0040紅茶愛好会事件04☆
純架は良く聞こえなかったらしい。
「え? 何ですか?」
「何でもねえよ」
海藤先輩は吐き捨てると家庭科室の時計を見た。針は4時30分を差している。嘲笑混じりに主張した。
「それにしても菅野の奴、まだ来ないか。これはあたしらの不戦勝でもいいんじゃないか?」
うーん、確かにこれ以上先生方を待たせるのは気が引ける。それにいくら結城と言えども、この紅茶相手に逆転は難しいんじゃなかろうか……
と、そこで扉が開いた。現れたのは白い制服に黒い長髪のクールな美少女。そう、結城が到着したのだ。
「すみません、遅くなりました」
英二が安堵の色を隠せないまま、柔らかく尋ねた。
「宮本武蔵じゃあるまいし……。何があったんだ?」
「いえ、大したことではありません。茶道具を載せた黒服方の車が、工事渋滞に巻き込まれたのです。私はそれを校門前で待っていただけです」
やがてぞろぞろと黒服たちが出現し、重そうで大きな発泡スチロールの箱を複数運んできた。結城が髪の毛を後ろで縛る。ポニーテールも似合っていた。
「釜田先輩は既に振る舞われたようですね。どうでしたか、審査員の方々」
田浦教頭が至福の笑顔を見せた。上機嫌である。
「いやあ、見事だったよ。水色、香り、味、全て申し分ない」
それを聞いて怖気づくかと思ったが、結城はむしろ闘志をかきたてられたらしい。エプロンをまとう動作に遅滞はなかった。
「そうでしたか。私も負けません」
その両眼に気合がこもる。
「始めます」
結城は早速やかんに水道水を溜めて、それをコンロの火にかけた。それを釜田先輩が使ったのと似たようなポット――二つあった――に湯通しする。そして改めて、紅茶のためのお湯を沸かし始めた。
あれ? カップは湯通ししなくていいのか?
異変はそれだけではなかった。
「ちょっと量が少な過ぎやしないか?」
久地先輩が口を挟む。釜田先輩もつられるように疑問符を舌にのせた。
「そうですよね。どういうことでしょう? ……まさか」
結城が微笑んだ。
「そのまさかです」
そこで黒服たちが、やや大きめの透明なグラスを次々と机上に並べ始めた。これは……
「アイスティー! そうだな、菅野!」
久地先輩が思わず立ち上がって叫んだ。そうか、アイスティーだからグラスに湯通しする必要はないわけだ。
結城が唇を緩める。勝負を楽しんでいる闘士の表情だった。
「ご名答です、久地先輩。私はアイスティーを作るつもりです」
結城は黒服たちの持ち込んだアイスコンテナから氷を取り出し、グラスから少しはみ出るぐらいに大量に投入する。
そしてリーフティーの缶を手にした。釜田先輩が目を丸くする。
「ちょっと待ってください。菅野さん、その茶葉はもしや、アッサムではありませんか?」
「はい、その通りです」
俺は釜田先輩が何に驚いたのか分からなかった。アッサム? 何それ美味しいの?
久地先輩が呆然とする俺に熱を込めて解説した。この分からず屋、といわんばかりだ。
「アッサムは世界最大の紅茶の産地、北東インドのブラマプトラ河の両岸に広がるアッサム平原で収穫される茶葉だ。6、7月のセカンドフラッシュがクオリティピークで――ああ、まずセカンドフラッシュを知らないか」
勝手に斟酌してくれる。
「セカンドフラッシュとは二番摘みのことで、味・コク・香りともに一年中で最も充実した最高級品のことだ。紅茶の中でも特に優れた茶葉を指す。アッサムなら特有のパンチの効いたコクと濃い水色をもつことだろう」
そんな凄い茶葉なのか。何でもありの乱闘スタイルとはいえ、また結城も材料に妥協をしなかったわけだ。
久地先輩が結城に質問した。
「そのグレードは何だ?」
「FTGFOPです」
「ファイン・ティッピー・ゴールデン・フラワリー・オレンジ・ペコか!」
凄いな、紅茶愛好会の知識。普通噛まずに言えるか? ふと純架を見ると、いかにも楽しそうに戦況を眺めていた。
しかし、と久地先輩は顎をつまむ。その怪訝な顔が、読めない量りを見定めるようだ。
「アッサムは一般的にタンニンが多いから、アイスティーには向かないはずだ。クリームダウンを起こすぞ……まあ、その前に飲め、ということか……」
結城は首肯した。その引き締まった下顎に微苦笑が閃く。
「はい、その通りです。でもそれだけじゃありません」
彼女はポットのお湯を捨てると、その中にグラスに見合う量のアッサム茶葉を入れていく。今やかんで沸かしているお湯が半分の量で、茶葉が通常の量だから、結果的には2倍の濃さになるわけだ。
葉を入れ終わると同時に、結城は頃合いと見て火を止め、沸騰直後のベストのお湯をポットに注ぎこんだ。蓋をして、フクロウの絵が描かれた布のような何かを上から被せる。
久地先輩がそれを見て歯軋りした。
「ティーコジーか」
俺の不得要領な顔を見て、彼は説明した。
「ティーコジーは布製の保温カバーだ。ポットが冷えないように包んでおくためのものだ。釜田は持ってくるのを忘れていたんだ」
結城はストップウォッチで時間を計測している。俺はフクロウの絵で見えないが、彼女のポット内でもまた、ジャンピングが起こっているものと確信した。
きっちり3分。彼女は別のポットから湯通しの湯を捨てると、ティーコジーを外し、中を一混ぜしてからそちらへ茶漉しして流し込んだ。
そこへグラニュー糖を人数分、いやそれ以上に投入してかき混ぜた。久地先輩が苛立つ。
「甘くするだけではないな。クリームダウン対策の一環だろう」
俺はさすがに耐え切れなくなった。
「さっきからクリームダウンと言ってますが、何ですかそれ?」
久地先輩はそんなことも知らないのか、とばかりに首を振った。
「クリームダウンとは、淹れたアイスティーが白く濁ってしまう現象のことだ。紅茶の成分のタンニンやカフェインなどが冷やされることによって凝固し、白く浮き出てくるために起こる。まあ風味や品質には影響ないんだが、見た目が悪いことこの上ないんだ」
結城は氷塊で満杯の各グラスに、氷に当てるようにしながら紅茶を注ぎ込んでいく。久地先輩がまたも知見を述べた。
「急激に冷やすことで、香りが逃げるのを防ぎ、透明感のあるアイスティーを作るわけか」
結城はポットの紅茶を回し入れていく。しかし量が足りず、最後の一滴におよんでも、どのグラスも半分ちょっとしか注がれていなかった。
涼香がそれを失態と見なして、はしゃぐようにからかった。
「どうしたの、菅野。ひょっとして分量を間違えたとか?」
久地先輩も嘲笑する。失っていた平衡感覚を取り戻したように。
「どうした菅野、足りんぞ」
しかし結城は平然としていた。その精密機械が繰り出すような作業は、まだ完結には至っていないらしい。微かに口の端を吊り上げる。
「仕上げはこれです」
黒服たちの別の箱から取り出したのは、牛乳の紙パック。
「市販の中でも上質な高級品牛乳です。これをこうします」
各グラスに惜しげもなく投入した。久地先輩が膝を叩いた。
「アイスミルクティーか! アッサムの濃い味わいは、特にミルクティーに向いているというからな。そしてアッサムの水色と混交し、これは……何というミルクブラウンだ!」
美しい液体が氷の溶けてぶつかり合う金属的な響きをもたらす。俺はまるで魔法のような鮮やかな手並みに感嘆した。
結城が各審査員の前にグラスを届けて一礼する。
「では、お召し上がりください」
田浦教頭、青柳先生、畑中先生、俺、久地先輩が、一斉に手を伸ばしてグラスを掴む。早く飲みたくて仕方がなかったのは、全員に共通していたらしい。
「ぷはーっ!」
いち早く飲み終えた田浦教頭が、大満足の笑顔でグラスを置いた。
「美味い! 美味すぎる! 菅野さん、店が出せるぞ」
久地先輩は渋々、といった具合で評価する。
「く、悔しいが、アッサムのコクのある味わいと芳醇な香りが、牛乳と上手に合わさってとんでもない香味だ。こんなアイスミルクティーは初めてだ」
俺も一気に飲み干し、おかわりがないことに気付いて愕然とした。幸福の瞬間は終わってしまったのだ。
他の紅茶愛好会会員は、よだれを垂らさんばかりに審査員をうらやんでいる。対戦相手の釜田先輩でさえその例に漏れなかった。
青柳先生が結城に問いかけた。魔法使いに対し、今しがたの魔術を教えてもらいたがっている風だ。
「なあ菅野、アイスティーにしたのは初夏だからか?」
結城はぺこりと頭を下げた。完璧すぎるお辞儀である。
「はい。今日は少し暑いので、冷たい方が喜ばれるかと……」
その言葉にはっとした様子なのは釜田先輩だ。気温が高めなのに熱いストレートティーを出した彼女は、自分の不見識を呪うようだった。唇を噛み締めて椅子に沈む。
何だかんだ言いながらアイスミルクティーを飲み尽くして、久地先輩が抗議した。
「牛乳もアイスコンテナも茶葉も、全部金かけて用意しやがって。こっちだって財力があればアイスティーという選択肢もあったんだ。所詮金持ちの紅茶なんだよ、菅野のは!」
結城ではなく純架が控え目に返答する。
「しかし何でもありという約束でしたよね。今更そんなことをおっしゃられても困りものです」




