第36話 悪役令嬢の見たもの
ロレンツォ・リゲティは、そろそろ主たる令嬢にお節介を焼くべきか迷っていた。
ロレンツォの目から見て、シルヴィオはルチアへの愛情を失ってなどいない。
むしろ露骨なほどに好意を示しているほうである。
それなのにルチアは、いつシルヴィオとの関係が終わっても絶望しないようにと、その準備にばかり気を取られているように見える。
シルヴィオと幸せになる未来から、頑なに目を逸らそうとしている。
この初老の執事は、これまでルチアのすることをサポートすることに徹し、彼女の行動方針にほとんど口を挟んでこなかった。
それは、ルチアの精神が庇護すべき子供の域をとっくに出ており、彼女の乗り越えるべきものが、他人には安易に手を出せない内面にあったからである。
人が人である限り、いくつになっても未熟な部分はあり、他者との関りの中で気づきを得て成長していくことができるのが、人生であろう。
けれど、ルチアに対しそれを促すことができるのは、執事である彼ではないと感じていた。
故に、ロレンツォは迷っていた。
おそらく、ルチアの現状が一番よく見えているのは、彼である。
しかし、ここで彼がそれを指摘したところで、効果がある見込みは薄い。
ルチアは馬鹿ではない。
彼女は理解できないのではなく、理解しないようにする制御を無意識に働かせてしまっているのだ。
ならば正しい現状を伝えたところで、何の意味も成さないだろう。
心が受け入れられないだけの理由を取り除かない限りは、理解できていないという自己暗示は解けない。
それはつまり、現状を打破するには、トラウマを乗り越えさせなければならないということである。
そしてその決定的な役割を、執事という立場では果たせない。
「二人で出かけるのは久しぶりね」
平民に扮したルチアは、隣を歩くロレンツォに穏やかに微笑みかける。
美しい秋晴れの空が照らし出す彼女は、いつもより質素な服装ながら、屈託のない笑みのためにいつも以上に華やかに見えた。
「そうでございますね」
彼らは、秋桜の花祭りに来ていた。
庶民の祭の場に溶け込むため、二人は裕福な商家の祖父と孫を装っていた。
ルチアがシルヴィオと婚約してから、ロレンツォの役割は、仲睦まじい二人を少し離れて見守ることであった。
だから、この執事と公爵令嬢が二人きりで並んで歩くのは、本当に久しぶりであった。
「そうだ、クレープが食べたいわ! 買って来るから待ってて?」
「わたくしもご一緒致しましょう」
「いいから、待ってて! ちゃんと理由があるの。見ていればわかるわよ!」
翡翠の瞳を輝かせて、ルチアはあどけなく笑った。
同世代の前では決して見くびられないようにと、大人びた対応を心掛けているルチア。
そんな彼女の少女らしい無邪気な姿を、ロレンツォはしばらくぶりに見た。
プラチナブロンドの豊かな髪を揺らして、ルチアはひょこひょこと飛び跳ねるように小走りで屋台へ向かう。
「クレープ屋さんの素敵なおじさん、ストロベリーミルクをひとつください!」
「お嬢ちゃんみたいな可愛い子に素敵だなんて言われると、おじさん照れちゃうなあ」
「ほんとのことよ? おじさんがパパだったら素敵だなって、女の子なら思うわよ」
「いやあ、こりゃ参った。よし、ひとつおまけしてあげよう! もう一つ選びな!」
「わあ、ありがとうおじさん! だーいすきっ!」
前世では平民だったというルチアにとって、平民らしい口調を使いこなすのは造作もないことであるというのは、ロレンツォも良く知るところであった。
しかしルチアに、こうも上手く屋台の売り子をたぶらかす技術があるとは、思ってもみなかった。
二つのクレープを手に振り返り、ルチアはロレンツォに向かって片目を閉じ、肩を竦めながらぺろりと舌を出した。
“素敵なおじさん”なんて、完全にお世辞であったのだろう。
上機嫌で駆け戻ってきたルチアは、彼女のもう一つのお気に入りの味であるキャラメルチョコレートを、ロレンツォに差し出す。
「はい、ロレンツォの分。ね? 私が一人で行ってよかったでしょう?」
「ですがお嬢様、資金が足りないわけでもないというのに、あのようなこと――」
「もう、乙女心がわかってないわね! これはね、私が可愛いっていう証明なの!」
せっかく無邪気なルチアの姿を見られて、温かい気持ちになっていたというのに。
ロレンツォは少し、悲しくなってしまった。
こうして常に、自分に価値があるという証拠を他者に求めていないと、ルチアの不安は誤魔化せないのだろう。
「さ、食べましょ! 勿論、いらなければ私が二つとも食べちゃうから、無理はしなくていいのよ?」
「ええ。では頂きましょう」
クレープを食べ歩く仲の良い祖父と孫。
周囲からはそう見えていることであろう。
そんな別段珍しくもない組み合わせであるのに、ルチアは自然と周囲の、特に男性の視線を集めている。
言わずもがな、彼女の輝くような美貌も、抜群のスタイルも、平民を装ったところで隠しようがないからである。
そういう視線ですら今のルチアには自信に繋がるのか、男たちが振り返る度に彼女は得意そうに笑った。
(ルチアお嬢様、これではまだ、攻略とやらに気を取られていた時のほうが幸せだったのでは――)
楽しそうなルチアに水を差したくなくて、ロレンツォは言いたいことを飲み込み、意識の半分でクレープを味わった。
かつてのルチアは、もっと自信に溢れていた。
生まれ持って恵まれた端麗な容姿にも、豊富な知識と明晰な頭脳にも、そして公爵令嬢という身分にも。
全てに満足して、余裕綽々に欲しいものを欲しいと言うのが、ロレンツォの知るルチア・ヴェルディアナ・モンテサントだった。
それが今や、道行く人々の視線ごときに気分を良くするなんて、その頃と比べればあまりに粗末な現状だった。
「どうしたのロレンツォ、浮かない表情をして?」
「いえ……。このクレープは、少しわたくしには甘すぎたようで」
「あら、じゃあ残りは私が頂くわ!」
既に自分の分をぺろりと平らげていたルチアが、元気よくロレンツォの手からクレープを奪い取る。
食べかけであることなんて気にも留めず、彼女はその甘味をみるみるうちに消費していく。
機嫌が良いだけ、泣きそうな表情でいられるよりもずっといい。
そう思って、ロレンツォは彼女のしたいようにさせておくことにした。
「ねえ、ロレンツォ」
すると、不意にルチアが、先程までのはしゃいだ声色から一変し、低く冷静な声で呼びかけた。
「私ね、この世界で一番、あなたを信頼してるの」
その言葉の意味を悟れないほど、ロレンツォのルチアとの付き合いは浅くない。
「光栄でございます」
やはり彼女は聡明だった。
自己暗示にすらかかりきれないのは、その聡明さ故であるのだから、もう少しくらい馬鹿に生まれたほうが彼女は幸せだったのかもしれない。
「このまま怯えているばかりでは、誰も幸せにできないってわかってるわ。私自身が幸せにならないと、攻略なんかで人生を引っ掻き回した彼らに、申し訳が立たないことも」
クレープを食べ進める手を止めて、ルチアは大人びた横顔を見せる。
「本当はね、シルヴィオ様と上手くいく可能性だって残ってるって、わかってるのよ。でも、例え彼の心が今どうあろうと、未来に絶対なんて無いでしょう? だったら、確かなものが欲しいと思ってしまう」
秀麗な眉尻を下げて、ルチアは美貌を曇らせる。
それは、公爵令嬢でも悪役令嬢でもない、ただのルチアのありのままの姿だった。
「つまりね。お互いに裏切らず、恨まず憎まず、最後まで人として尊重し合えたっていう実績が欲しいのよ。今まで一度も、それが無かったから」
前世も含めてのことであるとは、言わずともロレンツォにはわかる。
この世界で公爵令嬢という身分を考えれば、恋の想い出など豊富であるほうが問題なのだが、ルチアはそれとは違った価値観の世界で、一度こっ酷く傷ついてその生涯を閉じている。
記憶がある以上、まっさらな人生を歩むことは難しい。
前世の傷を引き継いで生まれて来た彼女にとって、癒えない患部を庇うような言動に出てしまうことは、仕方がないとも言えた。
「何でもそうだけど、終わっていない間は、終わりに少なからず怯えるものよね。綺麗な終わりが約束されていればまだしも、ずっと大切にしてきたものを思い切り汚される最期だって、あり得るんだから。それでも私たちは、受け入れて前に進まなくてはいけない。でもね――」
突然、ルチアは自棄食いするように、クレープを口いっぱい頬張った。
リスのように頬が膨らみ、とてもではないが貴族令嬢の所作には見えない。
何をしているのかと、ロレンツォにすら不可解で思考が停まったほどである。
ごくりと飲み下して、ルチアは覚悟を決めたような表情でロレンツォを見上げた。
「それが頭でわかっていても、できる強さを、私は持っていなかった。自分が如何にちっぽけで弱いのかってことから、目を逸らしてきた。それでは、強さなんて手に入るはずもなかったんだわ」
「ルチアお嬢様……」
ルチアは、ロレンツォに話すことで、自分と向き合おうとしているのかもしれなかった。
老執事がお節介を焼くまでもなく、彼女は自分で成長しようとしている。
「転生して、有利な条件で生まれてきて、ずっと良い気になってたわ。でもね、多分、前世も含めて、私はそんなに驕っていられるほどの何も持っていなかったのよ」
ロレンツォは、ただ静かにルチアの言葉に耳を傾けていた。
前世というものがあったとはいえ、幼少の頃から世話をしてきた令嬢である。
その成長を見守ることができるのは、彼にとって喜びである。
「優秀でいようと努力してはいても、何かの一流にはなろうとしなかった。私がやってきたことって、結局は弱味が無いように見せるだけのことだった。何か成すためじゃなくて、誰にも傷つけさせないための、鎧が欲しかっただけ」
完璧な公爵令嬢と評される彼女の、こんな内面を推し量ることができる者など、そうそういないであろう。
美しく、聡明で、高貴な身分に生まれた彼女を、誰もが羨む。
「空っぽなのよ。こんな私を愛してほしいなんて烏滸がましくて、気づいてしまった今はもう言えない。シルヴィオ様が心変わりしたかどうかより、本当はね――」
彼女の持つもののうち半分にも恵まれない者がほとんどであるというのに、彼女自身は自分を空っぽに感じているのだ。
相手によっては嫌味に聞こえるのであろうが、誰より傍にいたロレンツォにはルチアが理解できる。
条件や能力は、その使いどころが適切でなければ、幸福をもたらしはしないのだ。
ルチアが既に前世の反省から学んだように、本当に望みを叶えるための努力でなければ、本当に本人が必要とする能力でなければ、その先にあるのは徒労の二文字になりかねない。
「こんな自分が嫌なの。彼が大好きだから。幸せにできないのも、幸せになれないのも、そんな未来を見るのが怖いのよ。だから想い出作りに逃げたがってる。逃げると同時に、それが実績になれば今後の自信に繋がるって、言い訳まで作ってね」
言いながら、ルチアは徐にロレンツォの手を引いて、人の波を掻き分けながら進んでいった。
ちょうど、ブーケを投げて回る“秋桜の乙女”を乗せた台車が、パレードを引き連れて近づいて来るところであった。
ルチアの目当ては、このブーケなのであろう。
「こうして少しでも気づけたのは、シルヴィオ様と過ごしたおかげよ。だからね、今度こそ私は、無駄じゃない恋をしたって思ってるわ。このまま終わらせれば、私にはひとつ、確実に幸せだった時間と、自信に繋がる材料ができる。リスクの高い賭けを続けなくても、その先の成長は充分に見込めるのではないかと思うの」
ルチアは冷静な横顔のまま、手を伸ばした。
二輪のコスモスが、彼女の手にしっかりと収まった。
「ねえ、ロレンツォ。私は、どうするべきかしら?」
振り返ったルチアは、歳相応の――大人と子供の狭間の顔をしていた。
ロレンツォには、すぐには答えられなかった。
ルチアは、ロレンツォを信頼していると宣言してから、心情を吐露し始めた。
彼の答えは、それ相応の重みを持つ。
「ルチアお嬢様が、納得なさることが大切ではございませんか? 後悔したくないとお思いなのでしょう?」
こくりと頷いたルチアは、澄んだ瞳をしていた。
自分を誤魔化すように癇癪を起すこともなく、安心して心を委ねているのは、相手が家族以上に彼女のために心を砕いてきたロレンツォだからなのだと言うように。
「そうして悩んでいらっしゃるということは、ルチアお嬢様がご自身の答えに納得なさっていないからではないかと、わたくしは思いますよ。希望があるのにそれを捨ててしまっては、きっと後悔なさいます。本当は、シルヴィオお坊ちゃまとずっと一緒にいたいのでしょう?」
ロレンツォの言葉に頷きかける素振りを見せた次の瞬間、ルチアは何者かに視線を釘付けにされて、瞠目していた。
「……もう、選択肢なんて無かったのかもしれないわ」
ロレンツォの背後、“秋桜の乙女”の投げるブーケにに群衆が手を伸ばす場所を、ルチアは指さしていた。
その白く細い指の先にあったのは、信じられない光景である。
銀色の髪、暗灰色の瞳を持つ優し気な少年が、秋桜のブーケを捕まえるのが見えた。
その隣には、仲睦まじそうに栗色の髪の少女が寄り添っていた。
その少女が、ルチアを見つけて勝ち誇った笑みを浮かべたのである。
肩を叩かれて振り返ったロレンツォの前に、一輪の秋桜が差し出されていた。
もう一輪を胸の前で握りしめながら、泣き笑いを浮かべるルチアに、ロレンツォはかける言葉が見つからなかった。
彼女が本当にこの一輪を渡したかった相手は、ルチアよりあの少女を選んだように見えたのだ。
初老の執事は、そっと秋桜を受け取った。
そして無礼を重々承知の上で、幼子にするように、皺の多い大きな手で公爵令嬢の頭を撫でた。
更新お待たせしまして、本当に本当に、本当に申し訳ありません!!!
完結まできちんと書くことだけはお約束しますので、今後ともご愛読いただけますととってもとっても嬉しいです!!!
そして長らくお待たせしてしまったにもかかわらず、こうしてまたお読みくださる方々へ、心より感謝申し上げます!!!
ところで、評価方法が変わったみたいですね。
以前、わざわざ評価を付け直してくださった方がいらっしゃり、その時はこんなにも真剣に作品と向き合ってくださる方がいらっしゃるのかと、涙して喜んでおりました。何に対して何ポイントと、吟味してくださるにも労力が伴うはずで、それだけじっくり見て頂けていることがとても嬉しかったです!
システムが変更されても、あの時の感動は決して忘れません!
様々なかたちで応援してくださる皆様へ、海より深い感謝を!




