0005血の涙事件01☆
(二)血の涙事件
4月中旬、季節はずれの雪が降った。この時期にしては数年に一度の強い寒気で、気温が平年を大幅に下回ったためだ。おかげで今朝は寒いの何の。天気予報の正確さに今回ばかりは恐れ入った次第だ。
「いい天気だね、楼路君」
純架は舞い落ちる雪を眺めながら、そんな素っ頓狂なことをのたまった。積雪の間を縫うように足で踏まれた泥道が続き、どうにか人を通している。それらの上にも新雪は絶えず降り続けていた。
曇天は重く垂れ込め、自然の脅威を人間に思い知らせるかのように、白い尖兵を次々と送り出してきている。午後には止むとの天気予報だが、これも信用していいのだろうか。
俺は傘を差したまま純架に答える。
「お前は凍え死んでもそんなことが言えるのか」
あの衝撃の初日から二週間と経っていない。
純架は自らの活動の橋頭堡たる『探偵部』の設立に大張り切りで、職員室の先生へ発足届けを出そうとした。だが部活動に必要な人数である6名に全く届いていないとして、あっさり却下されたらしい。まあ当然だわな。
それでも純架はくじけなかった。今度は『探偵同好会』といういささか間抜けな名前の同好会を立ち上げたのだ。たった一人で、である。これも規則にある最低人数の3名を超えていないため、同好会とすら認定されていない。
窮した純架は無論俺を誘ってきた。しかし俺は答えをはぐらかした。
こんなふざけた同好会、別にはっきり断っても良かった。それをかろうじて押し留めたのは、「事件の解決依頼が舞い込まない限り活動はない」という方針が気に入ったからだ。つまり事件がなければ帰宅部と同じというわけだ。それは大いにありがたかった。何もしていない帰宅部よりかは先生方の心証もよいはずだ――俺にはそんな打算もあった。
そこには俺の無類のゲーム好きも加わる。部活動よりテレビゲームだ。特に『デスストランディング』などの小島秀夫監督作品は、高級寿司のように大好物だ。帰宅部最高! ――だが、まだ最終的な判断には至っていない。
純架は傘を肩に担ぐように構えている。さぞや視界は広いだろう。
「桜の季節に雪が降るなんて素晴らしいじゃないか。凍死しても満足だね、僕は」
「いっそ凍死しろ」
「あれ、つれないね」
俺は純架の屈託のない笑いをよそに、あまりの寒さに亀のように身をすくめた。襟元から侵入してくる冷気がそうさせるのだ。やはりマフラーを巻いてくるべきだったか。
片道二車線の道路の脇には、ガードレールを境に街路樹と歩道が仲良く設置されている。前方から雨合羽を着た老人が通り過ぎていったかと思えば、転倒を恐れないのか小走りで駆ける妙齢の女性が、俺たちを追い抜いていった。
純架は道路脇に駐車している自動車に降り積もった雪を、手ですくって丸く固めた。投げてくる気か?
「ほら、楼路君」
純架は大きく振りかぶると、俺目掛けて雪つぶてを放ってこようとし――足を滑らせ仰向けにひっくり返った。
「痛っ!」
雪道に背中を強打する純架の情けない姿に、俺は盛大に失笑した。
「馬鹿が、自業自得だ」
「…………」
おや? 純架がまったく動かない。放り投げられた傘が逆さになってむなしく風にあおられている。
「どうした桐木? いつまでも死んだふりしてないで、さっさと行くぞ」
だが純架はそんな俺の催促にもまるで反応しない。大の字になったまま、空から舞い落ちる白い花びらを身じろぎもせずに受け止めている。指一本動かしもせず、純白の景色に同化しつつあった。
「おい、桐木」
俺は不安になり、ややきつめに名前を呼んだ。だが純架は呼びかけにも応じず、ただただ瞑目し、雲からの贈り物をその身に浴びていた。
「桐木!」
とうとう俺は居ても立ってもいられなくなり、純架のそばにひざまずいてその肩に手をかけた。
「おい桐木! しっかりしろ!」
不安という名の怪物にけしかけられ、俺は純架の体を強く揺さぶった。まさか、打ち所が悪くて死んでしまったのか――
と、そのとき。
雪玉が俺の顔面に炸裂した。
「やあ、引っかかったね」
俺は純架の得意げな声に、顔面雪まみれとなりながら全身を硬直させた。純架はそんな俺などいないかのように立ち上がり、体中の雪を払い落とす。
「すっかりびしょ濡れになったけど、楼路君をだませて気分爽快だよ。ああ、すっきりした」
純架は傘を拾った。
「僕が本当に死んだかと思ったかい? まったく楼路君は純情だね。人を疑うということを知らなさ過ぎるよ」
俺はふつふつと煮えたぎる腹を抱え、自分でも驚くほど低い声を放った。
「お前、もし今度こんな真似したら、ただじゃ済まないからな」
純架はまるで気にしていない。
「『いっそ凍死しろ』とまで言っておいて、被害者づらは良くないよ、楼路君。これが僕、桐木純架さ。『探偵同好会』の入会候補の一人として、会長の性癖と奇行ぐらいは学んでおくべきだと僕は思うよ」
なんちゅうアドバイスだ。
俺は沸騰する腹の熱気を溜め息として吐き出した。一杯食わされてむしゃくしゃする。心配した俺が馬鹿だった。傘を手にし、再び歩き出す。
「お前みたいな奇人、うっとうしくてたまらん。少しは俺に合わせろ」
「考えておくよ」
純架はさっきの死んだふりですっかり濡れそぼち、歯の根をガタガタと震わせている。
馬鹿か?
その月曜日の二時間目、俺と純架は音楽室へ授業を受けに出発した。窓の外ではまだ降雪が続いていたが、その威勢は若干弱められたように思う。それでも凍えることに違いはなく、他のクラスメイトたちも亀のように首をすくませ、やや足早に廊下を進んでいった。
俺はやりきれなさに文句をこぼす。
「このくそ寒いのに移動しなきゃならんのか」
純架は何やら手の平サイズのお菓子を取り出し、いきなり包装紙を破った。中から覗いたのはチョコウエハースだ。俺は察しがついた。
「ビックリマンチョコだな」
校内を移動中にチョコ菓子を食う神経はどうかと思うが、どうやら純架の目当ては同梱のシールであるらしい。彼は頬を朱に染め大声で叫んだ。
「やった、ハラヘライストだ!」
俺は小首を傾げた。「ヘラクライスト」なら有名なので知ってるが、「ハラヘライスト」は初耳だ。
「純架、ちょっと包装紙を見せてみろ」
差し出されたそれには、「ビックリマン」ではなく「ビックリさん」と書かれていた。パチモンだ。思い切り掴まされている。しかし俺は無邪気に喜ぶ純架を見て何も言えず、ただただ黙るしかなかった。買うときに気づきそうなものだが……しょうもない奴だ。
更に歩みを伸ばしていくと、壁の掲示板に純架直筆の『探偵同好会』勧誘チラシが貼り付けられているのに気がついた。俺は思わず足を止めて、どれどれと覗き込む。
『「探偵同好会」は大相撲の序二段がわんさか! 男女問わず入会希望者を募集中! 俺が、俺たちが相撲界の未来だ! 目指せ「横綱探偵」ドラマ化!』
日本広告審査機構JAROに訴えられるであろう嘘八百だ。いつから相撲同好会になったのか? 『横綱探偵』って何のラノベだ? 意味不明にもほどがある。
純架はにやりと笑った。どうだとばかりに胸を反らし、拳で紙を叩く。
「我ながら自信作だよ、このチラシは。でも志願者が出てこないんだよね。何でだろう」
出るわけねえだろ。俺の肩に重い倦怠感がのしかかる。
純架は類まれな美貌の所持者でありながら、俺に見せたような奇行をいっかなやめようとしない。最初は無理して話に付き合っていた女子たちも、やがては潮のごとく引いていった。かといって男に人気が出る性質でもない。気づけば純架とまともに話しているのはクラスで俺だけとなっていた。
その純架はファイルを手にして前方へと歩いている。時折ムーンウォークで後退するため、周囲の人間に程よくぶつかっていた。
邪魔臭い野郎だ。
色々な意味で寒さを感じつつ、そんなこんなで音楽室に着いた。
「ん……?」
俺はどことなく違和感を覚えた。蛍光灯が点いている教室は明るく、隅々まで見渡せる。大きな二段式の黒板、漆黒のグランドピアノ、階段状の机、そして歴代名作曲家たちの肖像画――
そこで俺は違和感の正体に気づいた。
「欠けてるな……」
「そのようだね。ショパンがない」
隣にいた純架が明確に指摘した。その目に不謹慎な好奇心が輝いて、突きつけられた異常に前のめりになっているのが分かる。俺はやれやれと溜め息を吐き出した。
肖像画は奥の壁に2.5メートルぐらいの高さでずらりと並んでいる。額縁には入っておらず、厚紙はむき出しのまま設置されていた。その中の一つ、左から三番目が欠けている。
「バッハ、モーツァルト、ショパン、ベートーベン、シューベルト、メンデルスゾーン……。色々いるけど、ショパンだけ外されてるね。何でだろう?」
「つか、お前よくショパンだって分かったな。変なところは記憶がいいんだな」
「それは君が物をよく見てないからだよ、楼路君」
チャイムが鳴った。教室のドアが開き、一人の人物が姿を現す。渋山台高校の音楽科教諭、畑中祥子先生だ。まだ30歳にもならない。化粧が濃く、口紅が赤かった。気のせいか顔が青ざめている。
「それでは授業を始めます。席に着いたら教科書の12ページを開いてください」
合唱の練習が始まった。