0150温泉のメッセージ事件03
「そろそろ出ようぜ、純架」
純架は謎にへばりついたまま動かない。英二が少しきつめに言った。
「おい、出るぞ。いい加減にしろ、純架」
「分かったよ」
純架は渋々といった具合で身を起こし――そのまま後方にずっこけた。派手に水しぶきを上げて、盛大に腰を打つ。
「おおっ? 純架、どうした?」
「いや、滑っただけさ」
純架は痛さにうめきながら、気丈に答えた。そしてしばらく何やら湯の中をまさぐってから、今度こそ立ち上がった。
「じゃ、帰ろう、二人とも」
『探偵部』6名を含めたツアー客一同41人は、宴会場で夕食に舌鼓を打った。本当に美肌に有効だったのか、女子メンバー3名はもっちりした頬で俺たちの前に現れた。同じく浴衣姿だ。
「いいお湯だったね、富士野くん」
牛肉を頬張りながら奈緒が同意を求めてくる。俺はうなずき返しながら、オレンジジュースを口にした。日向も英二も結城も、もちろん純架も、腹が減っていたのかがっつくように料理を食している。純架は鍋の汁を豪快にすすった。
「うーん、いい薬です!」
何だそれ。
あらかた食べ尽くしたところで、日向が軽く肘を振る素振りを見せた。
「これやりましょうよ、これ!」
何だ?
「エルボーって……まさか格闘技?」
「違いますよ、富士野さん。他の人に占拠されないうちに、早めに行きましょう」
そうして日向が俺たちを連れて向かったのは、遊技場の卓球台だった。ああ、そういうことか。
「女子対男子で卓球対決といきましょう。どっちが部の主力か、今日こそはっきりさせるんです!」
結城がおかしげに頬を緩めた。
「いつも桐木さん一人が主力のような気もしますが……。対決には賛成です」
奈緒が腕まくりした。
「桐木くんも富士野くんも三宮くんも、卓球となると弱そうだしね。うちはスポーツ万能の結城ちゃんがいるからきっと勝つよ」
英二はラケットを握って卓球台に正対した。
「俺の実力を見せてやるよ、飯田」
「三宮くん、ラケットの持ち手が逆」
「えっ、そうなのか?」
駄目だこりゃ。俺は交代した。
「英二、まずは基本を覚えろよ。俺が先に出るから、よおく見とけ」
「わ、分かった」
純架はぼけっと突っ立って、廊下の方向をしきりと気にしていた。俺は注意を喚起した。
「おい純架、始めるぞ、卓球対決」
純架は虚を突かれたようにこちらに首を巡らす。
「えっ、ああ、うん。始めてくれたまえ。僕は最後でいいよ」
「何だ、変な奴だな。まあいい、それじゃいくぞ飯田さん!」
奈緒は余裕しゃくしゃくでボールを掲げた。
「結城ちゃん、審判お願いね。それじゃ勝負! 手加減なしなんだから」
ラケットが白球を叩く快音が鳴り響き、こうして『探偵部』男子対女子の卓球決戦が幕を開けた。
だが、まだ俺と奈緒が3-4の接戦を繰り広げているばかりの頃だ。純架が唐突に言った。
「ごめん、皆。僕はまたちょっと温泉に行ってくるよ」
これには場も白けた。奈緒が抗議を表明する。
「ええっ、また? まだ浸かり足りないの? 卓球はどうするのよ」
「僕のことは放っておいて、皆で楽しんでくれたまえ」
俺はラケットを台の上に置いた。
「まだあの文章が気になるのか?」
「いや、うん。ちょっとね。……一緒に来るかい、楼路くん」
「そういうことなら俺も『探偵部』だ。付き合おうじゃないか」
英二はひらひらと手を振った。
「全く、女の相手が出来ない男はもてないぞ。卓球はもう覚えた。後は俺に任せて、二人で行ってこい。俺が一人で勝利を収めるから」
純架は拳を握り、立てた親指を下に向けた。
「恩に着るよ、英二くん」
いや、それはサムアップじゃなくてサムダウンだ。
呆れてぐうの音も出ない英二を置き去りに、俺と純架は再び『一の湯』へ向かった。
純架は後ろ歩きで脱衣場に入った。特に意味はない。俺は曇ったガラスの向こうで大勢の客が湯船に浸かっていることに驚いた。
「食後のお湯を楽しんでるんだな、皆。まあここのメインだからな」
「彼も来ているようだね」
「彼?」
純架は再び半裸になると、俺と共に温泉に入った。さっきと違い、風呂桶を手にしている。
純架の言う「彼」はすぐに分かった。さっき入浴していた際、俺たちのやり取りを盗み聞いて噴き出していた大柄な男だ。何やら探し物をしているらしく、彼だけが浴場を歩き回っている。身長は190センチはありそうだ。他の客は迷惑そうに、なぜか焦って動き続ける大男をちらりと見やっている。
純架は男に近づいた。
「桂さん」
男はびくりと肩を震わせ、それまでの挙動不審が嘘のように硬直した。恐る恐る純架を振り返る。純架は風呂桶の中身を見せた。
「お探しのものはこれですか?」
俺はすぐ側から覗き込んだ。それは一本の錐だった。木製の持ち手に鋼の先端。大分古いもののようで、柄はところどころパテのようなもので補強してあった。
男は暗い風呂場でもはっきり分かるほど青ざめて、ごくりと唾を飲んだきり、発する言葉を見失っている。純架は続けた。
「新しい方の文章の傷跡と、この錐の先端は同じ大きさです。僕は食事前の入浴の際、これで足を滑らせて腰を打ってしまいました。それから危険物として預からせてもらっています。きっとこれの持ち主――『桂宗光』と名前が書いてあります――が、探しに戻ってくるだろうとにらんでました。28センチの足の持ち主であり、この錐の所持者で、新しい方の文字を刻んだ人――つまりあなたが、ね」
桂宗光であろう男は、首を絞められていると錯覚でもしたのか、自分の喉を鷲掴みにした。純架は周囲の客のまなざしを無視してなおも言い募った。
「桂宗光さん、温泉の岩に勝手に傷つけるのは器物損壊罪で、立派な犯罪です。どういうことか説明してくださいますね?」
男は長く息を吐いた。純架の心を確かめるようにまじまじと凝視する。やがて――笑った。
「残念だけど僕は桂は桂でも、宗光ではなく俊太だ。そんな錐なんて知らないな」
宗光か俊太かは、客の名簿を見ればすぐ分かる。だが錐を知らないなどというのは明白な嘘だ。そうでなければあれだけ動揺するものか。だが俊太は自分のペースを取り戻したか、表情にゆとりを回復しつつあった。純架は眉根を寄せる。
「では、この錐は処分してしまって構わないので?」
俊太は少し怯んだ。だが強情に突っぱねる。
「ああ、構わないよ。僕のものじゃないんだからね。それにしてもそれで滑って腰を打つなんて、温泉で湯治に来た意味がないじゃないか。きみもどじだね。それじゃ、僕はこれで失礼するよ」
俊太はその巨体を揺らし、ライトのまばゆい光の中、温泉を大きく横切って出て行った。そのまま脱衣場へと向かう。俺はその背中をただ見送るばかりだった。
「おい純架、どういうことだ? その錐を使った何者かが、あの新しい方の言葉を彫った、ということでいいんだよな?」
純架は険しい顔つきで、取り逃した魚を残念がっている。
「うん、その犯人が桂俊太さんだということまで、十中八九間違いないよ。でも彼が認めないんじゃこれ以上の追及は無理だね」
「じゃあどうする?」
「決まってるさ。俊太さんにへばりついて、ボロを出すのを根気強く待つよ」
「しつこいなあ!」
2階娯楽室に――少々汚い言葉を使うなら――とんずらした俊太を、俺たちは金魚の糞のように追跡した。そしてソファでくつろいでいた彼に、再び錐を見せ付けたのだ。




