第26話 茶番劇への招待状
別荘へは一週間ほど滞在していたが、観劇の日以来ダミアーノと遭遇することなく、滞在予定最終日を迎えていた。
それもそのはず、ルチアたちは私有地から出ておらず、彼もそこまで入り込んでは来られないのだ。
もともと、婚約者とまったり過ごすことが主目的だったこの旅行で、あちこち見て回るという計画もしていなかった。
二人きりの――とはいっても、常にロレンツォを始めとする使用人たちは傍に控えているが――甘い時間を満喫し、休暇前の緊迫したごたごたの疲れも彼らはすっかり癒された。
ルチアは、これといってダミアーノやブランディ侯爵家に対し大きな対策はしていない。
接触した際のダミアーノの様子から、ルチアの気を引こうとする以外に何をしてくるわけでもないと感じられたのだ。
彼が話しかけてきた際には、明らかな嫌味ながら、無礼であると糾弾する隙まではない返しをすることで、いくら口説いても無駄だと悟ってもらおうとするのみである。
ダミアーノだってルチアを本気で想っているわけではないのだから、彼女を口説き続けることが全くの徒労と理解すれば、手を引くだろう。
ルチアが彼に言いたいことはただ一つ、お前ごときに御せる女だと思い込んで舐めるな、ということである。
そんな算段で動いていたことが如何に甘かったか、後悔したのは出立する予定だった日の朝である。
シルヴィオを寝室へ起こしに行った彼の世話係の少年が、蒼白な顔をして既に食堂にいたルチアの元へ駆け込んできた。
そして一言、
「いらっしゃいません」
とか細い声で告げて震えた。
「いらっしゃらないって、シルヴィオ様が?」
わなわなと震えながら頷くこの少年の態度を、ルチアは解せなかった。
シルヴィオが寝室にいなかったとしても、起こしに行くより前に目が覚めて部屋を出たという可能性を、多くの場合は第一に考えるのではなかろうか。
少し探して簡単には見つからなかったとしても、別荘の敷地外を散歩でもしているのかもしれないし、あるいは急激な腹痛に襲われてトイレにこもっているなんてこともあるかもしれない。
ここまで大仰に深刻になることであろうか。
「これを……」
「これは?」
少年が白い封筒を差し出すので、ルチアはそれを受け取った。
「シルヴィオお坊っちゃまの寝台脇に、落ちておりました」
厚さも手触りも申し分のない、良い紙質である。
これが手紙なら、差出人は貴族であろう。
「中を拝見してもよろしくて?」
ルチアが少年に視線を合わせて確認すれば、彼はこくこくと頷いた。
本来その許可を出す権利があるのは、彼の主人であるシルヴィオなのだが、本人不在をいいことに、ルチアはこれで了承を得たということにした。
目の前の少年は、どうやらこれを見て震えているのだ。
ここまでの態度を取られて、その中身を知らずに耐えることはできない。
ベルトロット家の使用人に見くびられない優雅な仕草で、ルチアは便箋を取り出して開いた。
その完璧な公爵令嬢の仮面が崩れるまで、あと数秒。
中に記されていたのは、以下のような文面である。
『前略
貴殿の大切な女性に危機が迫っています。事態は非常に深刻で、急を要します。
わたくしどもは、この件を公にせず彼女の安全を確保する、お手伝いがしたくございます。シエナ湾岸ホテル、303号室にてお待ちしております。
この手紙を読まれましたらすぐ、今夜誰にも告げずに、忍んでおいでください。どなたかに知れますと、彼女が更なる窮地に陥る可能性がございます。くれぐれも、他言なさいませんように。
草々』
宛名も差出人も日付も、わざと省かれているようである。
封筒にも何も記載は無い。
読み終えたルチアは、冷めた目でしばらく紙面を見ていた。
この明らかな罠に素直に嵌ってやるほど、彼女の婚約者は浅はかだったであろうか。
シルヴィオがいなくなっているという事実さえなければ、こんなものは単なる笑いの種である。
つまりこれは、実際にはシルヴィオ宛ではなく――。
「ロレンツォ」
ルチアが優秀な執事を呼んで便箋を渡せば、彼も素早くそれに目を通した。
「シエナ湾岸ホテルへ行くわよ」
「よろしいのですか? これは明らかに、ルチア様をそこへ誘い出すための文面に思えますが」
「ええ。折角の茶番劇への招待状よ? 籠城する私たちに痺れを切らしたあのナルシストが、どんな筋書きを用意したのか楽しみじゃない」
「では、差出人はあの方であるとお考えなのですね?」
ベルトロット家の使用人の耳があるので老執事はこの場では伏せたが、あの方とは言わずもがな、ダミアーノのことである。
ルチアが短く頷くと、ロレンツォもまたモノクルの奥で瞳を光らせて頷いた。
「ならば、マッテオとジーノも同行させましょう」
老執事が挙げたマッテオというのはモンテサント家、ジーノというのはベルトロット家の使用人で、今回連れて来た使用人たちの中でも一際体格が良く、普段力仕事などを主にこなしている。
「良い案だわ」
クスリと上品に微笑んで席を立とうとしたところで、ルチアは蚊帳の外に置かれて戸惑っている少年の存在を思い出した。
「そこのあなた」
「はいっ!」
呼ばれてびくりとし、シルヴィオの世話係の少年は跳び上がって返事をする。
「昨夜シルヴィオ様に、誰か手紙を預かって来たかしら? もしくは、言伝は?」
「も、申し訳ございません! わたくしの思い当たる範囲には何も……」
「そう。なら――」
シルヴィオがいなくなったのは自分の責任であるとでも思っているのか、この少年は始終怯えて震えている。
もしやこの失態を理由にした解雇のみならず、一族丸ごと罰せられることまで危惧しているのかと、思い至ってルチアは憐れみを覚えた。
公爵令嬢というチート設定を持って生まれた自分とは、彼の持つ前提条件は全く違うのだ。
「ご安心なさって。ええと……ファビオ?」
「パジリオです」
「ああ、そうでしたわね、ピエトロ」
少年は一瞬むすっとしたが、すぐに表情を戻して姿勢を正す。
主人の婚約者、しかも仕える家より格上の公爵家の令嬢に対し、“馬鹿にしているんですか!”なんて啖呵を切った日には、解雇どころか比喩ではないほうの首が跳びかねない。
「ふふっ。冗談よ、パジリオ。あなたのことは、シルヴィオ様が普段から褒めていらっしゃるから、存じていてよ?」
上品に微笑みながら、ルチアは宥めるように優しい眼差しをパジリオに向けた。
するとこの少年は、途端に頬を赤くして目を逸らした。
名前の間違いが彼の怯えを取り去るための気遣いであるとわかったと同時に、麗しい貴族令嬢に微笑みかけられれば、青ざめていた顔も赤くなり、震えるほど寒気を感じていた体も熱くなるというものだ。
「シルヴィオ様の秘蔵コレクションを、彼の留守中も隠匿する手助けをなさっているんですって?」
「そ、そんなことまで、お坊っちゃまはお話しになったんですか!?」
驚き慌てる少年が、また違った意味で顔を赤くする。
「ええ。それだけ信頼しているあなたを、シルヴィオ様は結婚後も傍に置くでしょうね。そうなれば、私も少なからずあなたのお世話になることもあるでしょう」
ルチアは公爵令嬢の仮面の上に、最高に優しい笑みを浮かべて見せる。
「よろしくお願いしますわ」
今のこれは作り物の笑みだが、シルヴィオと真に家族になり、彼の傍にいるようになれば、やがてパジリオに対しても本物の笑みを見せる時が来るだろう。
「こ、こちらこそ!」
ブンッと音がしそうな勢いで、パジリオはルチアに深く頭を下げた。
彼の立場が不味くなってもルチアが庇ってやると、言外に彼女が言っているのを察したのだ。
「さあ、まずは使用人を全員集めて頂戴。情報を洗い出すわよ。出発はその後でいいわ」
ルチアがそう言ったのを合図に、さっと一礼してロレンツォが動き始めた。
彼がベルトロット家側の最も位の高い使用人と手早く話を済ませると、使用人から使用人へと気持ちの良いほどスムーズにルチアの命令が伝達されていく。
十分後には、この別荘にいる数十名の両家使用人が、全員一室に集まっていた。
「皆様、お集まりくださって感謝致しますわ。実は今朝から、シルヴィオ様のお姿が見当たりませんの。つきましては、私から確認したいことが数点――」
そう言ってルチアが彼らに投げかけた質問の要点は、大きく二点に絞られていた。
昨夜から今朝にかけての、シルヴィオへの手紙を含む物の受け渡し、そして外部からのこの別荘にいる者への接触全般に関することだった。
「あ、あの……」
ベルトロット家に仕える年若い女性使用人が一人、最初に名乗り出た。
「わたし、昨夜シルヴィオお坊ちゃまに、預かったお手紙をお渡し致しました」
その声は、パジリオの時ほどではないが、やはり震えている。
「ほ、他の方の目に触れないようにと念を押されまして……。お坊ちゃまの大切な方からの繊細なお手紙ということで、てっきり、ルチアお嬢様からの恋文の類かと思いまして……も、申し訳ございませんっ」
そんなにも怯えることだろうか――と考えて、ルチアは以前シルヴィオが登校中に脱走していた際の、ベルトロット伯爵の対応を思い出す。
伯爵は決して悪い人間ではないのだが、良くも悪くも体裁を気にする人物であり、事なかれ主義的な印象を受ける。
彼ならば万が一の時、責任者の筆頭を仕立て上げて首を切り、この出来事を処理したことにするということは、確かにあり得そうだ。
前世のルチアが、自国の悪しき習慣と、常々批判的に見ていたやり方である。
「謝罪は結構ですわ。それより――」
「うっ、うぅっ……」
これはルチアの言い方が悪かった。
彼女は嗚咽を押し殺して泣いている。
「泣かないでくださいませ!? 私は怒っているわけではございませんわ」
美人とはいっても、乙女ゲームの悪役令嬢としてデザインされただけあり、ルチアは多少悪役顔である。
気を付けなければ、その麗しさに棘があるように見えてしまう。
被り甘かった公爵令嬢の仮面を整えて、ルチアはなるべく柔和に見えるように微笑んだ。
「シルヴィオ様は私が見つけ出しますから、誰にも責任は問わせないということを言いたかったのです。当てがございますの。ですから、皆様にはご安心頂きたいんですのよ」
にこりと上品に微笑んで見回せば、不安に怯えていた何人かの使用人は、聖母を見るような安堵と敬服の眼差しでルチアを見ていた。
「この封筒に見覚えが無いか、確認してくださるかしら?」
泣き止んだ先程の使用人に、ルチアはパジリオから受け取った例の手紙を示して見せる。
「こ、これです! わたしが預かったものと同じです!」
彼女はそれを見て一瞬で同じものと判断したが、ルチアの脳内で弾き出された解は――。
(同じ店で買った同じ封筒と便箋を使った、これは二通目。シルヴィオの元へ届けさせた一通目は別にあるはずよ)
「いつ、どんな方から預けられましたの?」
彼女の仕事は確か、馬車馬の世話である。
女性の使用人の中では、庭へ出る機会は多いだろう。
「あれは夕食後しばらくして……昨夜の二十一時頃だったかと思います。お庭の西側の納屋を施錠していた際、後ろから女性に声を掛けられました。お召しになっていたのは、モンテサント公爵家の使用人の給仕服で……」
言いながら、彼女はその場にいるモンテサント家の女性使用人の顔を一通り確認し、困惑を顕わにする。
「この場には見当たらないんですのね?」
「はい……」
「最近どなたか、給仕服を紛失したということは?」
ルチアが問うが、モンテサント家の女性使用人は皆首を横に振った。
「それに関しては暗闇のこと、似たようなものを仕立てることもできるでしょうし、本物だったかどうかもわかりませんわね」
同意を示すように、ロレンツォは黙って瞼を伏せている。
「他に誰かと接触したり、何か受け取った方はいらっしゃらないかしら?」
そこでおずおずと挙手したのは、モンテサント家から連れて来たパティシエである。
「誰かや何かではないのですが、思い返せば不審な物音を聞きました」
「なるほど、それは何時ごろ何処で、どんな物音でしたの?」
――こうしてルチアによる事情聴取は進められ、別荘に滞在していたシルヴィオを除く全員が、この件に関する情報を共有することとなった。
そのこと自体も、この転生悪役令嬢の狙いのひとつである。
(ベルトロット伯爵は、シルヴィオが見つかったなら何もなかったことにするでしょう。けれど、私は……いえ、モンテサント公爵家は違うわ)
この場が解散になり、ルチアが皆に背を向けたとき。
悪役令嬢の不敵な笑みが、そこに浮かんでいた。
二章第二十六話をお読みくださり、ありがとうございます!
木曜日の更新はお休みさせて頂きましたが、愛想を尽かさずまたこうして目を通してくださり、感謝申し上げます。
またペースを戻しての投稿を再開していきたいと思いますので、何卒よろしくお願いいたします!




