0152温泉のメッセージ事件05
俺たちはほうぼうを歩き回り、ようやく食堂でコーヒーを飲んでいる俊太を見つけた。俊太は俺と純架の2人から、一気に6人まで増えた面子に仰天していた。
「今度は何だ、女の子まで連れて……。また錐の話かい?」
純架は澄まして、俺たちに着席を命じた。俊太は目を白黒している。こんな大勢に囲まれるとは予想外だったに違いない。
「コーヒーが不味くなった。悪いけど帰らせてもらうよ」
腰を浮かしかける俊太に、純架がしなやかな鞭のような一言を浴びせた。
「あなたはご存知なのですか? 女湯に残された、返事の言葉を……!」
俊太は見ているこちらが哀れになるくらい、激しい狼狽した。錐を突きつけられたときの数倍はうろたえている。コーヒーが気管に入ったか、しばらくむせた。
「返事の言葉……」
純架の台詞を反芻すると、慎重に問いただしてきた。ただその声は緊張と震えを隠し切れない。
「な、何のことだか分からないが、とりあえず聞いておこう。それは何て書いてあったんだい?」
その両目はけいけいと、瞬時に固めた覚悟と莫大な期待をはらんでいた。
純架はそらんじた。
「『我が身一泡となりて添い遂げし』です」
「ああ……」
俊太は頭を抱え、巨木が倒れるようにテーブルに突っ伏した。両手で顔を覆う。すぐにむせび泣き始めた。その慟哭は深夜の食堂に切々と響き、別の客が遠巻きにこちらを見物するほどだった。
俊太は号泣しながら随喜の念を口から漏らした。
「良かった。本当に良かった。有田さんは、寿子さんは、想いを果たしたんだ……」
俺たちは彼が泣き止み、落ち着くまで、しばらく待たされた。
「さあ、もういいでしょう。女湯からこのメッセージを拾い上げてきてくれた彼女たちの労苦に報いる意味でも、僕らに真相を話していただけませんか? この錐も、あなたが持ち込んだものなんですよね?」
俊太はポケットティッシュで鼻をかんだ。その両目は真っ赤に泣きはらしていて、心からの嗚咽だったことがうかがえた。
「そうだな、そうするのが礼儀というものだろう」
視線を純架の錐に固定する。
「まずその錐だが、それは僕の曾祖父、桂宗光の物だ」
父や祖父ではなく、その更に上の代の所持品だったのか。
「有田さんの辞世の言葉を彫るには、親友だった曾祖父の錐がいい。そう思って拝借してきたんだ」
英二が口を差し挟んだ。
「辞世の言葉? やはりその有田とかいう人物は、あの湯船で溺れ死んだんですか?」
俊太は苦笑した。まだ涙が乾ききっていない。
「まさか。曾祖父の生きた時代は第二次世界大戦末期でね。曾祖父の親友だった有田篤彦さんは、軍艦に搭乗して出兵することが決まったんだ」
丁寧な口調で話を紡いでいく。
「当時の情勢では生きて戻ることはできないだろう。そう考えた有田さんは、最後の休暇を楽しもうと、また前々から慕っていた女中の寿子さんを一目見ようと、常連だったこの『茹蛸温泉』を訪れたんだ。そして寿子さん――当時17歳だ――の変わらぬ笑顔を目の当たりにし、想うところがあったんだろう。多分ね。僕には当時のことは分からない。ただ有田さんは、その恋情を何か形にして残していきたいと考えた。だから温泉の男湯の目立たぬ岩に刻み込んだんだ。『キミヲ恋シツツ我ガ身泡沫トナレリ』とね」
純架が承知済みだとばかりに発した。
「だから『泡沫』だったんですね」
「そう、彼は自分が軍艦と共に海中に沈む将来を予感してそう表わしたんだ。温泉で入水自殺するわけじゃなくてね」
「わざわざ記したということは、寿子さんには告白せずに出征したんですね」
「その通りさ。死にに行く身が告白なんてできない、と考えたんだろう。だが……」
すっかり冷めたコーヒーをすする。
「運命は皮肉なものさ。血で血を洗う激戦の中、幸運にも有田さんは命を拾ったんだ。戦争は終わりを迎え、彼は復員して民間人となった。もちろん、真っ先に寿子さんへ会いに行った。だが寿子さんには縁談があり、9割がた決まっていたという。それを知った有田さんは何も言わず、再会せぬまま、破れた恋を胸に帰郷したという」
可哀想に、と俺は思った。俊太も同じ気持ちなのか、雄弁な溜め息をついた。
「有田さんは寿子さんへの恋心を、僕の曾祖父の桂宗光にのみ語り、生涯独身を貫いた。そして1年前、91歳で大往生を遂げたんだ。桂家に伝わる古い書物と写真、祖父や父の話で有田さんのことを知っていた僕は、葬式に参列した」
そうか、有田さんは亡くなっていたのか。91歳まで生き抜いて……。
「僕は近所の有田家の墓に赴いて合掌したとき、突発的に思ったんだ。『茹蛸温泉』の『一の湯』に隠された、有田さんの言葉をじかで見てみたい、とね。それは希望というか願望というか、のっぴきならない感情だった。そして、もし文字がかすれていたら彫り直してあげようと考えて、休暇を利用してこの温泉にやって来たというわけさ。それには曾祖父の錐がふさわしいと、わざわざ古いのを持ち出してね」
純架は区切りを待って質問した。
「しかしあなたは別の岩に文章を彫った。何故ですか?」
俊太は複雑な感情が交錯する苦笑を閃かせた。
「僕がこの『茹蛸温泉』に来たとき、真っ先に考えたのは、寿子さんの生涯について職員から聞き出すことだった。だがもしも寿子さんが結婚していたら――いや、十割しているだろう――、有田さんが気の毒だ。だから敢えてそうはせず、せめて有田さんの深い想いだけでも、ここの職員やお客――誰でもいい――に思い知らせようと考えたんだ。それにはもっと目立つ場所に彫った方がいい。だから僕は元の言葉を探し出すと、改めて記録の記憶と突っつき合わせ、きみたちが目にした新しい文字として刻み込んだんだ」
最後にぽつりと言った。
「でも、ミッキーはうけたな」
純架は立ち上がった。
「残る問題は寿子さんの生涯だけですね。旅館の人――年配がいい――に尋ねてみましょう」
俺たちは――俊太も――椅子から離れた。
その後、『茹蛸温泉』のフロントで最も古い職員を呼んでもらった。81歳の菅原弘毅さんだ。老人とは思えない伸びた背筋で、今回の相談事に面食らっているようだった。
「女中頭だった寿子姉さんのことなんか、きみたちよく知ってるね」
返事の言葉があったとはいえ、俊太は若干緊張して聞いた。
「寿子さんは誰かと結婚したんですか?」
菅原さんは微笑して首を振った。
「彼女なら生涯独身を貫いたよ。確か25年前だったか、64、5歳のときに医者から余命宣告を告げられてね。故郷に帰ってひっそり死んだよ。そんなことを聞くなんて、きみたちは彼女の知り合いかい?」
純架は胸を張って答えた。
「はい、知り合いです」
俺たちは食堂に戻って各々缶ジュースや缶コーヒーを買った。3人ずつ向かい合って座る。純架が切り出した。
「恐らく寿子さんは、有田さん同様、ひそかに相手を想っていたんだ。そして男子風呂の掃除で有田さんの辞世の台詞を目にした。彼女は彼が戦死したと思い込み、縁談も断って、生涯独り身を決心した……」
熱い缶を手の内でもてあそぶ。
「しかし余命宣告を受け、自分の人生が残りいくばくもないと知ったとき、務めていた『茹蛸温泉』の女風呂の岩に有田さんへの返事の言葉を彫り込んだんだ。もはや儀式的な意味さえ込めてね。そうして彼女は、ここを去って死んだんだ。有田さんが生きていることも知らぬまま……」
コーヒーを一口飲み込む。
「多分そんなところだろう。以上がこの事件の全貌だよ、みんな」
奈緒が感心したような呆れたような、形容しがたい表情を浮かべる。
「純愛ね。でも、極端なすれ違いの……」
英二が口端を持ち上げた。
「昔の人間は何でも物事を大事にしていた、ということだろう。今では失われた精神だな。まあ確かに極端ではあるが」
純架が引き取った。
「極端は美しいね。たとえそれがどんなものであってもね」
大きく伸びをする。
「さあ、夜も更けた。謎も解けたし、そろそろ寝るとしようよ。男女お互い、同性同士のよもやま話に花を咲かせて、ね」




