第32話 追ってこないストーカー
シルヴィオの様子がおかしい。
――ルチアがそう感じたのは、シルヴィオがパレストリーナ家の茶会に出席した翌日からである。
何がおかしいかというと、これまでと様子が違うのだ。
ルチアの髪を拾わない。
ルチアの使用済みのちり紙を預かろうとしない。
ルチアが飲みかけたグラスに口をつけようとしない。
そして何より、待ち合わせたらその場所で待っているだけで、ルチアがどこかへ行くのを見かけても追ってこない。
ごく普通のことである。
それがシルヴィオのことでさえなければ、当たり前のことのはずだ。
更にいうと、そういった変質的な趣味のあったことを除けば、もとよりシルヴィオの振る舞いは、理想の紳士とも言えるものだったのである。
今やルチアは、完璧な婚約者を手に入れたと言っていい。
だというのに、ルチアの心を今支配しているのは、底知れぬ不安なのである。
「ねえ、シルヴィオ様。少し寄り道して帰らない?」
シレア学園から帰る馬車の中、甘えるようにシルヴィオの肩に頭をもたせ掛けながら、ルチアが思いつきを口にする。
「ルチア様がお望みなら、喜んでご一緒します」
「何、その模範解答……」
「ご不満でしたか?」
暗灰色のあたたかな瞳を、斜め下から見上げる。
ルチアの好きな穏やかな微笑が、優しい眼差しを返してくる。
「不満よ」
そう答えれば、髪と同じ銀色の品の良い眉が、困ったように下がる。
それはルチアの正直な気持ちであったが、何がどう不満とは、複雑な思いが絡み合って端的に口にすることができない。
そのままルチアは、シルヴィオから視線を逸らして俯いた。
「ぼくは何か、ルチア様のお気に障ることを言ってしまったでしょうか?」
「いいえ」
「どこがご不満か教えてくだされば、改善します」
「そうね。毒にも薬にもならない模範解答は見飽きたってところかしら」
なんと傲慢なことを言っているのかと、ルチアは自己嫌悪に陥る。
今すぐシルヴィオに謝りたいのに、それもできずに、どんな反応が返ってくるかと怯えながら身を固くする。
自分の中でも整理のつかない感情に苛立ち、明らかな八つ当たりをしてしまった。
頭はシルヴィオの肩に乗せたまま、そんな資格は無いとさえ感じる。
いつも自信に溢れていたルチアが、何をこんなに怖がるのか。
心細く、どうしていいかわからない。
弱い心を仮面で隠したいのに、公爵令嬢らしくも、悪役令嬢らしくも、上手く振る舞えない。
「ルチア様」
静かな声がルチアの名を呼ぶ。
次の瞬間には冷たく突き放されるような気がして、ルチアはぎゅっと強く瞼を閉じた。
「何かありましたか? ぼくでよければ、話してください」
しかし聞こえてきたのは、ルチアを優しく気遣う言葉だった。
「話せないようなことでも、お傍にいることはできます。どうかもっと、ぼくを頼ってください」
いつしか膝の上で握りしめていたルチアの手を、一回り大きなシルヴィオの手が優しく包み込む。
その感触に安堵して、ルチアは泣き出してしまった。
「る、ルチア様!? どうなさったんですか!?」
「うるさいわね! 女の子には色々あるのよ! 放っておいて!」
怒鳴りつけると、ルチアの背を撫でて宥めようと持ち上げられていたシルヴィオの腕が、すっと下がる。
包まれていた手も離れていき、空気に晒される冷えた感覚がした。
自己嫌悪と不安が膨れ上がって、視界が歪む。
「……すみません、ルチア様。ええと、寄り道はやめて帰りますか? ぬるま湯を飲んでお腹を温めていれば、少しは和らぐと聞いたことが――」
「生理が重くて癇癪起こしてるわけじゃないわよ、このお馬鹿!」
「す、すみません!! では、ええと……どうすれば?」
おろおろと戸惑うシルヴィオの隣で、ルチアは暫くハンカチを目元に当てて、声を出さずに泣いた。
黙って見守るロレンツォも困っている気配があったが、構っている余裕はなかった。
やがて馬車が停車する。
いつものように、先にシルヴィオを降ろすために、ベルトロット邸の門の前に。
寄り道は結局出来なかったが、特に目的があったわけではないので、ルチアの中ではそんなことはもうどうでもよくなっていた。
「あの、ルチア様……。今日はどうぞ、ゆっくりお休みください。また明日お会い出来るのを、楽しみにしています」
黙ったまま目を合わせないルチアに、シルヴィオが優しく言葉をかける。
「……ごめんなさい」
いつものルチアからは考えられないような弱々しい声で、彼女は謝罪の言葉を紡いだ。
「いいえ。ぼくが悪かったのでしたら、後日落ち着いてお叱りください。そうでなかったのなら……お役に立てず、すみません」
ルチアは言葉を返せなかった。
八つ当たりして、勝手に泣いていた自分が恥ずかしい。
そんな無様な自分を俯瞰しているもう一人の自分のような意識があって、自分をどこかに埋めてしまえたらいいのにと思った。
「では、ルチア様。お先に失礼しますね。また明日」
そっと優しく、シルヴィオがルチアの頬に口付けた。
いつも別れ際にこうする習慣があったわけではないので、ルチアは驚いて思わず目を見開いた。
何か言葉をかけなければならないと思って、数秒遅れてシルヴィオのほうへ顔を向ける。
けれど彼は、既に馬車に背を向けて門を潜ろうとしており、振り返る様子もなかった。
その背中を追って、縋りたいと思った。
こんな気持ちは初めてで、ルチアは戸惑いに動けない。
「ロレンツォ。もう出して」
「畏まりました」
取った選択は、逃げるという情けのないものだった。
ルチアが命じれば、直ぐに馬車は動き出す。
追ってこないシルヴィオへの不安が膨らむほどに、その背を追いたい衝動に駆られる。
そうしなければ、このまま置いて行かれる気がした。
泣きじゃくるシルヴィオを宥めるのは、いつもルチアの側だったのに。
いったい急にどうして、こんなことになっているのだろうか。
ルチアにはわからない。
シルヴィオは優しい。
ルチアが傲慢なことを言って八つ当たりをしても、怒らない。
どこまでもルチアを気遣ってくれる。
そういえば彼が怒っているのを、ルチアは今まで見たことが無い。
誰にでもそうなのならば、ルチアにだけ優しいわけではないのだろう。
――そんな考えが今更のように浮かんでくる。
自分にだけ優しくあってほしいと思うわけではない。
もしもシルヴィオが、好きな女にしか優しくしないような人柄であったなら、とっくにルチアの愛情も冷めていただろう。
だったら何故、そんなことが気になるのだろうか。
(簡単よ。特別だという証拠が欲しいんだわ)
ルチアはシルヴィオの特別なのだと、これまでずっと信じてこられた。
それは彼が、ルチアだけをストーカーするからである。
彼女だけを追い、彼女のものだけを集めているシルヴィオの様子を見ていれば、その執着ぶりに安堵できた。
心という目に見えないものが、いつ離れていくかもしれないという恐怖に、晒されずに済んだのだ。
(いくら余裕の振りをしていても、結局私は自信が無いのに虚勢を張っているだけの、無様な道化なんだわ)
自己嫌悪と自嘲と自虐が、ルチアの胸の内で渦を巻く。
他の誰を敵に回しても不敵に笑って返り討ちにしてやれる自信があるのに、シルヴィオの心を繋ぎ留めたいという想いだけが、ルチアをどこまでも弱らせる。
(こんなふうに一人で弱っていくくらいなら、本人に訊けばいいんだわ。どうして急に態度が変わったのかって。でも……)
シルヴィオは優しい。
いじめられても報復しようともしない。
そんな彼だからこそ、今ルチアに向けられている優しさの意味が、わからない。
ストーカー行為は、シルヴィオがルチアにだけ示してきた特別な態度だった。
だから彼女はそれを、嬉しいと思ってきたのだ。
それがなくなったということは、つまりシルヴィオにとってのルチアはもう――。
「――様、ルチアお嬢様」
「な、何!?」
何度も名前を呼ばれていたことに気づく。
ロレンツォの困り顔が視界に入って、はっとした。
「到着いたしました。歩けますか?」
「え、ええ」
「お身体に不調でも? 医師を手配致しますか?」
「いいえ、大丈夫よ」
見慣れたモンテサント公爵家の広い庭を、既に屋敷の前まで馬車は進んできていた。
それに気づかないほどに、考え事に耽っていたようである。
「わたくしでお役に立てることがございましたら、何なりとお申し付けくださいませ」
「ありがとう、ロレンツォ。今のところ何もないわ」
使用人たちが扉を開き、その先の屋敷の中へと歩を進める。
いつも通りの道順で自室へ戻り、侍女に手伝われて着替えを済ませる。
「サロンに行きたいわ」
「畏まりました」
身の回りを整えられてすぐ、サロンのピアノの前に座った。
蓋を開くところまで、侍女がしてくれた。
何も弾く気は起こらない。
ただ、右足をペダルにかけて、左足で床を踏んだ。
そこに誰かさんがいた時の感触を、思い出すかのように。
遅すぎますが、あけましておめでとうございます!
本年初更新になり、大変大変お待たせしまして、申し訳ありません!!
このまま連載止まってしまうのではと不安やストレスを感じられた方々には特に、深く深くお詫び申し上げます。
まだ更新ペースを初めの頃に戻すことは難しいのですが、少しずつ今後も連載して参りますので、何卒お付き合い頂けますと幸いです!
ご無沙汰しておりましたにもかかわらず、こうしてまた拙作を開いてくださいましたことに、心より感謝致します!!!
本年も何卒(という時期はとっくに過ぎておりますが……)よろしくお願い致します。




