第6話 音楽の天才レナートの攻略
レナート・パレストリーナは、伯爵家の子息である。
彼はパレストリーナ伯爵家の長男であるのだが、所謂妾の子であるために伯爵夫人からいじめられている。
パレストリーナ家には他に三人の娘がいるのだが、伯爵夫人は男児を産むことができなかったために、跡継ぎとして当時六歳だったレナートが引き取られたのだ。
貴族の家の事情のために実の母親から引き離され、継母にいじめられたレナートは、当然のように心を閉ざしていった。
いつしか彼は、教養として手ほどきを受けていたピアノやヴァイオリンに教師が驚くほどの才能を示し、それに留まらずフルートにトランペットにと楽器ならば何でも人並み以上に操って見せ、しまいに作曲や指揮なんかもやり始めた。
他のどんな時にも殻に閉じこもるだけであったレナートは、唯一気負い無く自分を表現できる音楽に、何よりのめり込むようになる。
伯爵家の跡を継がせたい父親は、レナートに他の勉強をさせたがって、一度全ての楽器や楽譜を取り上げた。
しかしレナートは、音楽から遠ざけられた悲しみで、以前にも増して他の何にも手がつかなくなり、自らの心から湧き出る他の誰のものでもないメロディを、美しい少年の声で歌っては涙して暮らした。
こうまで溢れ出る彼の才能と繊細な心に、諦めにも近い気持ちで彼の父は取り上げたものを返してやった。
レナートは、父の情けに感謝して、彼のさせたがった勉強にもきちんと取り組むようになった。
そしてそれ以外の時間は、相変わらず音楽に捧げた。
レナートの音楽の才能は、社交界でも知られるようになっていった。
茶会の席では彼の奏でるピアノの音にご令嬢から貴婦人までうっとりと耳を傾け、夜会では時にヴァイオリンを奏で、時にオーケストラを指揮する彼に、熱い感嘆の吐息を漏らす女性は多かった。
人見知りが激しく、社交など不得手中の不得手である彼だが、影のある整った顔立ちは紛れもなく美形で、黙って音楽を奏でていれば麗しいの一言に尽きた。
シレア学園に通うレナート・パレストリーナは、他人とあまり関わりを持ちたがらない、風変わりで偏屈な生徒として有名である。
騒音に神経質で、人混みを嫌い、すぐに独りになりたがる。
それでも、どこか暗いものを抱えたような神秘的な美貌に引き寄せられ、交流を図ろうとする令嬢たちは後を絶たなかったが、彼はいつでも冷たくあしらうのだった。
ゲームのレナートルートでは、彼が心を開くまでにかなりの忍耐を要する。
ヒロインは、放課後に偶然通りかかった音楽室の前で美しいピアノに聴き惚れ、邪魔をしないようにその扉の前で黙って聴いていることにする。
それが習慣になって何日かした頃、ようやく進展があるのだ。
レナートルートの悪役令嬢は、一歳年下の彼の腹違いの妹である。
伯爵令嬢エルザ・パレストリーナは、血の繋がった兄であるレナートに、許されぬ恋慕の情を抱いている。
叶わぬ想いを胸にしまい込みながら、彼女は兄の相手にはせめて、家柄も容姿も人柄も、そして頭脳もとあらゆる面で完璧な相手を望んだ。
妹という立場でなくとも敵わない令嬢が相手なら、苦しい想いを断ち切れるという望みを抱いているのだ。
子爵令嬢で容姿も成績も平均的なヒロインが彼と仲良くなると、エルザはヒロインを目の敵にし始める。
ヒロインと身分や容姿の優れたルチアとを比べては、いかにヒロインが劣るかを嫌味たらしく指摘してくる。
そしてまた、ヒロインと頭脳明晰なロベルタを比べては、これまたいかにヒロインが凡愚であるかを説く。
エルザ自身もこのような幼稚な嫌がらせをする点を除けば、充分に美しく聡明な部類であるだけに、ヒロインの敵はこの悪役令嬢よりも、いつしか己の劣等感へとすり変わっていく。
レナートルートのテーマは、孤独を好むレナートとの交流が深まるにつれ、こうして“自分との闘い”に集約していく。
気難しく素直になれないレナートと、本質的には素直なのに劣等感から遠慮をするヒロインは、想い合ってもすれ違いを繰り返す。
この焦れったさが好きなファンはこのルートを偏執的なまでに愛好したが、付き合っていられないというプレイヤーの声もまた少なくなかった。
ベストエンドでは、音楽を通してありのままの自分をさらけ出すレナートの姿に受けた感動から、ヒロインは劣等感を乗り越えてありのままの自分を受け入れ、堂々とレナートを愛するようになる。
その姿を美しいもの、自分以上の心を持つ令嬢と感じたエルザは、応援こそしないもののヒロインとレナートの関係を見守ることにする。
結婚までを描かれるオルランドルートとは違い、レナートルートでは想いが通じ合ったところで終わるが、後日談としてヒロインの内助の功でパレストリーナ伯爵家は盛り立てられたとナレーションが入るので、ファンの間では結婚したものと見なされている。
そんなレナートは、『愛憎のシレア学園』で最も攻略の難しいキャラと言われ、転生悪役令嬢のルチアにとっても特に終盤は彼の攻略が難航することが予測された。
現世のルチアならば、エルザのお眼鏡に叶うことは難しくないが、劣等感を乗り越えていくというプロセスをヒロインと同じように踏めない分、イベントにルチア独自のアレンジを加えていかなければならないのである。
これは、ルチアの想定の範囲内のことである。
前世の記憶を持つことがチートであり、それを活かして今世で勝ち組になると決めたルチアは、そのやり方を曲げるつもりはない。
レナートに本気になると決めたら、強引にでも辻褄合わせをしてイベントを進め、ベストエンド以上の結果を出すつもりで臨んでいた。
しかし、そんなルチアの自信は最初のイベントで揺らいでしまう。
良くも悪くもヒロインとは違いすぎたルチアにとって、レナートというキャラは一筋縄でいく相手ではなかったのだ。
(さすが音楽の天才という設定だけあるわね。ノクターンの二番なんて難曲でもないのに、この響きの違いはすごいわ)
音楽室の扉の前で耳を傾けるこのルチアには、前世の記憶がある。
彼女は前世で、ジュニアのコンクールで最終審査に残る程度にはピアノが弾けた。
今レナートが奏でている曲は、彼女の耳にも手にもよく馴染んだ、ショパンのノクターン第二番である。
(それにしても、前の世界と同じクラシック曲がこの世界にもあって、その作曲者まで同じ名前だなんて、設定が杜撰だわね)
ルチアは思う。
この世界は前世からすれば異世界なのであるから、科学や文化を発展させてきた偉人達が一人でも同じであるわけがないのが、本来納得のいく世界の姿である。
ところが、この世界における著名な作曲家も、その作品も、ルチアが前世で知っていた通りのそのままなのである。
これは決して制作チームの手抜きではなく、そのあたりに独自の設定を作り込んで出したところで、プレイヤーに需要もなければ、認識が追いつかなくなる要因を作るだけなのであろう。
しかし、実際にこの世界を生きるルチアにとって、その点が今の彼女には大きな違和感となっていた。
そんな思考に耽っているとピアノの音が止み、ガラリと音楽室の引き戸が開いて、その隙間から癖のある栗色の髪が綺麗に生えた頭が現れ、レナートが顔だけを扉の外へ覗かせた。
「入って来なよ。ほとんど毎日のように姿の見えない誰かに立ち聞きされる気持ち悪さを思えば、そのほうがマシだ」
整ってはいるが神経質そうな眉目が、照れと不快を綯交ぜにしたような表情を浮かべている。
青紫色の瞳が、えも言われぬ神秘的な輝きを放って、ルチアに視線を投げかけた。
「まあ、嬉しい。お言葉に甘えさせて頂きますわ」
ゲームのヒロインと同じ台詞を口にし、柔らかく微笑んだルチアだが、レナートの反応はゲーム通りではなかった。
ほんの刹那瞠目し、
「…公爵令嬢」
と口走り、気まずそうに視線を背けた。
相手の身分を知り、偉そうな物言いをしてしまったことを彼なりに気にしてのことである。
「私、音楽が大好きですの」
フォローのつもりで口にしたゲームには無いその台詞は、ルチアの本心である。
その時にレナートに向ける完璧に上品な笑顔は、作り物ではあっても。
ばつの悪そうな横顔の白く繊細な肌は、スチル以上の透明感があった。
その顔が何も言わずに奥に引っ込んだので、ルチアは淑女らしい優雅な所作で音楽室へ入り、ヒロインがゲームで腰掛けていた窓際の一番前の席――ピアノの前に座るレナートの指先まで見える位置――に静かに陣取った。
再びピアノの上で指を踊らせ始めたレナートは、ルチアの目には音を紡ぐ神であるかのように見えた。
見えないはずの音そのものが、色や光を纏って彼から紡ぎ出されていくのだ。
どきりと胸が高鳴る。
それは恋ではなく、音楽を愛した前世の魂を呼び覚まされ、それが息を吹き返したような感覚であった。
攻略なんてことは忘れ去って、ルチアは暫く、レナートの演奏に夢中で聴き惚れていた。
それは紛れもなくルチアの知っている曲である。
しかしルチアは、初めてその曲のあるべき姿を本当に知ったような気持ちになった。
うっとりと、紡がれる輝きに身を委ね、包まれるような心地良さに恍惚とする。
特に音楽に造詣が深いという描写のなかったヒロインより、ルチアは余程彼の音楽に魅了されやすいのかもしれなかった。
「…公爵令嬢のお耳汚しに、なっていなければ良いのですが」
曲が終わって、その手を鍵盤から離した彼は、ただの偏屈そうな男子生徒に戻ってそう呟いた。
「あなたは天才だわ…!ああ、いいえ、こんな誰もが口にしそうなわかりきったことを伝えたいのではなくて…」
ルチアの完璧の公爵令嬢の仮面が、剥がれてしまっていた。
イベント通りの台詞を発することも、忘れてしまっている。
「こんな夢のような音楽を生きているうちに耳にできて、私はなんて幸運なのかしら!ああ、世界をこんなにも美しく愛おしく感じたことはありませんでしたわ!」
ルチアの翡翠色の瞳は、きらきらと輝いている。
その目はもはや、レナートを見てすらいない。
先程まで紡がれていた音だけに、一途にその関心が向かっているのである。
「…貴女がこんな方だとは、存じませんでした」
ぼそりと漏れ出たレナートの言葉に、我に返ったルチアは焦って彼に視線を向ける。
ルチアは、やってしまったと思った。
初めてイベントの進行に失敗したと。
「申し訳ございませんわ。はしたなく興奮してしまって…。どうぞ、こんな私の姿をご覧になったことは、皆様には内緒にしてくださいませ」
焦りと不安の表情を理由をつけて誤魔化すため、ルチアは公爵令嬢らしくない振る舞いを引き合いに出した。
最悪、レナートの攻略は諦めることになっても、せめて他キャラのルートにまで影響が出ないようにしたいところである。
「それは構いませんが…。先程の演奏が、そんなにお気に召しましたか」
ゲームには無い台詞が、レナートの薄めの唇から次々発せられる。
人見知りという設定の彼がこんなに話かけてくること自体が驚きだが、ルチアは半ばイベントは失敗と諦めかけて口を開いた。
「気に入るどころではございませんわ!まるで世界の色を変化させる魔法のような…!ああ、私も存じている曲ですのに、初めて知ったような気持ちになりましたわ」
そうして素直な感想を述べる時のルチアは、きちんとレナートを見ていない。
うっとりと思い出すのは先程の音楽なのだ。
「…そんな風に言われると」
ルチアがレナートへ視線を戻すと、彼ははにかんでいた。
(嘘、三つ先のイベントのスチルじゃない!?)
ルチアは思わず瞠目する。
「どうぞ、いつでも聴きに来てください」
神経質そうな美貌のレナートが、はにかみ笑いをしていた。
(嘘でしょ!?初めて笑うのはもっと先、五つ目のイベントの時よ!?)
どうやらイベントに失敗したというより、結果的にヒロインより上手くやったようである。
ならばと、ルチアはこのままいくことにする。
「まあ、嬉しい!生まれてきてよかったですわ!死ぬ瞬間も聴いていたいくらい!」
それは掛け値なしの本音である。
返事もせずに、レナートはピアノに向き直り、また違う曲を弾き始めた。
ルチアは音楽室に響くその音に全てを委ねて聴き入った。
その日は、校舎が閉まる時間が来て守衛に追い出されるまで、ルチアひとりのための贅沢なピアノ演奏会が続いた。
ルチアは攻略そっちのけで、レナートの音楽を堪能した。
帰る頃になって、ルチアは激しく後悔した。
(次にどのイベントを起こせばいいのか、わからないわ!!)
第六話をお読みくださり、ありがとうございます。
高飛車令嬢ルチアにも何か弱点が欲しい、ということで、音楽に魅了されやすいという要素を盛り込んでみました。
ここまで周りを利用して都合良手玉に取るばかりだったルチアの、唯一の純粋な良さでもあるかもしれません。
今後ルチアのドヤ顔が崩壊する瞬間も、お楽しみ頂けましたら幸いです。