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第33話 悪役令嬢の欲しいもの

ほどなくして、ある噂がシレア学園のあちこちで囁かれるようになった。


シルヴィオとエルザがよく、二人きりでいるところを見かける。

人目につかないところへ二人して消える場面を、見かけた者もいる。

婚約者のルチアに隠れて、彼らは逢い引きを繰り返しているようだ。

――というのが、その内容である。


「不愉快だわ」


移動教室へ向かう途中、あろうことかルチアのすぐ後ろを歩いていた女生徒たちがそのことを話題にしていたので、位置関係上その声を耳に入れざるを得なかったルチアは、つい感情を口にしてしまった。


後ろの彼女らが、はっと息を飲んで立ち止まる気配がする。

静かに振り返ると、青ざめた二人の女生徒がすぐに頭を下げた。


「「申し訳ございませんっ!!」」


震える声から、唇もわなないているのだろうと容易に想像がつく。

公爵令嬢というルチアの身分と、バックについている公爵家の権力に恐怖しているのだろう。


「お顔を上げてくださいませ。これでは、私がいじめているようですわ」


おずおずと顔を上げる彼女らの怯えようが、余計にルチアが彼女らを攻撃しているように見せる。

なんだか悪役令嬢らしい構図であると感じて、ルチアはクスリと上品な笑みを漏らした。


「ご安心なさって? たかが噂話を理由にあなたがたをどうこうしようとするほど、私は狭量ではございませんわ。それともその噂とは別に、どなたかが私に酷いことをされたという噂でも、ございまして?」

「い、いいえそんな!」

「滅相もない!」


二人の女生徒は、揃って首を横に振った。

ルチアは思い出したように、公爵令嬢の仮面をひっ被る。

学園では常にこの“表向きのルチア”でいるよう心がけていたのに、気づけばとんだ失態をおかしてしまったものである。


「あら……失礼致しました。淑女らしくもない物言いを、お詫び致しますわ」


まだ怯える二人に向かって完璧な所作で礼をして、ルチアはしおらしく眉尻を下げる。


「お恥ずかしいことに、少し神経質になっておりましたの。どうか忘れてくださいませ」


今にもほろりと涙を流しそうなのを堪える、いじらしい令嬢を演じる。


「許して頂けますかしら……?」


心細げに問いかければ、女生徒たちはぶんぶんと首を縦に振った。


「お許しするなんて烏滸がましい……! ルチア様が謝罪なさることは何もございません!」

「そうですわ! こんなお優しいルチア様を悲しませるようなお話をしてしまった、わたくしたちのほうこそ……!」


噂の内容に心細くなっている令嬢、という姿を印象づけるルチアのその態度は、この場を丸く収めた。

同時にこの様子を盗み見ていた野次馬たちに対しても、ルチアへの同情を誘うことができただろう。

これで少しは周囲も気遣って、ルチアのいるところでこの噂に触れないようにしてくれればいい。

あんな話を聞かされるのは、本当に不愉快だったのだ。


二人の令嬢たちは、ルチアを元気づけようとするかのように、教室移動の間中、隣で明るい話題を振ってくれた。

根の優しい子達であったようだ。

ルチアは才色兼備の公爵令嬢であるが故に、同級生から距離を置かれやすい。

しかしこの様子を見るに、家名に対する恐れはどうにもならないものの、嫌われているとか、疎まれているとかいうわけではなさそうである。


――ああ、不愉快だ。

彼女らの気遣いを素直に喜べず、先程の自分の態度に嫌悪感を募らせるばかりの今のこの状況も。

同情的な視線でちらちらとルチアを見遣る、無数の視線も。

まだあの噂を囁く、止まない小さな声たちも。


シルヴィオが隠れて継続的な浮気などするはずがない。

一度の過ちだって、ちょっとやそっとで犯すような男ではない。

ルチアはそう、認識している。

だから、無数の声が彼を不誠実な男のように言うのは、とても不愉快だ。


なのに。

ルチアは噂に傷ついているかのような態度を、わざと取った。

こんなことをしては、シルヴィオに対する批判の声を高めかねないと、ちらりと脳裏を過ぎったにもかかわらずである。


心のどこかで、いっそシルヴィオがこの噂が元で苦しめばいいと思ってしまったのだ。

そうすれば彼は、もっとルチアの傍にいようとしてくれるかもしれない。

疚しいことがないにせよ、エルザと会うのに使っていた時間もルチアにくれるかもしれない。

噂のようなことはないと、一生懸命ルチアに示そうとしてくれるかもしれない。

そうすれば、愛されている証拠がもらえるかもしれない。


(なんて身勝手で浅ましくて、愚かなのかしら。私が安心を得るために、シルヴィオを苦しめたいと思うなんて……どうかしているわ)


どうかしている。

そんな言葉で片付くことにしてしまいたかった。

けれど実際は、消えてしまいたいとまで感じているのを、ルチアは自覚していた。

愛しい人の苦しみを望むほど、この恋が妄念に堕ちてしまったのなら。

そんな自分は消し去りたかった。


本当にどうかしている。

ストーカーしてもらえなくなったというそれだけで、不安と恐怖が何もかもを蝕んでいく。

公爵令嬢という身分、生まれ持った美貌、前世の記憶から得られる膨大な知識といった、恵まれた条件を全て手にしながら。

余裕なんて欠けらも無い無様な醜態を晒している。


婚約を破棄されたわけでもないのに。

好意を失ったと告げられたわけでもないのに。

大切に、優しくされているのに。

不安になるのは、信じきれないからだ。

それはシルヴィオが悪い訳では無い。

前世のトラウマを、乗り越えられないでいるルチアの問題だ。


シルヴィオの愛を信じようと心に誓ったのに、今こうして信じられなくなっている。

それだけで絶望が襲う。

あの時は心から、信じられると思ったのに。

自分にも彼にも、嘘を吐いたことになる。


終業を告げるチャイムが鳴る。

また教室を移動しなければならない。

ルチアは少し大回りして、シルヴィオの教室の前を通るルートを選んだ。

僅かでも彼の顔を見たかった。

あの暗灰色の温かな瞳と目が合えば、全ての不安を雪がれるのではと期待した。


「っ――!!」


教室の隅で、周囲とは少し距離を置いて会話しているシルヴィオとエルザの姿が目に入った。

シルヴィオは屈託のない笑みを浮かべたかと思うと、内緒話をするように距離を縮めて、僅かに頬を染めている。

これでは噂になるのも無理はない。

勘違いをさせるような態度を取っているのは、シルヴィオ本人ではないか。


(勘違い……なのかしら。私の前では、あんなに伸び伸びと笑ってくれたことなんて無いのに)


じりじりと胸を焼く狂おしい嫉妬心に苛まれる。

この情景を見るまでは、少なくとも浮気など無いということだけは信じていられたのに。

これでは、心変わりを疑ってみるべきだと、思わざるを得ないではないか。


下級生ばかりのその教室へ入って行って、嫌味のひとつでも言ってやろう。

――そう思ったのに。

足が震えていることに気づいた。

おそらくそれを無理に動かして、よしんばシルヴィオのもとへ辿り着いたとしても、今のルチアでは惨めに泣き崩れて注目を集めるのが関の山だろう。

毅然と対峙して嫌味を言って、颯爽と去るだけのことが、きっとできない。


情けなくなりながら、ふらふらとその教室から離れて廊下を歩いた。

その足は保健室に向かっていた。

次の授業は仮病を使って休ませてもらおう。

普段真面目にしているのだから、たまには許される。

――そう思っていると、階段の近くまで来たところで、後ろから誰かが駆けてくる足音がした。


誰か、だなんて。

誤魔化したところで仕方がない。

ルチアが聞き間違うはずがない。

その足音の主は――。


「ルチア様!!」


慌てたようなシルヴィオの叫び声と共に、すっと身体を支えるように腕を回される。


「……具合が悪いんですか? 保健室まで付き添わせてください」


暗灰色の優しい眼差しがルチアに向けられる。

それすら信じられない苦しさに、ルチアは呼吸もままならないほどの胸の痛みを感じた。


「……は、離して」


掠れ声でやっと告げると、戸惑いながらもシルヴィオは腕を離した。


「でも、ルチア様……。そんなにふらふらなさって、危ないです」

「私に構う必要はないわ。エルザ様とお話中だったのでしょう?」

「そんなの、どうでもいいです。こんな辛そうなルチア様を、放っておくなんてできませ――」

「どうでもよくないわ!」


ルチアは、つい大声を出してしまった。

周囲の生徒たちの視線が集まる。

今後あの噂に、ルチアとシルヴィオの不和という内容が上乗せされるのだろう。


「あなた……無自覚なのね」


瞠目したままのシルヴィオに、ルチアは自嘲気味な笑みを向ける。


「何がですか?」

「……やっぱり。いいわ、気づくまで悪気が無いことは確かだもの」

「何のことですか、ルチア様? 教えてください!」


シルヴィオが困惑して尋ねる様子が、ルチアには憐れにすら思えた。

例え彼がエルザに心変わりしたのだとしても、本人がそのことに気づいていないなら、ルチアはまだ裏切られてはいない。


「一人になりたいの。お願いだから、構わないで」


納得していない表情のまま、シルヴィオは渋々頷いた。


「わかりました。では、階段、お気をつけてくださいね。絶対、怪我なんてしないでください」

「ええ」


動かないままルチアを見送るシルヴィオを残して、ルチアはふらつく足取りのまま、ゆっくりと階段を降りていく。


本当は、このまま真っ逆さまに落ちて全てを手放してしまいたかった。

今ならまだ、今世で愛する人に裏切られていない。

別れてもいない、婚約者のままで、死ねるのなら。

今、ここで全て終わりにするのもいいのではないかなんて。

悪役令嬢が聞いて呆れる。


(しっかりしなさい、ルチア。幸せになりたいんでしょう? 私を欲しがる男なんて、いくらでもいるじゃない)


これまで攻略してきた彼も、彼もと、頭に思い浮かべてみる。

良い男はシルヴィオだけではない。

好きになれる男が滅多にいないだけで。

それも時間が経てば、変わるかもしれない。


折角与えられた二度目の人生、やり直す好機を、この程度のことでみすみす無駄にする必要はない。

ルチアはまだ若いのだ。

この世界においては、そろそろ結婚適齢期にはなるが。

結婚だけが全てでもない。

卑怯だと思ってやってこなかったが、前世の知識を活かして天才科学者を名乗ってもいい。

まだ、何にだってなれる。


(でも、私が本当に欲しいものは……)


銀の髪、温かな暗灰色の瞳。

控え目なモノトーンのようでいて、深みのある輝き。

華奢ながら男らしい、ルチアより少し大きな手。

ルチアを呼ぶ優しい声。

シルヴィオのことばかりが浮かぶ。


保健室の扉を開けて具合が悪いと告げると、熱を測るよう指示される。

当然熱などないのだが、頭痛が酷いと主張した。

カーテン付きのベッドで休むことを勧められた。

本当に具合が悪そうに見えたのだろう。


ふと薬棚のガラスに、自分の青ざめた顔が映った。

ルチアはそんな自分に対し、不敵に微笑んで見せた。


(いざとなったら科学知識を結集して、シルヴィオ型ロボットに人工知能を埋め込んで、夫だということにするわ!)


思いついて満足したと自分に言い聞かせ、何もかもを誤魔化しながら、ルチアは保健室のベッドに潜り込んだ。

結局シルヴィオへの執着心に塗れたままの、どうしようもなく後ろ向きな心にも知らないふりをしたかった。


真っ白なだけの天井とカーテンが、全ての煩わしさから束の間の隔離をしてくれる。

いつしかルチアは、疲れ果てたように眠りに落ちていた。

二章第33話もお読みくださり、ありがとうございます!

次回更新は、だいたい来週末くらいになりそうです。

少しお待たせしてしまい申し訳ありませんが、何卒お付き合い頂けましたらとてもとても嬉しいです!

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