさに少し苛立つ。
「少し勝手過ぎないか? まるで菅野さんが英二に付き従うのが当たり前、みたいじゃないか」
英二は臆面もなくうなずいた。
「そうだ、当たり前だ。それで何か問題あるか?」
「お前な、良心とかないのかよ」
「おっ、泳ぐぞ」
会話が断ち切られる。俺たちの視線の先で、結城が透明な水の中へ切り込むように飛び込んだ。豹のような足と鳥の翼のような両腕を振るい、猛然とバタフライで突き進む。派手な水飛沫の中、その肢体は機械のような正確さで水を後方へと逃がしていった。並のスイマーなら裸足で逃げ出すであろう、驚くべきスピードだ。
「凄い……!」
俺は感嘆した。ちょっとこれは真似できない。結城の泳法は完璧で、その速度は一向落ちなかった。
25メートルはあっという間だった。結城はゴールすると、荒い息をつきながら梯子を伝ってプールから上がった。しなやかな四肢が濡れて陽光にきらめいている。
「見事だったぞ、結城」
「凄いね、菅野さん」
結城は頭を下げた。水滴がぽたぽたと地面に落ちる。
「お恥ずかしい」
普段感情の起伏を見せない冷徹な結城。しかし彼女はこのとき、かすかに微笑んだ。
「ちょっと小銭取りに行ってくるね」
プールが8分の休憩時間に入った頃、奈緒がそう言って更衣室へ歩いていった。『探偵部』はいったん集まって、遊び疲れた体を思い思いに休めている。自販機でアイスやカップラーメンを買う客が目立ち、係員が流水プールを潜行して危険物の有無をチェックしている。
「楼路さん、どこ行ってたのよ」
愛が不満に頬を膨らませる。流水プールで楽しんでいた彼女は、すぐにいなくなった俺を捜していたらしい。
「ああ、ごめんごめん。休憩終わったら俺も流水の方に入るよ」
「約束だからね!」
純架が横目でちらりとこちらを見たが、黙って視線を外した。「甘やかすな」と言いたげだった。俺は奴の兄馬鹿ぶりにくすりと笑う。
英二はウォータースライダーの全景をつぶさに観察していた。
「俺もやってみるか。何事も経験だ」
彼が挑戦したら、それこそ小学生にしか見えない気がするが……。英二は結城にアイスコーヒーを渡されると、礼も言わずストローに口つけた。
それにしても。
「遅いな、飯田さん。何してるんだろ」
休憩時間が終わり、利用客たちが次々プールに飛び込む。だが彼女は現れない。人々の流れを傍観して待つこと5分。俺の疑念に対する答えがようやく得られた。
「大変大変!」
奈緒が更衣室から駆け足で戻ってきた。愛といい彼女といい、『プール場では走らない』との鉄則をいちいち破っている。
「何が大変なんだい、飯田さん?」
純架が好奇心から尋ねた。奈緒は俺たちの側に走り寄ると、弾む息を鎮めながら開口一番、
「鍵が入れ替わってるの!」
怒りとも悲鳴とも取れる語調で、そう叫んだ。
今より二時間前、このプールに来たときに話はさかのぼる。
女子更衣室に入った奈緒は、114番のロッカーを使い、水着への着替えを始めた。
「遅いよ、飯田さん」
愛があっさり装着し終わり、鍵を収納したリストバンドを手首にはめる。奈緒は抗弁した。
「大人は色々面倒なのよ」
適当なことを言いながらブラジャーを外す。愛が笑顔を咲かせた。
「わ、出るとこ出てるね! 触ってもいい?」
「駄目」
「ちぇっ、つまんないの」
近くで黙々と着替えていた日向と結城が、続々とドアを閉めた。二人ともリストバンドを手首にはめる。
「まだかかりそうですか、奈緒さん?」
「もうちょっと……」
結城が水泳帽の位置を調整した。
「私は先に行きます、飯田さん。英二様がお待ちかねですので」
こうなると奈緒も焦る。こんな時間がかかるなら、下はあらかじめ穿いてくればよかった。
それでも悪戦苦闘し、完全に水着姿になった。財布や鞄、衣服を開き戸の奥の小空間に押し込む。ドアを閉め、鍵を抜いた。扉がロックされたのを確認し、やっと終わったと一息つく。
「お待たせ」
しかし、見てみれば他の三人は既に出口に向かっていた。置いてけぼりを食ったようだ。奈緒は鍵を回してリストバンドに収めると、手首をその輪に通そうとした。
そのときだった。
「あいたっ!」
突然硬くて強い衝撃を胸元に受け、奈緒は尻餅をついてしまった。リストバンドが床に落ちる。
「ご、ごめんなさいっ!」
どうやら近くの利用客とぶつかってしまったらしい。痛む尻をさすりながら前方を見れば、黒いツインテールに燃え立つような茶色の瞳の少女が、慌てふためいて謝っていた。細く紡がれた眉、自己主張の強い鼻と唇が鮮やかだ。
「本当にごめんなさい、不注意でした! お怪我はしてませんか?」
年の頃は14歳辺りだろうか。若いわりに話す言葉は大人びている。奈緒は笑顔で答えた。
「大丈夫、何ともないから。あなたこそどうなの?」
「私は無事です。これ……」
少女がリストバンドを拾い上げる。奈緒は苦笑して受け取った。
「ありがとう。じゃ、私行くから。気をつけてね」
「はい、すみませんでした!」
「あのとき鍵が入れ替わったのよ!」
奈緒は力説しつつ手首を差し出した。リストバンドに黒マジックで書かれた番号は、彼女のロッカー番号「114」を示している。日向が首を傾げた。
「合ってるじゃないですか」
奈緒は彼女の顔に手首をぐっと近づける。いたって真面目だ。
「よく見て」
俺と日向は目を凝らした。
「……ん? これは……」
注意して見なければ分からないほどかすかだが、その番号「114」のうち「4」の字は不自然だった。それは明らかに「足されていた」。
「『1』の字か?」
俺が指摘すると、奈緒は大きくうなずいた。
「そうよ。この『4』の字、『1』と書かれていたものに線を加えて『4』にしてあるの。この鍵、『114』じゃなくて、『111』なのよ!」
奈緒は頭を抱えた。
「だから114番のロッカーを開けられなかったのよ。誰か見知らぬ客の一人が、前に111番を使った際、いたずらでマジックを足したのに違いないわ」
純架に助けを求める。
「どうしたらいいと思う、桐木君?」
純架は俺に対して「肘って十回言って」と請願してきた。俺は仕方なく「肘」と十回繰り返した。
純架は「それで?」と詰問してきた。
俺が知るかよ。
「そうだね、とりあえずその鍵で111番のロッカーを探ろうよ。本当に開くのかどうか、それで分かるはずさ」
「もう試したわよ。簡単に開いたわ。この鍵は111番ロッカーのもので間違いないわ」
奈緒は渋面で吐き捨てた。
「あのツインテールの子の着替えは入ったままだったわ。でも服だけ。スマホや財布とか、貴重品は入っていなかったわ」
純架は腕を組んだ。途方に暮れた、といった表情だ。
「やれやれ、まだ帰ってないと見るべきか。それとも……」
英二が提案した。それはごく普通で常識的なものだ。
「とりあえずプールの運営に頼んでアナウンスしてもらえ。鍵が入れ替わったから届け出て来い、ってな。まだプールにいるなら反応があるはずだ」
純架は全く異論の余地なしとばかり、この言に太鼓判を押した。
「そうだね、そうするべきだね」
奈緒は暗い前途に無念のため息をついた。憂鬱そうに空を仰ぐ。
「何でこんな目に遭わなきゃならないの……」




