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第29話 元婚約者の敗北

「お、おい、ロレンツォ! 不審者だ。つまみ出してくれ!」


ダミアーノは、利用しようとした女性を知らないと言い張り、更には元婚約者の執事に対し我が物のように命令をした。

しかし、名を呼ばれたロレンツォは、先程までと変わらずルチアの数歩後ろに控えたまま、静かに佇んでいるのみである。


「聞こえないのか!?」


催促されても、公爵家に仕える初老の執事は動かない。

バルバラの瞳から涙がぼろぼろとあふれ出た。


「うっ……ひどい、ひどい……!」


もう一度頬を張ろうと振り上げた彼女の手を、ルチアはさっと掴んで止めた。


「叩くと手が痛むわよ? それに、どこの女の唾がかかっているかもわからない不衛生な頬に、何度も触れるものではないわ」

「なっ……!?」


婚約者に裏切られ、自分の元へ戻ってくる――という筋書きに乗せられているはずだった令嬢が、明らかに自分を侮辱している。

その事実が信じられないのか、ダミアーノは瞠目してルチアを見つめた。

ルチアの手は依然、振り下ろそうと藻掻くバルバラの手を掴んだままである。


「バルバラ。あなたの仇は私が取ってあげる。だから今はその手を下ろしなさい」

「うっ…ううっ……!」


嗚咽と共に、バルバラの震える手から力が抜けていく。

それを離してやると、ルチアはダミアーノに正面から向き合った。


「ルチア様、その女のことを知っていらし――」

「その女ですって? 仮にも愛を囁いた淑女に対し、よくそんな扱いができますわね」


そこにいるのは、公爵令嬢の仮面を脱ぎ捨て、悪役令嬢らしい不敵な笑みを浮かべたルチアである。


「ええ、存じておりますわよ。それがあなたの本性だと」


ダミアーノがこんな彼女を見るのは、二度目だ。

一度目はまだ彼女の婚約者だった頃、シルヴィオの変質的な行為を断罪しようとしたときである。

ルチアが変わってしまったのはあれからだ。

順風満帆だったダミアーノの人生が狂い始めたのも。

――ダミアーノにとっては、そういう認識なのである。


「このことはブランディ侯爵には勿論、お父様にもご報告させて頂きますわ」


そう、ルチアは変わってしまった。

淑やかで非の打ちどころのない令嬢であったのに、シルヴィオが関わると攻撃的になる。

調べても調べても裏が取れなかったことではあるが、今ここで薄汚い野良犬のようにルチアのドレスの裾に縋り付いている伯爵家の子息が、そういう気の弱そうな人間を演じながら彼女の精神を徐々に壊していったのだ。

残念だが、こうなってはルチアを取り戻しても、以前の生活は戻ってこないだろう。

そう考えて、ダミアーノもまた純真無垢な貴公子の仮面――少なくとも本人はそのつもりのもの――を脱ぎ捨てた。


「……痛み分けですよ、ルチア様」


ヘーゼルの瞳には、もう偽りの熱は込められていない。

決して侮られないように、冷静さを保つ。


「ルチア様だって、淑女として相応しくない侮辱をなさったと、醜聞が広まるのは望まれないはずです」


ダミアーノは既に一度、醜聞の広まった身である。

今のところ無傷のルチアのほうが、その評判に傷をつけられることを恐れるはずだ。


「あら? 誰があなたのおっしゃることなんて信じますかしら? ねえ、皆さま?」


ルチアは、そこにいる全員の顔を見回す。

テラスにいるのは、ルチア、バルバラ、シルヴィオ、ロレンツォ。

完全なるルチアの味方ばかりである。

そして店の奥で気配を消している店員たちについては、見て見ぬふり、聞かぬふりをしている時点で、察せられるものがある。

何しろここは、モンテサント家の領内なのだ。


「自家の使用人に供をさせなかったのは、失敗でしたわね?」


言い返すことができず、ダミアーノは奥歯を噛みしめて黙った。

彼が侮辱を受けたと訴えたところで、ルチアが彼が嘘を吐いていると言い切ってしまえば、この場の者たちはそれに話を合わせるだろう。

形勢は完全にダミアーノ側が不利である。


「それもわかっておりましたけれど。正式に満足する婚約者を得るまで、余計なことはブランディ侯爵のお耳に入れたくないと、お考えなのでしょう?」


……ダミアーノはしくじった。

味方を連れずに、相手の領域に乗り込んだ。

彼をそんな行動に駆り立てたのは、残念ながら勇気ではなく慢心である。

ダミアーノが口説いて落ちない女など、そういるものではない。

ルチアの心を揺さぶって、それからシルヴィオの立場を危うくすれば、上手くいくと信じていたのだ。


「あなたが何を主張なさっても、それは虚言で片付けられてしまいますわね。自業自得ではなくて? 同じことをバルバラにしようとなさったんですもの」


黙って聞いていたバルバラの口から、嗚咽が漏れる。

“報酬”を与えることになる可能性を見込んで、ダミアーノは見目の良い女を選んだ。

数多の女性を相手取って来た彼とはいえ、否、だからこそ、好みというものがある。

しかし、これほど役立たずとは思わなかったのだ。

左右非対称に整えた前髪の奥から、彼は睨むようにバルバラを見た。


「うっ、うわぁああん、好きだった、のに……!」


するとバルバラは声を上げて泣き始める。

もともと彼女に対し愛情も持っていないので、ダミアーノはそれを見て心が痛むこともない。

迷惑で役立たずな女だとしか感じないのだ。

銀の野良犬――もとい、それくらい汚らしい伯爵家の子息が、ルチアの足元からもぞもぞと立ち上がる。


「どうぞ、涙を拭いてください」


そして、すっとハンカチを取り出してバルバラに差し出し――。


「あ、やっぱりこっちで! すみません!」


一度引っ込めて別のものを出した。

それを横目に見て、ルチアは微笑まし気にクスリと笑う。

その解しがたい行動の意味を、わかっているとでもいうように。


ルチアは完全に、この男を信じている。

伯爵家の、不釣り合いな家柄の子息、それも変質者である彼に暗示にでもかけられている。

きっとそうに違いないのに、憐れにもこの令嬢は気づかず、救いの手を差し伸べようとしたダミアーノに牙を剥く。

女とは愚かなものだ。


「ああ、かわいそうなルチア様」


ダミアーノの口から、そんな言葉が漏れ出ていた。

文句のない美貌を持つ、品行方正な公爵令嬢。

王族に次ぐ権威を持つ家柄である上、夫婦生活も楽しめそうであるし、妻にするには最良の相手である。

遊び相手には他を当たっていても、家の中に押し込めておけば要らぬことを知る必要もない。

時期が来れば約束された通りに彼のものになり、満足させてやれただろう。

だというのに、邪魔が入って、彼女ごとダミアーノの未来までが台無しにされたのだ。


「その男に騙されているというのに」


ルチアはブランディ侯爵に、そしてモンテサント公爵にも、今回のことを報告するだろう。

それを止める術を、ダミアーノは持っていない。

どうせおしまいだ。

だから、最後に言いたいことを言わせてもらおう。


「その男は、オレを陥れて、今あなたの隣にいるんだ!」


シルヴィオは、何のことかわからないという表情を浮かべて、不安げにルチアの袖口を掴んだ。

人畜無害の気弱な下級生を装った振舞いの裏で、変態行為を繰り返していたことはわかっている。

そしてその行為を暴かれて尚、ルチアが彼を庇うほどに、シルヴィオは女の心を操る術を持っているのだ。

何かの本で読んだことがある。

酷い暴力と、底なしの優しさを繰り返し与えられた女は――。


「ふっ。ふふふふっ、あはははははっ!!!」


ルチアの哄笑に、ダミアーノの思考は遮られた。


「寝言は寝ておっしゃって?」


演技がかった、それでいてまったく本心ではないとわかる笑顔を、ルチアはダミアーノに向けた。

バルバラはそんなルチアに僅かに怯えて距離を取り、シルヴィオまでが驚きに目を見開いて一歩下がる。


「ねえ、ダミアーノ様。女は自分では何もできない生き物だと、お思いなのではなくて?」

「な、何のお話ですか……?」


後ずさりながらダミアーノが問うと、ルチアは一歩詰め寄る。

これは、いつかの再現のようである。


「学習しないお方ですわね。まあ、よろしいですわ」


にこりと美しい笑みを浮かべながら、ルチアはまた一歩、ダミアーノに近づく。

ここまでの経緯を知らなければ、麗しく品のある淑女だとしか感じない、完璧な笑みである。


「敢えて教えて差し上げる必要もないと思っておりましたけれど、気が変わりましたわ」

「な、な、何でしょうか……?」


美しいだけだと思っていた令嬢が、化け物に見え始める。

恐怖と、好奇心。

ダミアーノは御し難い震えに支配されていた。


「ダミアーノ様との婚約、いつかは解消して頂きたいと、ずっと証拠を集めておりましたのよ」

「ずっと……?」

「ええ。ずっと。あなたが初めて、伯爵夫人と不貞を働いた日から」


一歩下がった拍子に、ダミアーノは後ろ向きに倒れて尻もちをついた。

以前と同じ醜態であるが、ルチアへの恐怖は今のほうが勝る。


ダミアーノが伯爵夫人との禁断の関係を始めたのは、シレア学園入学とほぼ同時期である。

その時、シルヴィオはまだ学園にいない。

ならば、婚約破棄に至るまでのことは全て、ルチアの意思だったということか。


「侍女のアガタさんとも、随分と親密になさっていたことを存じておりましてよ? 週末は、専門家の手練手管に酔いしれていらっしゃったことも」


三歳年上の侍女との関係は、伯爵夫人よりもっと長い。

専門家というのは、入り浸っていた高級娼館のことを指しているのだろう。

ルチアはそれほど長い間、直接は何も言うことなく、ひたすらに恨みを募らせていたというのだろうか。


「じょ、女性の嫉妬は……、精神を病むだけの、ものです……! 男は、囲っておけるものでは、ありませんから……。ルチア様は、理想を追いすぎて――」

「あら? まだ反省なさっておられませんのね」


ルチアは秀麗な眉目を和らげ、形良い唇に笑みを深める。

こんな状況でなければ、その様子は麗しいの一言に尽きただろう。


「は、反省なんて……! したところで、どうせオレは、おしまいだ! だから、だから!!」


がばりと立ち上がり、ダミアーノは勢いよく一方向に突進した。


「きゃっ!!」


ストロベリーブロンドの残像がルチアの脇をすり抜けた時、バルバラが小さく悲鳴を上げる。

その影が一直線に向かう先は、銀の髪の――。


ゴキリと嫌な音がして、それは巨体に阻まれた。


「ご無事ですか、シルヴィオお坊ちゃま」

「マッテオ、ご苦労様」


ルチアにマッテオと呼ばれた屈強な大男は、モンテサント公爵家の使用人服を纏ってそこに立っていた。

ダミアーノの腕を捩じ上げ、彫像のように動かない。

いつからいたのか、気配を感じなかった。


「ありがとうございます」


シルヴィオが礼を伝えると、涼しい顔で男は微笑んだ。


「とんでもございません。ようやくお役に立てました」


伯爵家の子息などを守るために、公爵家の使用人が侯爵家の子息の腕を捩じ上げている。

ダミアーノにとっては腹立たしくてならないのに、強い力で押さえつけられ逃れることもできない。


ダミアーノの腕には激痛が走っている。

折られていたら、訴えることもできるかもしれない。

こちらが怪我人となった今ならば、証言より証拠が重んじられ、ダミアーノの主張も――。


「ご安心ください。折れてはおりませんよ。少し脱臼して頂きましたが、お戻しできます」


耳元で囁かれる巨漢の低い声に、ダミアーノはぞっとした。


「私たちがここから去ったら、離してあげて」

「畏まりました」


ルチアが背を向けて歩みだしたのをきっかけに、マッテオ以外の皆もその場を立ち去ろうと歩き始める。


「待て、お前たち、お前たち全員……!」


侯爵家の権威で、どうにかしてやると言おうとした。

しかし、振り返ったルチアの翡翠色の瞳が冷ややかにダミアーノを一瞥した時、何も言えなくなった。

モンテサント公爵家に勝てるわけがない。

それに、ブランディ侯爵家自体も、こうなってはダミアーノを切り捨てるだろう。


ルチアは何も言わず去って行った。

その後をついていく憎らしい銀髪の男の背を睨んで……そして、今更のようにある考えが浮かんだ。

あの男はもしかすると、何もしていなかったのかもしれないと。

ルチアが望んだから、婚約者の座に据えられただけかもしれないのだと。


ダミアーノは、ずっと蔑んできた女性に、してやられたのだ。

庇護されなければ生きていけない、性の捌け口くらいにしか役に立たない、その癖男を簡単に裏切る、女という愚かしい生き物に。

幼い日に見た、知らない男に組み敷かれて甘い悲鳴を上げる、醜い母の姿が脳裏を過り――。


「お泊りのお宿までお送りしましょうか、ダミアーノ様?」


目が笑っていない屈強な大男が、捩じ上げた腕を開放してから、下ろされたそれをまたがしりと掴んだ。

二章第二十九話をお読みくださり、ありがとうございます!

木曜日はすっかり更新時間を忘れていて、事前告知も無く一回お休みしまして、申し訳ありませんでした!!

火曜日にしても、別にクリスマスらしいことをしていたとかではなく、風邪のために家で一人でいたのですが、どうにもぼーっとしておりまして……チェックしてくださった方へは、わざわざ拙作を開いてくださったのにがっかりさせてしまい、大変恐縮です。

しつこい風邪でまだゴホゴホやっておりますが、その勢いでとりあえず修羅場を書きました(笑)

一章ではあまり登場しなかったダミアーノも、これでキャラとしてちゃんと働いてくれたのではないかと思います!

次回は更新時間の忘れがないよう心がけますので、またお読み頂けましたら嬉しいです。

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