第35話 シナリオ通りの配役
乙女ゲーム『愛憎のシレア学園』において、秋はイベントの多い季節である。
各ルート個別のイベントを除いても、毎年開催される文化祭や、民間の祭りである“秋桜の花祭り”などは、既に対象キャラ攻略から身を引いたルチアにもやってくる。
文化祭に向けて、既に各学級は準備を始めていた。
昨年は学級の出し物が演劇であり、王子役が本物の王子であるオルランドであったために、演技とはいえ多少の接触をすることになる王女役をルチアが引き受けた。
学級の女生徒の中で最も身分が高く、オルランドの従姉弟でもあるルチアがこの役を引き受けることが、最も角が立たなかったからである。
また、アドルフォを含む“お友達グループ”で野鳥のスケッチを展示物として作成したり、レナートの伴奏も務めたりと、なかなかに活躍の場が盛沢山であった。
しかし今年のルチアは、できるだけ目立たずやり過ごしたいと思っている。
攻略対象の好感度を確かめたり、本来のヒロインではないというハンデを埋めたりするために、彼らと接点を作りにいく必要は、もう無いのだから。
とはいえ、この世界の土台が乙女ゲームの世界であることは変わらない。
ヒロインが編入してきたこの年、当のヒロインであるナナミが誰のルートにいるとも言えない状況であるにもかかわらず、イベントの枠組みだけはそのままである。
しかも、ルチアやナナミを含む転生者が正規シナリオを破壊する選択をしてきた結果、色々と人間関係に誤差が生じた状態で、である。
「くじ引きの結果、配役が決定致しました。小公女セーラ役、ナナミ様。院長マリア・ミンチン役、ロベルタ様。ラビニア・ハーバート役、ルチア様――」
学園祭委員を務める女生徒が、黒板にチョークを滑らせていく。
(こんなところで、今更イベント通りに進まないでよ……!)
ルチアは内心で不満を爆発させながらも、今日も公爵令嬢の仮面を貼り付けて優雅に微笑んでいる。
今年も学級の出し物は演劇。
演目は『小公女セーラ』である。
前世で言わずもがなの有名作であったこの作品は、この世界でも有名作ということになっている。
原作の時代設定と、この世界の文明の発達具合を照らし合わせると、多少設定に無理があるようにルチアは感じていたのだが、この世界のその作品を読んでみると都合よく辻褄が合わせられていた。
物語の大筋は、前世でもこの世界でも変わらない。
妻を亡くした資産家を父に持つセーラは、通う女学院にて人気者になり、同級生の美少女ラビニアはその人気をやっかむ。
セーラの父が病死し事業破綻により破産すると、資産目当てにそれまでセーラに媚びていた強欲な院長マリア・ミンチンは、学費などを回収できなくなったとして、セーラの持ち物を差し押さえ、使用人として働くよう命じる。
父の訃報を悲しむ間もなく、貧しい屋根裏暮らしを強いられたセーラは、院長やラビニアにいじめられながらも、気高さと優しさを失くさず生きる。
その毅然たる姿勢は小さな公女様、故に彼女は小公女。
そんな暮らしを耐え忍んだ末、父の親友である富豪の助けも受けつつ、破綻したと聞かされていた父の事業の成功の報が届いて破産は取り消し、遺産がセーラのものになるという逆転劇が起こる。
学院を離れ、セーラは父の親友に引き取られて幸せに暮らす。
ナナミが役を引き当てた主人公、小公女セーラをこっぴどくいじめる登場人物は主に二人。
それがロベルタが引き当てた院長のマリア・ミンチン、通称“ミンチン先生”と、ルチアが引き当てた意地悪な美少女という設定のラビニアである。
乙女ゲーム『愛憎のシレア学園』では、どのルートに入ってもこの通りの配役であった。
シナリオでは、オルランドルートおよびダミアーノルートではルチアが、アドルフォルートではロベルタが、文化祭本番に演技を利用し、主人公を舞台から落とす。
そしてレナートルートでは他学年であるはずのエルザまでもが、小道具に細工をして、やはり主人公を舞台から落とす。
その際の悪役令嬢たちは、いじめられるセーラの衣装がぼろぼろの服であることを利用し、あらかじめ刃物でスカートに小さな裂け目を作っておき、引っ掛かりやすい糸を仕込む。
落下時、各々の立ち位置から都合の良い方法でその糸を引き、主人公の服が破れて衆目に恥を晒すという、ちょっと色っぽいような嫌がらせまで計画するのだ。
しかし各ルートのヒーローたちが、それぞれ華麗に落ちてくる主人公を受け止める。
破れた服と足の怪我に気づいた彼はそのまま主人公を保健室へ運び、養護教諭不在の二人きりの保健室で手当てをする。
貴族令嬢ならば滅多と見せない足を、見た上に治療のために触れたヒーローは、赤面して恥じらう。
跪いて足に触れる赤くなったイケメンのスチルを手に入れられる、ちょっとドキドキするイベントなのである。
当然であるが今現在、悪役令嬢たちにナナミを落っことす動機は無い。
ナナミは辛うじて入りかけた、隠しキャラのカルロルートすら、上手く攻略できず失敗している。
それを考えれば、当日までシナリオ通りに進むことはないだろうというのが、ルチアの予想である。
懸念されることがあるとすれば、カルロが妙にルチアに熱い視線を送ってくるせいで、ナナミのほうから冤罪を仕掛けてくることくらいであろうか。
何にせよ、文化祭までナナミと絡むことが増えるというのが、ルチアにとっては憂鬱である。
ラビニアの役自体は、特に嫌ではない。
美しくて意地悪で裕福な少女、それはルチアにぴったりではないかと、自分で思っていたりするのである。
(そんなことより、秋桜の花祭りにシルヴィオと一緒に行きたいわ。せめてそれまで……気づかないでいてほしい)
配役の発表が終わり、裏方の役割分担へと話題は移行した。
ルチアの思考は、それを片隅に認識しつつも、既にシルヴィオのことへと流れている。
(綺麗な想い出が欲しいの。信頼を裏切らないでいてくれるなら、あとはそれだけでいい)
別れていないままに別の女性と恋仲になったり、事情の説明もなく目の前から姿を消されたりすれば、それは裏切りだと言うのがルチアの感覚である。
けれどきちんと最後まで向き合った上で振ってくれるなら、信頼を裏切られたとは思わない。
ただできることなら、あともう少しだけ、綺麗な想い出が欲しかった。
今朝も、午前中にシルヴィオの学級の前をわざと通ったところ、相変わらずエルザと親しくしている様子だった。
ルチアは別に、婚約者の女友達の存在にとやかく言うほど束縛したいわけではないのだが、彼らの近すぎる距離に、親しすぎる雰囲気に、シルヴィオの心変わりを感じずにいられないのだ。
彼がルチアへの執着心を変質的なまでに態度に表していた頃ならば、こんな不安には苛まれなかっただろう。
だが現実に、彼は以前ほど狂ったようにルチアへの好意を表現することはなくなっている。
浮気を疑っているとまで言うわけではない。
シルヴィオは言葉では愛を囁くし、想い合っている前提で接してくる。
その素行は、噂が立つほどエルザと親しくしすぎているという点を除いては、理想的な婚約者であると言える。
それに噂はあるものの、実際の彼らの関係が友人としての枠を出ないものに留まっているであろうことも、ルチアは理解していた。
ルチアが好きになったのは、不実を自覚したまま平然と婚約者面のできるような、不真面目な男ではない。
婚約者のいる身で他の異性と親しいと周囲に認識されてしまった点では、彼は伯爵家の跡取りとしてもう少し立場と責任を自覚し、外聞を気にすべきであるとは言えるだろう。
しかしルチアは、愛や恋に基づいて彼を糾弾すべき何者も、感じていなかった。
彼がエルザを愛してしまったなら、それでいい。
彼の口からそれを告げられたなら、ルチアは身を引くつもりでいる。
度重なる婚約解消により何と噂されるかわかったものではないが、愛する男性の幸せのためなら、ルチアは智謀の限りを尽くそう。
それくらいには、彼女はシルヴィオのことを愛してしまっていた。
シルヴィオが心変わりに気づくまで。
彼がルチアのことをまだ愛しているのだと、彼自身勘違いしている間だけは。
ルチアは最後の幸せを享受したかった。
愛も恋も消え失せても、大切な人に向き合ってもらえたという、その事実こそがルチアにとっての救いになるのだから。
いつの間にか就業の鐘が鳴っていた。
放課後である。
「ルチア様には似合いませんよ、こんな役」
聞き慣れた声に振り返って初めて気づいた。
暗灰色の瞳が、黒板の文字を見つめている。
そこにはもう、ルチアを迎えに来たシルヴィオが立っていた。
それに気づかないほどに、思考に深く潜り込んでいたようである。
「あら、そうかしら? なかなかお似合いの役だと思うけれど」
不敵な笑みを浮かべて、ルチアは先程までの不安や切ない感情をシルヴィオから隠す。
「全然ですよ。ルチア様が主役のほうが絶対に素敵です」
他の生徒たちには聞こえないような静かな声ながら、シルヴィオはきっぱりと言い張った。
その瞳はまだ黒板に視線を向け、優し気な眉は不快気に寄せられている。
「ラビニアもルチアも結構共通点は多いと思うけれど? 裕福で美少女で、意地悪」
「ルチア様は意地悪ではありません」
「悪役令嬢よ?」
「ルチア様は悪役令嬢ではありません」
シルヴィオは何を言っているのか。
乙女ゲームのルチアのことは、以前説明したではないか。
そう言おうと思って彼を再び振り返れば、真っすぐに真摯な表情をする彼と目が合い、その視線の意思の強さに思わず口を噤んだ。
「ルチア様はルチア様です」
いつもより強引に、力強く腕を取られてルチアは驚いた。
そのまま腕を引かれて、ルチアはすっかりシルヴィオのペースで教室の外へ導かれる。
「怒ってるの? でもあの配役はくじ引きで、私が望んだわけではないわよ?」
「配役に怒っているわけではありません。怒っても、いません」
怒っていないという言葉が信じられないほどに、シルヴィオの後ろ姿は不機嫌に見えた。
歩調も速い。
広いシレア学園の校舎の中を、無言のままに出口へ向かって歩いていく。
校舎入口付近まできて、彼は突然足を止めた。
驚いたルチアだが急に止まることができず、手を引かれたまま彼の背にぶつかってしまう。
「……すみません、ルチア様。少し熱くなってしまいました。忘れてください」
いったい何なのかと問おうとして、ルチアは発しかけていた声を喉の奥に飲み込んだ。
シルヴィオの背中が震えていたのだ。
「……泣いてるの?」
「泣いてません。ただ、情けないだけです」
ルチアには理解ができなかった。
演劇の配役が何だというのだろうか。
悪役令嬢だということの、何がどうしたというのだろうか。
そんなことの何が、シルヴィオの心を乱すのだろうか。
ルチアにとって転生悪役令嬢であることは、アドバンテージであり一種のアイデンティティですらある。
それを問題視する理由が無い。
(……エルザが悪役令嬢だから?)
悪役令嬢ルチア・ヴェルディアナ・モンテサントのことを設定通りの令嬢と認識するなら、悪役令嬢エルザ・パレストリーナについてもそうしなければならないことになる。
彼にエルザというキャラの詳細は伝えていなかったが、好いた女性がヒロインをいじめる素質があるのだと言われれば、良い気はしないだろう。
それらが全て、自覚の無い範囲でのことだとしてもである。
震えるシルヴィオの背中を、ルチアは宥めるように撫でた。
「ねえ、とりあえず馬車に乗ってしまいましょう? こんなところで辛そうにされては、私があなたをいじめているみたいに見えるわ」
「そう、ですね……。ごめんなさい」
ルチアは歩き出したシルヴィオの背に続く。
彼の表情は見えない。
握られたままの手が熱かった。
馬車に乗り込んだ時、既にシルヴィオはいつも通りの穏やかな彼に戻っていた。
ルチアにはもう、先程の話をぶり返す気はない。
隣でいられる時くらいは、シルヴィオに自分だけ見ていてほしかった。
馬車が走り出して校舎が遠のくと、不思議と安堵がルチアを包む。
「ねえ、シルヴィオ様。秋桜の花祭りに、一緒に行かない?」
庶民の祭に行くとなると、勿論お忍びである。
それを堂々と執事の前で口にするルチアを、ロレンツォは咎めない。
初老の執事は、いつものように陰から彼らを見守る心積もりだけを固める。
「ごめんなさい、ルチア様。その日は先約があるんです」
「えっ……?」
しかしシルヴィオの回答は予想外のものであった。
「せっかく誘っていただいたのに、とても残念ですが……」
心底残念そうに、シルヴィオは眉尻を下げる。
「そう」
短くそれだけ口にすると、ルチアは窓の外へ視線を向けた。
内心は見た目ほど平気ではない。
きっと二人の時間の最期を飾れるような楽しいデートの想い出ができるだろうと、勝手に夢を見て、勝手に楽しみにしていた。
期待が膨らんでいた分、刺されたかと思うほどの痛みが胸を襲ったし、喚き散らして駄々をこねたいくらいに激しく“先約”を取り付けた誰かに嫉妬した。
けれどシルヴィオだって貴族の子息である。
自分ではどうにもできない予定くらいあるだろう。
そもそもルチアが誘ったのは、庶民の祭りなのだ。
こんなことでみっともなく泣き縋るような醜態を、晒すわけにはいかない。
ただでさえ先日から、横暴で稚拙な態度ばかり取ってしまっているのに。
「あの、ルチア様……。怒っていらっしゃいますか?」
「いいえ、別に」
先程の逆である。
おそらくシルヴィオは、ルチアの否定を信じてはいないだろう。
けれどルチアは、本当に怒っているわけではない。
ただ、こんなにも身勝手で狭量な自分を認識して、情けないだけで。
「来年は、一緒に行けるといいですね」
恐る恐るそう言ったシルヴィオに、ルチアは答えなかった。
果たされない約束は悲しく、未来永劫心を傷つけ続ける棘になる。
それが約束とすら呼べないような口だけの些細なやり取りでも、叶わぬ願いを持った事実は消えずに優しい想い出を蝕む毒になるだろう。
だから未来のことは、今は何も言いたくなかった。
きっともうすぐ、彼は自分から離れていくのだから。
「去年の文化祭」
「……え?」
「私、結構楽しかったわ。あなたがどす黒い視線を送ってきてたのも、今となっては良い想い出よ」
確かに存在する過去は、裏切らない。
それに固執して前に進むことを厭うのは、愚かであることに間違いはないが。
積み重ねてきた時間を背負い、その先を行くのが生きると言うことなのだから。
想い出を慈しむことは、罪ではないはずだ。
「すみませんでした、ルチア様。あの頃はご迷惑ばかりおかけして」
クスリと、ルチアは上品に笑いながらシルヴィオを振り返った。
久方ぶりに、穏やかに笑えた気がした。
「いいえ。楽しかったもの。それに私の絵、かわいく描いてくれて嬉しかったわよ?」
「そ、そう言って頂けると……」
シルヴィオは、頬を染めてはにかみ笑いを浮かべる。
想い出は美しい。
今この時もまた、シルヴィオと過ごした時間の全てが、美しい想い出になればいい。
いつまでも、美しいままであればいい。
そうある限り、ルチアは。
「私は、幸せ者だわ」
二章第35話をお読みくださり、ありがとうございます!
そろそろ大詰めに持って行きたいところですが、ちょっと慎重に細部を練っているところです!
ご興味の続く限り、見守って頂けますと幸いです!




